『百の溜め息 千の口づけ』
−6−


「・・・・俺、何を怒らせたんやろ」
 ポツリと呟いた声は自分でも驚くほど小さかった。と同時に情けないという気持ちと奇妙なおかしさが込み上げてきて、有栖はテーブルの上に肘をつきながら目の前のカレーライスを行儀悪くスプーンでつついた。
 昼になるのを待ちかねてやってきた学食に、けれど火村の姿はなかった。
 後期が始まって1ヶ月。有栖にとってみれば忙しいと言っていた火村の邪魔をしないようにする事と、何より夏の始まりに気付いた自分の気持ちを整理する事が出来ないまま、ただそれを気付かれないようにするだけで精一杯だった。
 ところがそうこうしているうちに季節は『秋』と呼ばれるものに変わり、気付けば火村との関係は信じられないほどギクシャクしたものになってしまっていた。
 ただ側に居たいと思っていただけなのに、それすらが出来ない。まさに『本末転倒』という奴である。
 しかも火村の機嫌は確実に下がっている。
 何をどう怒らせてしまったのか昨日は学食に誘ったのに用事があると断られてしまった。
 あれは正直辛かったと有栖は思う。
 だから今日の朝、図書館で偶然火村を見かけた時に以前の会話を思い出して声をかける事が出来なかった。
 用もないのに声をかけるな等と言われたらそれこそ立ち直れなくなってしまう。
「・・・・・」
 本当に癖のようになってしまった溜め息が口をついて零れ落ちる。
 以前はこんなではなかった。
 ひどく臆病になっている自分がいると思う。
 こんな自分は自分自身でも嫌だった。
 だから火村も嫌になってしまったのだろうか。
 鬱陶しくて、面倒だと思われてしまったのだろうか。
「・・あかん・・・思考が暗過ぎる・・」
 少し冷めてしまったカレーを口に入れて有栖はモソモソと口を動かした。
 どうすればいいのだろう。
 火村は確実に有栖の様子がおかしい事を気付いている。もっとも聡い男だからそれは当然と言えば当然かもしれない。有栖自身が自分の言動に戸惑っているのだ。火村にそれが判らない筈がない。その証拠に『何かあったのか?』と後期が始まって何度か訊かれた。
 けれど勿論それに答えるわけにはいかなかった。
 答えられるくらいならこんな事にはなっていない。
 再び漏れた溜め息。そうてしふと有栖はもしかしてそれが原因なのだろうかと思った。
 もしかして、もしかすると、悩み事を言わない有栖にそれくらいの付き合いなのだと火村自身が有栖の中における自分の位置を自分で勝手に決めてしまったのかもしれない。
 火村は自分自身を相談を持ちかけられる存在ではないのだと割り切ってしまった。
「・・・・・・」
 悩んでいる胸の中で、その考えはひどくしっくりと有栖の不安の中心に納まった。
 もしも、もしも本当にそんな風に火村が思ってしまったとしたら・・・。
「・・・がう・・」
 止まらなくなってしまった思考に思わず漏れ落ちた声。違うのだ。決してそうではない。火村に言っても仕方がないではなく、火村だから言えないのだ。
 けれど勿論火村自身がそれを理解出来る筈がない。
 だとすれば・・・。
「・・・どないしたらええねん・・」
 泣き出したいような気持ちになって有栖はカランと皿の中にスプーンを置くと両手で顔を覆ってしまった。
 もしかしたら自分は取り返しのつかない間違いを犯しているのかもしれない。
 このままでは好きだと言っても言わなくても、火村を失ってしまう事になる。
 だからといって、それならばどうしたらいいというのだろう。
 ドクンドクンと耳の奥で鳴り響く鼓動。
 頭の中を『どうしたらいいんだろう』と言う言葉がグルグルと際限なく回る。
 『どうしたら』『どうしたら』『どうしたら』・・・火村を失わずにすむのだろうか?
