単純な恋3

『俺の努力はどうなるんや!』
 耳に残る3日ぶりに聞いた友人の声。
 それに思わず顔を顰めて、火村はぬるいコーヒーを口に流し込んだ。
“火村!”
 瞬間、脳裏に浮かぶ見慣れた笑顔。
 学生時代から驚くほど変わらない、有栖川有栖という不思議な名前を持つ友人は、推理小説家などという職業についている為か、はたまた生まれ持つ性格なのか、仕事が立て込んでくるといわゆる<人間らしい生活>から逸脱してしまう事が多い。
 食事はレトルトか、出前を取って食べていればいい方で、時には栄養失調で倒れるのではないかという事になっていたり、洗濯・掃除の類は言うに及ばず、果ては睡眠時間を削れるだけ削るという暴挙に出る。
 以前1度だけ、5日で2時間の睡眠時間だと聞いた時は、火村は本気で殴りつけて眠らせようとさえ思った。 
 勿論今はさすがにそんな無茶な事はしなくなった(寄る年波だと言うと本人はいたく怒るのだが・・)が、しかし、そこまではひどくないと言っても有栖の締め切り前の修羅場は相変わらず存在しており、火村はそんな友人の生活を立て直すべく、フィールドの誘い以外でも有栖の仕事の状況を見計らって連絡を入れ、食事を差し入れたり、どこかに連れ出したり、時には自ら食事を作りに行ったりと、間違っても栄養失調等で病院に担ぎ込まれないように気を付けてきたのだ。
 それが今回はうまくいかなかった。
 電話の様子では今回の修羅場はそれ程ひどいものではなかったようだが、会えない事には変わりない。
「・・・・・っ・・」
 思わず漏れ落ちた小さな舌打ち。
 先程の電話で仕方がない等と言ってはみたものの、実際はこの始末である。
 何だかんだとお互いに時間がとれず、気づけば半月以上も会っていないのだ。
 過去には1ヶ月近く、それ以上会わない事もあったし今回はまだ電話で連絡を取っているだけでもマシなのだが、どうにも感情が納得出来ない自分が居る。
「・・・・ったく・・あの馬鹿・・食い物くらいちゃんと食えってえんだ・・・」
 多分・・気になっている理由は、期限を区切って急がせたのが他ならぬ自分自身だからだと火村は思った。
 本当ならばマンションの方に出掛けていって世話を焼くのでも良かったのだが、それを実行するには今の時期火村には時間が無さ過ぎた。
「・・・・ったく・・」
 イライラとしたように同じ言葉を繰り返して、火村はキャメルを銜える。
『俺の努力はどうなるんや!』
 再び耳の奥で繰り返された言葉。
「・・・・・クソッ・・!」
 そしてその次の瞬間、教育者にあるまじき言葉を口にして、火村は手にしていたキャメルをすでに満杯状態の灰皿に押しつけると、ガシャガシャと白髪交じりの髪を掻き回した。
 これではどうにもこうにも仕事にならない。
 チラリと視線を走らせた腕時計の針は3時を少し回っている。
「・・・・っ・・」
 二度目の舌打ち。
 とにかく・・今日ある程度仕事を片付けたら夕陽丘に向かおう。
 どうせ相手は昼も夜もないような生活をしているヤクザな職業の人間だ。
 何時になっても文句は言われまい。 
 例え何かを言っても寿司折の一つでも持って行けば文句は現金な笑顔になる事は十中八九間違いない。
 泊まることをせずにとって返して、明日多少無理をすればどうにかなるだろう。
「・・・始めからこうするべきだったな・・」
 苦い笑みを浮かべながら、火村はもう一度キャメルを取り出して口に銜えた。
 火を点けるとユラリと浮かぶ白い煙。
「・・・・感謝しろよ、アリス」
 有栖が聞いたら怒鳴り出すような言葉を呟いて・・。
 そうして今度こそ目の前の仕事に集中すべく火村は広げた資料に目を落とした。