『百の溜め息 千の口づけ』
−1−

 いつから、なんてそんな事は覚えていない。
 気がついたら、というのが一番正しいと思う。
 ただ『はっきりと』という修飾語をつけるならば夏。前期が終わる頃だと思う。
 もっとも、ではなぜそんな風に気付いたのかとい言われればそれはひどく曖昧で、本当に気がついたら自分でも驚くほど好きになっていたのだと英都大学法学部3回生の有栖川有栖は溜め息をついて窓の外の青い空を見つめた。
 単調に流れてゆく講義。
 教室の中に響く板書きを写すペンの音。
 これが必修科目で、せめて黒板に書かれた文字だけでも書き写しておかなければ後で泣きを見ると判ってはいても走り出してしまった思考は止まらない。
 今頃、彼は何の講義を受けているのだろうか。
 出会って一年と少し。
 頭が良くて、口が悪くて、整った顔立ちの、女嫌いの友人。
 女嫌い・・・・・・・というよりもどこか人を寄せ付けないような雰囲気のある、他学部で同学年の男は、つかみ所がなく、かと思えば時にこちらが驚くほどお節介になる事を有栖はもう知っていた。
 長くはなく、けれど短いとも言えないような付き合いの中で、彼と他愛のない言い合いをするのも、彼の主張につっかかるように論議をするのも、そしてどこか皮肉げに笑いながらも彼だけが出来うる呼び方で「アリス」と名前を呼ばれるのも、いつの間にかひどく嬉しい事に思えてしまうようになった。
 そうして夏の夜。もう何度も繰り返してきたように彼の下宿に上がり込み、途中のコンビニで買った酒を飲みながら、目の前に座る男の顔を見つめて、有栖は突然、本当に突然という言葉がピッタリするほど何の前触れもなく気付いてしまったのだ。
 彼にとって特別でありたいと思う自分に。
 彼の隣で笑い、彼に名前を呼ばれ、その不器用な微笑みを向けて欲しいと願う自分に気付いてしまった。
 と同時にこの気持ちを『恋心』などと呼ぶ事は決して出来ないのだと有栖は思った。
 この気持ちはどこまでもひっそりと自分の中で隠していかなければならないものだ。 もしもこの気持ちに気付かれてしまったら二度と彼の隣に立つ事は出来ない。
 それは自分の気持ちに驚き、それを現実として受け入れた有栖にとって最重要事項となった。
 今と同じように「アリス」と呼ばれ、どこかに一緒に出掛けたり、下宿に押し掛けたり、そんな他愛のない、けれど今の自分にとって何よりも大切な時間を守る為には、何としてもこの気持ちに蓋をして、隠し通さなければならない。
 だから・・・・・。
 気付いてしまったこの気持ちに一瞬だけ『恋』と言う名前をつけて永遠に封じよう。
 気付いた『恋』を『恋』だと認めただけで凍結させよう。
  酔いつぶれたフリをして畳の上に寝転びながら有栖は誓った。