「おい」
「!!」
 飛び込んできた声に有栖は慌てて顔を上げた。
「具合が悪いのか?」
「・・・・あ・・」
「アリス?」
 変わりない、名前を呼ぶ低い声。
「具合が悪いのかって訊いてるんだよ、聞こえてるか?」
「き・聞こえてる。大丈夫。えっと・・・・こ・・コショウの固まりがあったんや・・。きつかった」
 どうしようもない言い訳に火村は「先に気づけよ」と呆れたようにそう言って自分用に持ってきたらしい水をトンと有栖の目の前に差し出した。それを手にとって有栖はコクリと口に含む。
 喉を流れ落ちてゆく冷たい感覚。
 勿論有栖はコショウの固まりなど食べていなかった。 けれどそれ以上に、苦くて苦しい固まりを飲み込んだままどうにも出来ないでいる。それでも顔を見て、変わりなく名前を呼ばれただけでこんなにも嬉しくなってしまう。
「アリス?」
「!」
 名前を呼ばれて自分が泣いている事に気付き、有栖は慌てて俯いた。
「・・ご・ごめん・・」
「うがいでもしてくるか?」
「いい。平気・・。ごめんな」
「・・いや」
 そう言うと火村は持っていたトレーをテーブルの上に置き、向かいの席に腰を下ろした。そうして何事もなかったかのように持ってきた丼を食べ始めた火村に有栖はおずおずと口を開いた。
「・・何食うてんの?」
「ああ?玉子丼。バイト代がまだ出ないからちょっときつくてな」
「バイト、家庭教師の?」
 確か夏休みの前にそんな事を聞いた気がする。
 けれど火村はあっさりとそれを否定した。
「あれは辞めた。もともと夏の間って期間限定だったから引き受けたんだ。物覚えが悪すぎて殴りたくなってストレスが溜まる」
 本気でそう思っているのだろう。その言い方がおかしくて有栖はクスリと小さく笑って皿の中に放り投げてあったスプーンを拾い上げた。
「おい、大丈夫なのか?」
「何が?」
「コショウ」
「・・・・そんなに幾つも入ってないやろ?」
 言いながら有栖は泣いて赤くなってしまった顔を隠すようにしてすっかり冷めてしまったカレーを口に入れた。やはり熱くないとあまり美味しくはない。
 するとその表情をどう取ったのか火村は持っていた割り箸を置き、ぶっきらぼうに口を開いた。
「替えてやる・・」
「え・・?」
「これと取り替えてやるからそっちを寄越せ。俺は間違ってもコショウの固まりを食べるようなドジはしねぇからな」
 ニヤリと笑う見慣れた表情。
「・・・・悪かったな」
「正直者だろう?」
 言うが早いかトレーを取り替えられて、目の前に来た2−3程になっている玉子丼に有栖の目から止まっていた筈の涙が零れた。
「アリス?」
「・・・・・」
「おい、そんなにカレーが良かったのか?」
「ちゃう・・」
「お前、本当におかしいぞ。どうかしたのか?」
「・・・何でもない・・」
「・・アリス」
 言った途端短く呼ばれた名前につい先程考えついた事が頭を過ぎった。
 せっかくこんな風に話が出来るようになったのにまた昨日のようになってしまうかもしれない。
 それは嫌だ。
 すぐさま出てきた答えに有栖はポツリと口を開いた。
「・・何か・・こんなの久しぶりで・・君・・忙しいって言うてたから・・・。俺・・何か怒らせる様な事したかなぁって・・思うてたから・・」
 言っている事は聞いている人間にとっては繋がりがなく滅茶苦茶だったが、有栖にとってはかなり本音に近いものだった。
 言ったそばからこんな事を言って嫌われないだろうかという考えが浮かんでは消えてゆく。
 ドクンドクンと早まる鼓動。
 けれど・・・。
「・・・忙しかったのはお前だろう?」
「・・え・・」
 聞こえてきた言葉は有栖が考えてもみなかった言葉だった。
「俺は一日おきには確実にここに顔を出していた。来なかったのはお前の方だ」
「・・・・嘘・・せやって忙しいって言うたから」
「忙しかったさ。だけど飯は食う。当然だろう?学部は違っても講義の時間は同じなんだから多少前後はしても時間は重なる。まぁ、バイトとか、ゼミがある時はバラついたけどな」
「・・・・・・・」
 これは都合の良い夢なのではないかと有栖は思った。
 少しだけ素直になって言葉にすれば、こんなにも見えてくるものがある。
 何だか自分だけが回って不安になっていた。
 勿論自分が抱えている気持ちを気付かれてはいけないのだが、我慢をするとか、変わってゆく事に慣れてゆくとか、そんな事ではなくただ変わらずにいればいいのだと思える自分がここにいる。
 どうしてこんなに簡単な事が見えなくなっていたのだろう。
「おい、黙るなよ」
「あ・・うん・・・俺・・後期に入って時間割が変わったやろ?でも全然頭になくて。でももしかしてうまく会えないのはそのせいかってようやくこの前思い当たって・・俺、俺な、昨日君の時間割を聞こうかと思うてたんや」
「・・・思い当たってって・・後期が始まってどれだけ経つと思ってんだよ」
「後期っていう感覚はあったんやけど、思考がそこについていかんかったや。俺は多少時間割が変わってるのがあったんやけど、火村が変わってるかもしれへんて思われへんかった」
「・・・・・ったく・・お前らしいよ・・」
「・・・どういう意味や」
「そのまま理解してくれていいぜ?」
「・・どうせとろいって言いたいんやろ!」
