『百の溜め息 千の口づけ』
−5−


 十月に入ると季節は加速度的に秋へと移行してゆく。
 妙に暑いと感じる日もあれば、驚くほど冷え込む日もある。
 また一日の中でも最高気温と最低気温の気温差10度以上等という言う日もざらにあり、その寒暖の差が落葉樹の葉を急速に鮮やかな色に染め上げてゆくのだ。
 街中には気の早い紅葉目当ての観光客をちらほらと見かけるようになってきた。
 それに応えるかのように一本だけ真っ赤に染まった楓の葉。
 通り沿いのキャンパスの垣根から覗くその紅に足を止めて見上げ小さく溜め息をつくと火村は上着のポケットからキャメルを取り出して口に銜えた。
“火村、この後昼飯食うやろ?俺ちょっとノートのコピーを頼まれたんで先行っててくれるか?”
 昨日、潜り込んでいる法学部の講義が終わった後で駆け寄って来た有栖に自分も寄る所があるからと言ったのは火村自身だった。
 あの時の有栖の顔が忘れられない。
 有栖は驚いたような、傷ついたような、それでいて何かを耐えるようなそんな不思議な顔をした。
 そして次の瞬間、どこか引きつるような笑みを浮かべて「そうか」と背中を向けたのだ。
「・・・・・・」
 カチリと点けた火。
 小さく息を吸って、吐いて、火村は今出川通りの歩道を再びゆっくりと歩き始めた。
 あの後、結局有栖が学食に来る事はなかった。
 当たり前だ。火村自身が有栖の誘いを断ったのだ。
 いくらその後で言ってしまった事を悔やんで待っていたとしても有栖がやってくる筈がない。
 馬鹿な事を言ったと思う。
 特に寄る所などあったわけではなかったのだ。
 ただ開口一番に有栖が自分以外の人間の用事を優先させるという事が面白くなかった。
 認めたくはないが間違いなくそういう気持ちだったのだろう。他人事の様にそう考えて眉間に皺を寄せると火村は歩く足を速めた。
 あの時・・・「そうか」と小さな笑みを隠すように向けられた背中に、火村は自分自身がそう仕向けたにも関わらずひどい罪悪感と、それでいてなぜそんなにあっさりと引くのか等と理不尽以外の何ものでもない軽い苛立ちを感じて更に苛立った。
 駄々っ子と一緒だ。
 思い通りにならずに癇癪を起こす“ガキ”以外の何ものでもない。
 キャメルをふかしながら眉間の皺を更に深くして火村は持て余すようにして抱えている、けれどおそらく、きっと捨てる事の出来ない感情に苦い笑みを落とした。
 途端にハラリと灰が風に飛ぶ。
“おい、灰皿は?”
 聞こえてくる声。
“あるか、そんなもん”
“威張って言うんやない”
 記憶の中にいくらでも転がっている他愛ない会話。それはこんな風に小さなきっかけがあれば簡単に記憶の引き出しから飛び出してくる。
 今年の火村の誕生日に有栖が差し出したプレゼントは携帯用の灰皿だった。
 「随分お手軽なプレゼントだな」と言うと「相手の必要なものを送る。これがベストや。値段やなくて気持ちの問題やろ」と笑って言い返してきた。
 誕生日にプレゼントを贈られるなど随分久しぶりの事だった。
 そう、有栖はいつだってひどくたやすく火村の心に入ってきた。もっともそれを本人が自覚していないというのがまた有栖らしかった。
 そんな有栖がおかしくなった。
 火村がその変化に気付くのは簡単だった。
 何故か・・・・。
「・・・・・・・」
 短くなったキャメルを有栖から貰った携帯用の灰皿に押し込んで火村はすぐに新たなキャメルに火を点けた。 判っているのだ。
 判って、持て余して、けれど捨てられずにいる。
 火村は有栖がおかしいと感じ始める前からそれに気付いてどうする事も出来ずにいた。
 そして夏休み明けにやはり間違いなく有栖がおかしいと確信した時、自分の気持ちも自覚せざるおえなかった。
 何故そんなに一人の友人の変化が気になるのか。
 顔を合わせなかった事で苛ついたり、不機嫌になったり、心配になったりするのか。
 そして何故それを面倒だと切り捨てる事が出来ないのか。
 答えは一つを指し示していた。
───有栖だからだ。
 これが有栖でなかったら自分はこんな風に振り回される事はなかった。有栖だからその変化に気付き、どうかしたのか考え、苛つき、心配している。
 そしてそんな風に考えている自分に気づかずに他人と話をしている有栖を許せないとさえ思う。
 どう考えても普通の『友人』という枠からは確実にはみ出している、行きすぎた感情だ。
 けれどそれがどうしたと思う自分がいる。
 出会って一年と半年近く。真っ直ぐに向けられる瞳を、言葉を、失いたくないどころか独占したいと思っている紛れもない『欲望』。
 自覚して導き出した答えはおよそ自分には似つかわしくない、一生縁がないとさえ思っていた『恋』という単語だった。
 自分は有栖に恋をしている。
 有栖川有栖という男を好きだと思っている。
 それなのに・・・。
「・・・・馬鹿か・・」
