単純な恋2

「ああ!?何やて?」
 受話器を握りしめたまま思わずあげてしまった声。
 それに一瞬間をおいて、有栖の耳に呆れたような声が響いた。
“だから明後日は仕事が入った”
「それは、予定をキャンセルするっちゅう事なんか・・」
“それ以外の何に聞こえるんだ?”
「!!!ちょっと待て!それやったら寝ずに原稿を上げた俺の努力はどうなるや!?」
“それはもう、お疲れさまって事で”
「火村!」
“うるせぇな。仕方がないだろう?俺だって好き好んで予定をキャンセルしているわけじゃないんだぜ。このくそ忙しい時期に嬉しくもない定例会とやらに教授の代理として出席させられるんだ。これでお前にまで責められたら立場がないどころの騒ぎじゃねぇよ。とにかく、又今度連絡する。その時は奢りでも何でもしてやるから拗ねるな”
「・・・・拗ねとらんわ」
“そりゃ良かった。聞き分けのいいお友達を持って幸せだぜ。じゃあな”
 半分疲れた様な言葉とともに切られた電話。
 それに半ば自棄クソに受話器を置いて有栖は目の前のカレンダーに付けられた丸印を思わず睨みつけた。
「アホんだら・・・」
 そう・・大体明後日の日程を決めたのは火村の方なのだ。やっと学校の方が一段落をしたので久々にどこかに飲みに行こうと言う火村の誘いに、けれど有栖は「うん」と首を縦に振るわけには行かなかった。
 締め切りがある。
 そう言った有栖に火村はチッと軽い舌打ちをして、いつまでなのか、今の状況はどうなのかと尋ねてきた。
『じゃあ来週の火曜だな』
『火村!?』
『それ以降になると俺の方が忙しくなる。来週の火曜の夜に迎えに行ってやるからそれまでに終わらせろよ』
『火曜って・・あと5日しかないじゃないか!』
『成せばなる。成さねばならぬ何事もって言うだろ?たまには担当者孝行をしてやれよ』それが僅か3日後にはこの始末である。
「・・・・鬼の編集者よりも恐ろしい奴やな・・」
 原稿は奇跡とも言える勢いで先ほど終わっている。
 あとはもう一度読み返しをして、フロッピーを珀友社の片桐宛に送れば翌日には人の好い担当者から「有栖川さんどうしたんですか!!」という誉めているのか何なのかと言った電話がかかってくるだろう。
「ほんまに・・俺の、この健気な努力をどないしてくれるんや・・・」
 愚痴る様にそう呟いて、有栖はクルリと踵を返すとリビングのソファにドカリと腰を下ろした。
 漏れ落ちた大きな溜め息。
「サイテー・・・」
 ポッカリと空いてしまった時間。
 一緒に居るというその事が、どうしてこんなにも難しいのだろうか。
「洗濯でもしろってか・・・」
 そう、勿論やる事がないわけではない。何しろつい数時間前までは修羅場だったのだ。
 とりあえず睡眠不足を解決して、その後の事はもう少し気持ちの整理がついてから考えよう。
 そう思って立ち上がったその瞬間、有栖の耳に再び電話のベルが聞こえてきた。
「なんや、あいつあんまり悪いと思って反省したのか?」
 現金にも思わず緩んだ頬。
 云いながら慌てて取った電話に先程までの落ち込みは何処へやら、有栖は軽快に口を開いた。
「はい、もしもし?キャンセルのキャンセルか?先生」
『は・・?』
 けれど、聞こえてきた声は有栖の予想とはかけ離れたものだった。再び下降する気持ち。が、しかしそんな事を言っている場合ではないのだ。
『あの・・・』
「!!は・はい!!すみません!」
『そちらは有栖川さんのお宅でしょうか?』
「はいそうです!」
『私、相馬と申しますが』
「!・・相馬さん!?」
 その途端、有栖の脳裏にひどく柔らかな微笑みを浮かべる男の顔が浮かんできた。 『思い出していただけましたか?ご無沙汰しておりました。お元気ですか?』
「はい!あ・あの・・お久しぶりです・・こちらにいらしてるんですか?」
『はい、出張で。もしも有栖川さんのご都合がよろしければ久しぶりにお会いできたらと思いまして』
「都合も何も大歓迎ですよ。実はたった今予約を蹴られたところです」
『それはそれは・・私にとっては有り難い事ですが・・』
 受話器から聞こえる幾分笑いを含んだような声。
 それに有栖も又小さく笑い返して。
「こうなったら何処へでもお供しますよ」
『それは頼もしい。それじゃあ、浮気の予約でも取り付けさせて下さい』
 そうして次の瞬間、たっぷりと茶目っ気を効かせた男の言葉に、有栖は今度こそ吹き出すようにして笑い出してしまった。