単純な恋 1

「・・春かぁ・・・・」
 ふくらみかけた桜の蕾と、その中でお義理程度にパラパラと開いた臼紅色の花。
 一分咲きにも満たないような細い枝の間から覗く朧月を見上げて、大阪在住の推理小説作家有栖川有栖は、どうやら明日は雨が降ってしまいそうだと思わず落胆にも似た溜め息を零した。
 これで又開花が遅れてしまうに違いない。
 そんな事を思ってふと脳裏を寄切った顔。
『お前の場合は花より団子だろう?』
 そうして次の瞬間、おそらくニヤリと笑ってそう口にされるだろう言葉が耳の奥に聞こえた気がして、有栖は僅かに眉をひそめた。
 そういえばこのところ連絡がこない。
 もっとも連絡を取っていないのはお互い様なのだが長年の友人であるあの男は今頃何をしているのだろうか?
 飼い猫たちをからかって遊んでいるのだろうか?
 それとも例によって本や資料に囲まれて忙しい時間を過ごしているのだろうか? 
 ぼんやりと夜空を眺めたまま有栖は止まっていた足を再びゆっくりと動かし始めた。
 ふわりと頬を撫でる夜の風はまだ少し冷たい。
「・・・ほんまに失礼な奴や・・」
 想像の言葉に、呟くように返した独り言。
 それに重なる、ガサガサというコンビニのビニール袋が鳴る音を聞きながら有栖はもう一度空を見上げた。
 途端に視界に入る、少しだけ滲んだような白い月。
 歩調に合わせてゆらゆらと揺れる、物言わぬそれを見つめながら、有栖は自分の中に沸き上がる感情を追い始めていた。
「・・・・・・・・・」
 この思いをはっきりと感じたのはもうどれほど前になるだろうか。
 おそらく、その思いはその時よりもずっと以前から有栖の胸の奥にあったのだろう。
 もしかしたら・・・多分・・きっと、初めて出会った時にすでに芽吹き始めていたのかもしれない。
 けれど、有栖自身さえも気づかなかったそれは、ある日突然、胸の奥の奥底から溢れ出して明確な形を取り始め、有栖にその事実を突きつけた。
 そう・・・あの夜・・・・。
 大学を卒業して、作家への道を捨て切れないまま選んだサラリーマンの世界。
 たとえどんな道でも平坦な道はない。
 それが分からないほど自分は子供ではない。
 意に添わなくても、それでも何でも自分が選んだ道なのだ。それも納得している筈だった。
 それでも時折身体の内から押さえつけようとする気持ちを食い破る感情に、有栖は久しぶりに火村の住む北白川の下宿を訪れた。  学生時代からの友人であり、母校の社会学部に残って助手をしている火村英生は有栖の突然の来訪に驚きながらも変わらぬ笑みを浮かべて迎え入れてくれた。
 ただわずかに眉を顰めるようにして「お前ちゃんと飯を食っているのか?」と言い、手製の卵粥を振る舞ってくれた−−−−−・・・