 それなのに出てきた言葉はあれで、近づいてきた有栖を遠ざけてしまった。今時中学生でももっとうまくやる。
 門をくぐってキャンパスの中に入り、まだ青い、けれど明らかに夏の鮮やかな緑とは違う葉の間から見える少し曇った空を見て火村はフゥと溜め息をついた。再び浮かんでくる昨日の情景。
 有栖は、入ってきた自分に気付いてホッとしたような瞳を向けてきた。
 けれどその横には何度か見かけた事のある男が座っていて、前に向き直った有栖に何かを囁いているのを見えた。思い出しただけでもむかつく光景だ。そしてそのむかついた気持ちのまま有栖に八つ当たりをした。
「・・・・・・」
 2本目のキャメルも吸い終えて、火村はチラリと腕時計を見た。
 十時少し前。午後からは雨だと言っていたので自転車ではなくバスで来たら妙な時間に着いてしまった。
 一瞬学食を覗いてみようかと思ったがまさかこんな時間にいる筈がない。勿論今日は行くつもりでいるのだが
朝からそんな所で待ち伏せをするなどというのは性に合わない。それならこの間のように有栖が出ている筈の講義の場所を調べてそこに行ってしまう方が早い。
 掲示板を確認して休講がない事を確かめると火村は図書館に足を向けた。
“他に寄る所があるんだ”
“・・そうか”
 壊れたテープのように何度も何度も繰り返し浮かんでくる記憶は後悔と懺悔の証だ。
 今日有栖は学食に来るだろうか。
 昨日の事をどう切り出したらいいのだろうか。
 有栖自身と同様におかしくなり始めているこの関係をどうすればいいのだろう。
 そもそも有栖は何を抱えて、考えているのだろう。  もしかして火村自身が自覚する以前にその気持ちに気付いて有栖はおかしくなってしまったのだろうか。
 普段はどうしてこれで推理小説を書いているのだろうと思うほど鈍感なのだが、有栖は妙なところで勘がいい。
 好きだという火村の気持ちに戸惑い、離れたいとさえ思っているのだろうか。
「・・・チッ・・」
 小さく舌打ちをして『疑心暗鬼』という言葉を地で行く思考回路を断ち切ると火村は図書館に入り以前あたりをつけていた本の棚に向かった。
 そうして棚からそれを取り出して空いていた椅子に腰を下ろす。
 開いた本。
 今ひとつ内容が頭の中に入ってこないままそれでも字面を追って火村はページを捲る。
 パラパラと何ページほど進んだ頃だろう。何となく視線を感じて時計を見る振りをしながら本から顔を上げると視界の端に有栖の姿が入った。
 けれど有栖は火村が自分に気付いた事は判らないようで声をかけるきっかけを捜している。
 2限開始の15分前。
 少し話をして後で学食で落ち合う約束を取り付けるには十分な時間だ。会話の中で何気なく昨日は悪かったと
謝る事も出来るかもしれない。
 広げていた本を閉じ、カタンと椅子から立ち上がると火村は今度こそしっかりと顔を上げた。
「!!」
 視界の中に有栖の姿はなかった。
 今見たものは幻だったとでも言うように消えてしまった有栖に火村は本を持ったまま慌てて戸口の方に向かった。周りに座っていた何人かの学生が迷惑そうに眉を顰めたけれど勿論そんな事に構っている暇はない。
「・・・・何なんだ・・」
 出入口の手前で火村は茫然と声を落とした。
 有栖は幻ではなかった。
 ドアから出てゆく後ろ姿。
確かに有栖はいたのだ。火村に気付いて、火村を見つめ、声をかけようとして、そして何も言わずに言ってしまった。
“知り合いが居たらとりあえず挨拶はするやろ?俺かてきっと君を見たら声をかけると思うで。だって、知らんぷりされたら何かしたんやないかって気になるやん”
 またしても溢れ出す記憶の断片。
けれど、でも、有栖は何も言わなかった。
 向けられた背中がまるで自分を拒否されているような気がして火村は持っていた本を叩きつけたい衝動に駆られた。
 あの背中に大声を出せば間に合ったかもしれない。
 今とるのものもとりあえず追いかければ間に合うかもしれない。
「・・・・何を考えているんだ?」
 苦い口調でそう呟いて、火村は投げるのを押し留めた本を棚に戻して図書館を出た。
 すっかり雲で覆われてしまった空。
 どうやら下宿の大家が言っていた通り午後から雨が降りそうだ。南の方に台風が来ているのだと天気予報が言っていたと彼女は下宿生達に告げていた。
 少し遅いやや季節外れの台風。
「・・・アリス」
 自分たちの所には何が近づいてきているのだろう。
 そんな事を考えた自分がおかしくて、ひどく歪んだ嗤いを浮かべると火村は社会学部の棟に向かって歩き出した。



いよいよリクエストの通り火村が回り始めました(笑)
最初有栖が回っちゃったので「うわーん!リクとちがうー!!」と思ったのですが、はっはっは・・
心配なかったねって(;^^)ヘ..
次はいよいよ修羅場???素面で告白って・・・辛いですねぇ・・・・・(; ;)ホロホロ