『百の溜め息 千の口づけ』
−7−

沖縄あたりに停滞をしているらしい台風に影響を受けて活発化している秋雨前線が降らせているという雨は、昨日の天気予報通りに午後から降り出し、そのまま朝になっても止まずに降り続いていた。
“気温が下がるらしいから暖かい恰好をして行った方がええ言うてましたよ”
 今朝もその天気予報を見たのだろう。テレビで気象予報士が言っていた言葉を出かけてゆく下宿生達に伝える大家に「ありがとうございます」と口にして火村は今日も自転車を置いてバスで大学へと向かった。
 昨日はあの後それぞれの講義に向かうため学食で別れた。
 「じゃあ、明日」と言う有栖に「ああ」と短く言った後「明日はゼミがあるから」と付け足した火村に有栖は一瞬だけポカンとした顔をして次にひどく照れ臭そうな笑みを浮かべながら「判った」と口にした。
 多分時間がずれて来られるかどうか判らないという意味が伝わったのだろう。
 考えてみれば前期の間も、そして去年もこんな事をわざわざ伝えなくても顔を合わせる事が出来た。
 お互いに忙しくなってきたと言う事もあるが、言葉にしなければ会えないと言うのは自分たちが知らない内に変わってしまった証拠なのだろうか。それとも言葉にして約束を取り付けてまで会いたいのだと思う自分が居るからなのだろうか。
 埒もない事を考えながらバス停まで来ると丁度銀閣寺方面からバスがやってきた。傘を畳んで乗り込むとムッとするような湿気に思わず眉を顰める。
 走り出したバス。
 窓を打って流れてゆく雨。
 有栖はもう大学に着いているだろうか。
 それとも今日は1限からではないのだろうか。
(重症だな・・・)
 すれ違っていた時間が自覚してそれ程時間が経たない感情を煽っている。そんな気がした。
 本当に、らしくないと火村は思う。。
 このままこんな気持ちを抱えていたら、そう遠くない未来に自分は有栖を傷つけてしまうかもしれない。
 告げるつもりがないと思いながら確実に感情がエスカレートしてゆくのが判る。
 隠している事を知りたいと思う気持ちも、他の人間に向けられる笑顔に覚える怒りも、どう考えても幼い独占欲だ。何度も思ったようにあまりにも『ガキ』くさい衝動である。けれどそれでも切り捨てる事は出来ないのだ。
 ガタンと揺れるバスにつり革を握り直すとふと向けられる視線に気がついた。
 チラリと見ると講義で見かける女が話をするきっかけを探しているような視線を送っていた。
 途端にうんざりしたようなひどく面倒くさい気持ちになって火村は窓の外に視線を固定させる。
 流れてゆく雨の滴の中で歪んで映る風景。それを自身の気持ちに投影している自分がおかしくて思わず零れ落ちた苦い笑いに火村は小さく俯いた。
 そうこうしているうちに着いた大学前のバス停。
 声をかけられる前に素早く降りて火村は足早に歩き出す。
 そう。本来の自分はこういう人間だ。
 他人に干渉される事も、他人を自分のテリトリーに入れる事も好きではない。けれど、有栖には何故か自分の方から声をかけていた。始めから他の人間に対するものとは違っていた。
「・・・・・・・」
 傘に当たる雨の音。
 いつもより大きめの、ノイズのような音の中で火村はふと記憶をたぐる。
“その続きはどうなるんだ?”
“!”
 向けられた驚いたような眼差し。
 全く今思い出しても自分らしからぬ、信じられないような記憶である。
 なぜ書いていた原稿を読んでしまったのか。
 なぜムッとしたように立ち去ろうとする有栖に声をかけたのか。
“あっと驚く真相が待ち構えてるんや”
 そしてまた、帰ってきた有栖の答えも奮っているものだと思う。
「・・・あいつらしいよな・・」
 クスリと小さく笑って、どうも今日有栖が来るという事に浮かれているらしい自分を自覚しながら火村は社会学部の棟に入るとパッと軽く傘についた雨を払ってそのまま廊下を歩き始めた。
 辿り着いた教室。
 声をかけてくる何人かの人間にそれぞれ返事を返して火村はテキストを机の上に出しながら昨日ああ言ったけれど何となく有栖が待っている様な気がして多少時間がずれても学食に顔を出してみようと思った。
 古今東西『恋をすると馬鹿になる』と言われているがよもやまさか自分がこんな感情に捕らわれるとは思わなかった。
 微かに浮かんだ、苦いけれどひどく甘い笑み。
 それを偶然にも見てしまった女達が驚いたように顔を見合わせた等という事は火村にとっては全く関心のない事だった。
 始まった講義。
 響く板書きの音と学生達のペンの音。



 そうして昼。
 ゼミの合間を抜けて学食に顔を出した火村は、予想通り有栖と会った。
 けれど、有栖の口から出てきた言葉は火村の予想をまるっきり覆すものだった。
混んでいる学食の中、有栖は火村を見つけるとひどく嬉しげな顔で手を振った。
 そして近づいてくるとホッととしたような表情を浮かべてこう言ったのだ。

「来てみて良かった。あのな、すまんけど今日の約束来
週の火曜にしてもええかな?」

 
 瞬間、火村の胸の中に冷たい、怒りにも憎しみにも似た感情が湧き上がった−−−−−−。



ゲラゲラ・・・いい具合に回っていると思うのは私だけでしょうか?
やっぱり20くらいだと火村も若いよね。さぁ次はまた有栖だわ・・・