『百の溜め息 千の口づけ』
−4−

「よぉ」
 階段教室の後ろから数えた方が早い位置に座っていると掛けられた声。
 火村ではないのは声で判った。
 講義開始時間まで後3分。社会学部の講義が伸びているのだろうか。それとも今日はこの講義に来ないのだろうか。そんな事を思いながら振り返ると声をかけてきた同じゼミの沢渡がニヤニヤと笑っているのが見えた。
「何?」
「何やないで。それは俺が訊く方。一体何をそんなに物思いに耽ってたんや?悩み事なら聞くで?」
 軽いノリの軽い言葉。
 けれどそんな口とは裏腹にこの男は軽いタイプの人間ではない事を有栖は知っていた。
 もっともだからと言って今、胸の中に抱えているものを口に出せる訳ではない。
「何言うてんねん。それよりえらい久しぶりやないか。ゼミも来たと思ったらいつの間にか消えとるし。またバイトに明け暮れてたんか?」
「まぁな。夏に使った分また貯めなあかんやろ?冬に使うんやし」
「また登るんか?」
「おお」
 ひどく楽しげに頷いて沢渡はストンと有栖の隣に腰を下ろした。
 法学部に在籍をし、有栖と同じゼミに所属するこの沢渡勇という男は山登りを趣味にしている。
 もっとも有栖から見ればすでに趣味の域を超えているとしか思えないのが実状である。
 沢渡は一人暮らしだが、アパート代と学費は親が出してくれているのだと以前何かの時に有栖に聞かせてくれた。だから驚くほどの数のバイトで稼いだ金は僅かな生活費を差し引けば残りは全て登山資金へと流れてゆくのだ。そしてそのバイトが今回のように肝心の講義よりも優先される事が少なくない。
 勿論有栖とて人の事は言えない内職をしていた事もあるのだがその比ではない。
「なぁ先週のノート貸してくれるか?」
 いかにも山男という風ではなく、ヒョロリと背の高い、何処か飄々とした印象のある沢渡は人好きのする笑顔を向けてそう切り出した。
「・・・・これの?」
 指し示したこれから始まる講義のテキスト。けれど彼はニッコリと笑ったまま首を横に振った。
「ううん。全部」
「あのなぁ・・・」
「いやぁ・・とりあえずゼミだけは顔を出したんやけど後は全部バイトに当ててしもうたんや。代返利くのは全部やっておいてもらったんやけどノートの方はあかんかってん」
 サラリと言っているが内容は結構とんでもない事だと思う。
「・・・・・俺まともに取ってないのもあるで?」
「ええよ、取ってあるとこだけで」
「わかった。この後コピーするのでええか?」
「うん」
 そこまでで講義開始時間になった。
 けれど教授はまだ来ない。
 そして、火村も姿を見せない。
 僅かな沈黙。
 チラリと視線をドアに走らせた有栖を見ていたかのように、沢渡は何か他愛のない事を思いついたとでも言う様にポツリと口を開いた。
「・・俺さ、もしかしたら休学届け出すかもしれへん」
「え!?」
「まだ、誰にも言うてへんねん。親にも、友人にも」
 「有栖川が最初や」と微笑う沢渡に有栖は僅かに眉を寄せた。それに気付いて沢渡はまた小さく笑った。
「深い意味はないねんで。さっきさ、何やえらい悩んだ顔しとったやろ?それ見たら悩んどるのは俺だけやないんやなって思って、こんな言い方嫌かもしれんけど俺ホッとしてしもうたんや。せやから、お返し。いや、お礼?悩んどるんわ有栖川だけやないんやでって」
「・・・・」
「・・・外したかな?」
 少しだけ恥ずかしそうな表情を浮かべた友人に有栖は小さく首を横に振った。
「ありがと・・」
 ドアが開いて教授が入ってくるのが見えた。
 ガタガタとテキストを出す音や、有栖たちと同じように友人達と話をしていた者が前に向き直る音が聞こえて
講義が始まる。
 火村は来ない。
 何かあったんだろうか?
 自分が行かなかった昨日、火村は学食に来ていたのだろうか。それともその前日と同じように来なかったのだろうか。
 とても、とても忙しいのだろうか。
「・・・・っ・・」
 その瞬間、後ろのドアがゆっくりと開いて、スルリと見慣れた顔が入って来るのが見えた。
 火村はサッと教室を見回して、一番後ろの、ドアに一番近い椅子に腰を下ろした。
 勿論講義が始まったこの時間に有栖の所に来られる筈がない。何より今日は有栖の隣には沢渡が座っている。
 一瞬だけ合った瞳に『遅いで、アホ』という様な視線を送って、有栖はホッとしたように前を向いた。
「・・・・なぁ・・」
 その途端ボソリと聞こえてきた声。
「ん?」
「今入ってきた奴ってお前と親しい社会学部の奴だよな」
「うん」
「さっきそこでえらい美人を振ってた」
「・・・・・へぇ・・」
 トクンと胸が鳴った。
「不機嫌を絵に描いたような顔で「誰とも付き合う気はない」ってさ」
 モテる奴は言う事も違う等と妙に感心をしながらボソボソとした声は途切れた。
 耳に入ってくるのはマイクを通した教授の声と、時折書かれる板書きの音とそれを書き写す学生達のペンの音だけになる。
 けれど・・・・
『誰とも付き合う気はないってさ』
 たった今聞いたばかりの沢渡の声が有栖の脳裏に甦った。
 そうなのかという安堵の気持ちと共にその奥にそうなのかという失意に似た気持ちがある事を有栖は感じていた。
 好きだと気付いた事を忘れて、今まで通りに付き合ってゆく。それはなんて難しい事なのだろう。
 忘れなければ、隠さなければと思うほど反比例するように好きだと思う気持ちが強くなる。
「・・・・俺はどうしたいんやろ・・」
「・・何?」
 漏れ落ちてしまった有栖の声に沢渡が訝しげな顔をしてそっと耳を寄せてきた。
「・・・ごめん。何でもない」
「・・・・・」
 耳を素通りして流れてゆく講義。
 サラサラとペンを走らせる音がしてトントンとノートの端を沢渡が指し示した。
『今度飲みに行こう。ノートのお礼に奢る』
「・・・・・・・」 
 ジワリと胸が熱くなった。
 不覚にも涙が出そうになった。
『割り勘にしてくれ』
 そう汚い字でその下に綴ると『助かります』と再び返事が返ってきた。
「・・・・っ・・・」
 なんだか小学生か中学生にでもなった気分だと有栖はノートに残された走り書きの文字を見つめた。
 とにかく、この講義が終わったら火村に後期の時間割を聞いてみよう。
 そしてそれがうまくいったら赤ペンチェックを覚悟で原稿をもって下宿を訪ねていいか聞いてみよう。
 大丈夫。
 うまく言える。
 今まで通り意識をせずに、けれど火村のタブーを踏まないように付き合ってゆく。
 それに慣れてゆく。
 何かの呪文のように心の中で呟いて、有栖は今度こそ板書きを書き写す為にペンをしっかりと握りしめた。

けれど、そんな自分の様子を火村がじっと見つめていた事に有栖は気付けなかった。



ううう・・・遠い遠い道のりや・・・・修羅場の前にオリキャラが入っちゃったよ・・・
長くなるパターンだ・・・・あうううううう・・・・
まだ続く・・・・・・・辛い(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)