 フンと横を向くといつの間に食べ終えてしまったのだろうカレーの皿を横にずらして火村はクスリと笑いながらキャメルを取り出して口に銜えた。
 それを見ながら有栖は残りの玉子丼を掻き込む。
「喉に詰まるぞ」
「子供と一緒にすんな!」
「コショウの固まりを食べた奴に言い返す資格はない」
「あのなぁ」
「でもまぁ、ある意味“当たり”だよな。そんなのがあたるなんて凄い確率だろう?」
 言いながら綺麗に食べ終えた皿をわざわざ見せる男に有栖は胸の中で「俺かて食うてへんわ!」と声を上げてガタンと椅子から立ち上がった。
「おい?」
「コーヒー買うてくる。飲むやろ?」
「奢りか?」
「・・・・バイト代が出たら奢り返してもらう」
「ケチ」
「・・・火村はいらないと」
「判ったよ。バイト代が出たらな」
 返ってきた答えにフワリと笑って有栖は歩き出す。
 その後ろ姿を眺めて煙草を燻らせながら火村はどこかホッとしたような気持ちになっていた。
 今朝、図書館で見かけた時は有栖がここに来ているかどうか不安だった。
 何しろ昨日の今日で、今朝の一件だったのだ。
 らしくはないと判ってはいても、考えれば考えるほど思考は暗くなってゆく。
 けれど、有栖は来ていた。
 そして会えなかった事を気にしていた。
 勿論有栖がおかしくなったのはその前からで、その理由も、何を悩んでいるのかも、何一つ判ってはいないのだけれど、会えなかった事を気にしていたのが自分だけではないのだと判っただけでも今日の成果はある。
「・・・・・」
 ユラリと揺れる紫煙。
 だがしかし、火村はこれで満足するつもりは更々なかった。
 有栖が何かを悩んで、隠しているのは判っている。そして自分がそれをそのままにしておける人間ではない事も火村は十分に判っていた。
 自分は有栖が好きなのだ。
 有栖が何を悩んでいるのか。
 何を隠したがっているのか。
 今までの付き合いの中で、有栖が妙に頑固な一面がある事は判っていた。無理矢理に聞き出そうとしても無駄で、下手をすると殻に引きこもってしまう恐れもある。
 だから慎重に事を運ばなければならない。
「・・・・らしくないな・・」
 他人に対してこんなにも執着を覚える日がくるなんて自分自身でも信じられないと火村は思う。。 
 自分の事を棚に上げて、有栖の全てが知りたかった。 例え火村自身が有栖に言えない事があったとしても有栖が火村に隠し事をしているのは嫌なのだ。
 エゴイスト、独占欲・・・
 大切にしたいと思う側から泣かしても全てを手に入れたいと思うこの気持ちは確かに『恋』以外の何ものでもない。
 もっとも、それを告げる日が来るかどうかは別の話だと火村は自嘲的に笑って短くなったキャメルを灰皿の上に押しつけた。ついで「遅いな」と呟くように口にして有栖が歩いて行った方に顔を向ける。
「・・!・・」
 途端に寄せられた眉。
 視界の中で有栖は二つのコーヒーを手にしたまま昨日教室で隣にいた男と話をしていた。
 自分以外の人間に向けられている笑顔。
「・・・・・」
 ギリリと胸が痛む気がした。
 ひどく冷めて、冴えてゆく頭。
 そんな火村の変化に気付かずに有栖は笑いながら2言3言言葉を交わすと火村に向かって歩いてきた。
「お待たせ」
「・・遅かったな」
「あー・・うん。そこで昨日ノートをコピーした奴に会うて、今度飲みに行こうって話をしてたから。はい、コーヒー」
 差し出されたコーヒーを受け取って火村は2本目のキャメルを取り出して口に銜えた。
 猫舌の火村はすぐにコーヒーを飲まずに煙草を吸う。
 それは有栖にとって見慣れた光景だった。
「なぁ」
「ああ?」
「あのさ・・えっと・・バイト忙しいんか?」
「・・アリス?」
 突然飛んだ話題に訝しげな表情を浮かべた火村を見て有栖は慌てて言葉を繋いだ。
「この前、って言うても随分前やけど赤ペンチェックするとか言うてたやろ?進んだところまでちょっと見てもらおうかなと思って」 
 言いながら何処か緊張をしているような有栖に火村は長くなった灰をトンと灰皿の上に落としてふぅと白い煙を吐き出した。
「いいぜ。バイトがないのは今日、明日、次は来週の火曜ってとこかな。後はまだ決まってない」
「え・・えっとじゃあ明日」
「判った。講義が終わるのが5限だから。そっちは?」「・・えーっと・・」
 ガサガサと鞄を漁り始める有栖に火村は呆れたように口を開いた。
「お前、自分の受講時間位把握しておけよ」
「わ・判っとるけどまだ新しい時間割に慣れないんや!」 そう言ってワタワタと手帳を取り出す有栖から視線を外すと火村はようやく冷めてきたコーヒーを一口だけ飲んでチラリと先程の男がいたテーブルを見た。
「あ!4限や、4限!したら図書館で続きでも書いて待っとるわ」
「判った」
 短く答えて頷くとニコニコと有栖が笑った。
 それを眺めながら湧き上がってくる暗い独占欲。
 盗むようにして見たテーブルにはもう先程の男はいなかった。
 ユラユラと揺れる紫煙。
 不思議な模様を描いて消えてゆくその白い煙を見つめて、火村は再び冷めたコーヒーに手を伸ばした。



なんだかやっと二人揃って一緒にいるって感じだわ。
交互に書いてきたからホッとする。
ようやく佳境に入ってきたって感じでしょうか。
ふっふっふっ・・・・