『火傷するなよ』
 そう言って火村は読んでいた本に視線を戻した。
 その横顔を見つめながら有栖は、ゆっくりと卵粥を口に運んだ。
 静かに流れる穏やかで暖かな時間。
 そしてその次の瞬間、有栖は突然ポロポロと泣き出してしまったのだ。
『どうした?』
『何でも・・な・・』
 勿論何でもないわけがない事など、火村には分かり切っていた筈だった。
 作ってもらった卵粥を食べながら泣き出すなんて、誰がどう考えても普通であるわけがない。けれどそれ以上の言葉での追究を止めると、火村は机の上のキャメルに手を伸ばした。
 そうして取り出した煙草を口に銜えてカチリと火を点ける。
 ゆらりと立ち上る紫煙。
『・・・・・君は・・変わっとらんな・・』
『・・アリス?』
『・・うらやましい・・・』
『・・・おい・・酔ってるのか?それとも卵粥で酔える体質だったのか?』
 ふわふわと白い煙が部屋の中を漂う。
 嗅ぎ慣れた煙草の匂いと、耳になじむバリトンに小さく笑って有栖は再び苦い表情を浮かべた。
『・・・・俺・・変わったかなぁ・・』
『・・ああ?』
『・・変わりとうないなぁ・・・』
『・・お前・・食わねぇならもう寝ちまえよ・・』
『変わり・・とう・・ないわ・・』
 それはどういう意味で口にした言葉だったのか、有栖自身にも分かっていなかった。
 まるで駄々っ子のように大人になりたくないのだと言っているのか、今の現実に埋もれてしまいそうな自分自身が嫌だったのか、それとも、夢を失ってしまいそうで不安になってしまったのか・・・。
 ただその時の有栖が、唯一はっきりと分かっていたのは一度聞き流してくれた筈の言葉を引き戻してまで自分がそれを火村に言いたかったのだと言う事だけだった。
『・・・・・・』
 訪れた、押し潰されてしまいそうな沈黙。
 そして次の瞬間、火村は吸いかけのキャメルを灰皿に押しつけて、フゥと白い煙を吐き出した。
 ドクンと鳴った鼓動。
『どうせ変わるならもう少し自己管理が出来るように変わって欲しいもんだな、アリス。そんな青白い顔をして人の所に来やがって何が変わっただ、この馬鹿!どうせ今だって仕事の合間に原稿を書いているんだろう?恐ろしいほど変わってないじゃねぇか』
『失礼な奴やな!俺は仕事の最中に原稿なんか書いてへんわ!!』
『当たり前だ。仮にも作家志望なんだろう?<合間>と<最中>の区別くらい付けろ馬鹿。大体もしもそんな事をしてたら変わってない以前の問題だ。・・ったく・・それで?今度の締め切りはいつなんだ?』
『火村・・?』
『だから性懲りもなく書いているんだろう?持ってくるなら見てチェックを入れてやってもいいぜ?』
『・・チェックって・・』
『そりゃあ勿論、そそっかしい誰かさんが馬鹿みたいな間違いをしていないかとか、最悪トリックが成り立ってないとか・・』
『あのなぁ!トリックが成り立ってなかったら話自体どうにもならんやないか!あー、ムチャクチャ腹が立つ!!今度来る時に持ってきてやるから驚くんやないで!』
『へぇ・・そりゃ楽しみ・・』
 本当にそう思っているのか疑うような笑みを浮かべて火村は再び新たなキャメルを銜えて火を点けた。
『ホンマやからな!こうなったら絶対にアッと言わせたる!!!』
 その途端、プッと小さく吹き出した火村に有栖は思わず訝しげな顔を向けた。
『おい・・・』
『・・ったく・・全然変わってないじゃねぇかよ。お前のどこが変わってるってぇんだ?』 『あ・・・』
 クスクスと耳をくすぐる笑い声と、ふわふわと揺れる白い煙。
『変わらなくていいよ』
『火村?』
『お前はそのままで居ろよ』
 言いながら伸ばされた指が、ひどく優しく有栖の髪に触れた。
 再びトクンと鳴った鼓動。
『あ・・あの・・』
『変わるなよ・・』
 クシャリと長い指が髪を掻き回して離れる。
『・・・・・・』
 それはどこか呪文のような響きを持った言葉だった。
〈変ワルナヨ・・〉
 訪れた沈黙。 重なる視線。
『まぁ、もっとも進化はしないと困るけどな』
『!!俺はピテカントロプス並か!!!』
次の瞬間、火村の笑い声が部屋の中に響いた−−−−−・・・


「・・・・やっぱりまだ上着は手放せんな・・」
 春と呼ぶには幾分冷たい風が吹いて、有栖は思わずジャケットの前を合わせた。  
 途端に手にした袋がガサリと大きな音を立てる。
 それから何年かして、有栖は推理小説作家になった。
 そしてその後、火村は社会学部の最年少の助教授になった。
 あの時、有栖は火村が居てくれて良かったと心から思った。
 そうして、多分・・・火村でなければ駄目だったのだとも思った。
 その夜から何度も何度も胸の中に浮かんだ疑問。
 なぜ火村の所に行ったのか。
 なぜ彼の言葉にこんなにも安心してしまえたのか。
 そして、なぜ・・彼でなければ駄目だったのか。
「・・・・・・・・」
 コンと靴の先に当たって転がってゆく小石。
 答えはしばらくしてから分かった。
 おそらくあの夜はきっかけだったのだ。
 この思いを知るきっかけの日。
 幾度も考えて出したその答えは、ひどく有栖自身を驚かせたけれど、同時に悲しくなるほど納得出来るものだったのだ。
 そう・・・・自分は、火村が好きなのだ。
 ずっとそばにいたいと思うほど。
 浅ましくても、こちらを向いていて欲しいと願うほど有栖川有栖は火村英生の事を好きになっている。
「・・・・アホやな・・ほんま・・・」
 勿論、この思いを火村に告げることは出来ない。
 自分も男で、火村も男なのだ。
 自分たちは《親友》という言葉の上にいる。
 それ以上でもそれ以下でもない。
 だから、この思いに春が訪れる事はないのだ。
 この気持ちは、この胸の中に永遠に凍結しておかなければならない。
 彼の隣に居る為に・・。
 ただ、居続ける為に。
 もう何年もそうしたように、これからもそうしてゆくのだ。
「・・ほんまに恋愛小説家にならないで正解やったな」 
 クスリと零れた苦い微笑み。
 そうして有栖は手にしていたコンビニの袋を握り直すと、ようやく目の前に見えてきたマンションに向かって又少し歩調を早めた。