 彼の隣に居る為に・・・・

 彼と一緒に居る為に・・・・・




 
「アリス!」
 呼ばれた名前に有栖は教室を出た廊下でクルリと振り返った。同時に視界に入って来る見慣れた顔。
「あれ?火村?どないしたんや?」
 確か今日は火村は法学部の方の講義には出ない筈だった。社会学部の方の講義とゼミとで予定がびっしりだと聞いたから食事の約束も入れてはいない。もっとも昼食に関しては“約束”などというきちんとしたものはほとんどした事がなかった。大抵お互いの話の中で忙しいとか、会えそうもないと思えばその時間に学食に行かない。それがある意味での二人の不文律だった。
 だからこんな風にいきなり火村が法学部の方に来て有栖の事を呼ぶなど言うのは初めての事だった。一体何があったのだろう。
 近づいてくる男−−−社会学部3回生の火村英生−−−に向かって有栖は慌てて駆け寄った。
「取りに来ると思ってたらいつまでも取りに来やがらないから届けてやったんだ。いらないのか?」
 呆れたような声と同時に差し出されたのは夏前にどこでなくしたのか判らなくなっていた講義のテキストだった。一年間の必修科目だったので買い直さなければならないかと思っていた矢先だった。まさか火村の下宿に忘れていたとは思わなかった。
 それにしても後期が始まってもう二週間にもなる。これまでに学食でも、また火村が潜り込んでいる法学部の講義でも会っているのになぜ今頃になって届けに来たのか。
 届けてくれるならばもっと早く、下宿先にあったならば一声「忘れていったぞ」とでも声をかけてくれればいいではないか。
 そんな有栖の言葉にならない言葉が聞こえたかのように火村は「まぁ、俺も忘れてて夕べ本の下から発見したんだけどな」付け足すと差し出した有栖の手の上にポンとそれをのせた。
「ありがとう。ところでほんまにこれだけの為にここまで来たんか?」
 そう。火村は忙しいはずなのだ。勿論本人の口から忙しいから会えない等と聞いたわけではないが、新学期早々しばらくは落ち着かないと言っていた。
 だから昨日も今日もその前も学食に行かなかったし、火村の現れそうな図書館にも顔を出さなかった。それは以前図書館で会った同じゼミの人間に対して火村自身がチラリと零した言葉を有栖がしっかりしと覚えていたからだ。
『用もないのに顔を見せて声をかけてゆく神経が判らない』
 その時は「知り合いが居たらとりあえず挨拶はするやろ」と有栖は言ったのだが火村は肩を竦めただけだった。
 この男そういう事が嫌いなのだ。
 有栖はそう理解した。
『でも俺かてきっと君を見たら声をかけると思うで。だって、知らんぷりされたら何かしたんやないかって気になるやん』
 その時ニヤリと笑いながら返された言葉はこうだ。
『へぇ、お前がそんなに繊細な気持ちを持っているとは知らなかった』
『どういう意味や!』
 あの時はまだ自分の気持ちに気付いていなかったからそんな事が言えたのだと有栖は苦いような気持ちで思った。
 今だったらとてもそんな事は言えないし、嫌いだと判っている事をするなんて怖くて出来ないと思う。
 そう・・・。それ以降、火村が嫌だと思っているだろう事に気付く機会が有栖には何度かあった。そうして有栖はそれをしっかりと頭の中にインプットしたのだ。
 今までは聞き流してしまった事も自分でも呆れるような記憶力で思い起こして取り入れて自らのタブーを作った。
 彼の嫌がる事をしない。
 そんな馬鹿みたいな事をしてでも火村の隣に居たいのだと思う自分の愚かで浅ましい恋心に有栖は胸の中で苦い笑いを落とした。その途端−−−。
「おい!自分で話を振って置いてトリップするなよ」
「え・・・ああ・・すまん。えっと・・・それで・・・何やったっけ?」
 有栖の言葉に火村は呆れたような溜め息を付いてゆっくりと口を開いた。
「・・・・・ったく、相変わらずだな。この前会った時、ちょっと様子が変だったから何かあったのかと思っていたんだけど、やっぱりただの休みボケだったんだな」
「・・・え・・?」 
 聞こえてきた言葉が一瞬信じられなくて有栖は思わず言葉を失ってしまった。その様子をいつものニヤリとした笑みを浮かべて眺めながら火村は有栖の手を引っ張る。
「・・ひ・火村!?」
 訳が分からずに裏返った声。けれど突然の奇行の理由は火村本人の口からすぐに出た。
「通行の邪魔だ」
「あ・・・・ああ・・・・そやな・・」
 動き出す思考回路。
 確かに廊下の真ん中で喋っているのは邪魔者以外の何ものでもない。火村に手を引かれるようにして二人で壁際に寄って、そうして次の瞬間、有栖はここ数日会わずにいた男の顔を思わず見つめてしまった。
 すっきりとした鼻梁と黒い瞳。触れた事はないが硬めにみえる黒髪はこの男のシャープさを更に際だたせている。
「アリス?」
「あ・・何?・・」
「お前、本当にどうかしたのか?確かにいつもぼんやりしているけど今日もこの前もおかしいぜ?」
 言いながら覗き込んでくる顔に、有栖はふっと視線を外した。
「・・いつもぼんやりは余計や、アホ」
「的を得てるだろ?」
 クスリと笑うとふわりと彼が好んで吸っているキャメルの香りが鼻を掠めた。
「・・・・・・・・そやな・・・ちょっと・・おかしいかもしれへん」
「アリス?」
「・・っていうか・・・寝不足っちゅうか・・・・」
 外したまま視線を火村はうまく解釈してくれたらしい。
「何だ、煮詰まってるのか?投稿の締め切りはいつなんだ?」
「・・・もうちょっと先なんやけど、ちょっと気になる事が見つかって・・・」
「また日付の間違いでもあったのか?」
「また、は余計や」
 いつものように、いつもの調子で、変わりなく、聡いこの男に気付かせないように。
「今度持って来いよ。赤ペンでおかしいところをチェックしてやるぜ?」
「・・・・・・・・そのうちな。真っ赤に修正されたら立ち直れへん」
「自分をよく分かっているじゃねぇか」
 ニヤニヤと笑う顔。
 それに「うるさい」と声を出して有栖はタッと歩き出した。
 多分これでうまく出来た筈だ。大丈夫、自分はちゃんと隠してやりとりをする事が出来る。
「おい、アリス。どこに行くんだ?」
「次の講義が空いとるから図書館にでも行ってくる」
「ふーん・・・じゃあ一緒に行くか」
「次の講義は?」
「休講」
「へぇ・・」
 並んで廊下を歩きながら有栖は先程の言葉を頭の中で反芻していた。
『この前会った時、ちょっと様子が変だったから何かあったのかと思っていたんだけど・・』
 それだけの言葉がひどく嬉しかった。
 この男にそんな風に気にして貰える自分で居続けたいと思った。
 そして・・・・・・・。
「なぁ・・・」
「ああ?」
 窓の外に映る、青い空。次の講義が始まったせいかひどく静かな廊下に響く足音。
「・・・心配してくれたんか?」
「・・・・アリス?」
 立ち止まった足に胸が痛んだ。そうしてそれを気取られまいと有栖はニッコリと音がつくような笑みを浮かべてクルリと振り返った。
「したら、睡眠不足の友人に眠気覚ましのコーヒーでも奢ってくれへん?」
 自分が踏み込んでいいギリギリの所できちんと線を引くようにわきまえて。
「・・・ふざけるな、馬鹿。心配かけて悪かったから奢るの間違いだろ?赤ペンチェックしてやるからこれ以上間違いを増やす前に見せろよ」
「馬鹿って言うなって!」
 友人としての自分。
 それだけでいいから。
 祈るように胸の中でそう呟いて、有栖は再び前を向いて歩き出した。

続くのよぉぉ・・ごめん



 
えーっと・・・・う・・海ちゃん待たせたのに続きでスマン。・
・・っていうかこの設定絶対長くなるって(T^T)
腹括って連載の形を取りました。まぁ・・・こういうのもたまにはアリか・・・な・・(;^^)ヘ.. 
次回は火村の方の気持ちを探ってみようかと・・・・。