単純な恋4

「ああ、ほんまに相馬さんや。えーっと・・半年・・もっと経ちますか?」
「いえ、そんなものだと思います。ご無沙汰してました」
「いえ、こちらこそ」
 お互いに深々と頭を下げて、次の瞬間プッと同時に笑い出す。
 その目の前のテーブルに、一足先に来た相馬が頼んでおいたのだろう牛肉のカルパッチョだの、帆立のムニエルだの、子羊のローストだの、本日の魚介類の煮込み・ナポリ風だのという料理が次々と運ばれてきて、有栖は思わず感心したような声を上げてしまった。
「こんな店、よぉ知ってましたねぇ」
 落ち着いた雰囲気の、バーと言うよりは食事にメインを置いたような店。
 かといって勿論レストランではない。
 その店内の数少ないテーブル席は満席で、カウンターの空きも有栖が訪れてからの僅かな時間の中で、ほとんど埋められてしまった。
「ええ。よくこっちに来る同僚に教えてもらったんです。うまくて、安くて、料理も酒も楽しめるってね」
「へぇ・・・今度いい店があったら俺にも紹介して下さい」
 半ば本気の有栖の言葉に相馬はクスリと笑って、目の前の白ワインを有栖に勧めた。
「でも、有栖川さんもお変わりなく・・と言うより少し痩せられましたか?」
「そうですか?ああ、もしかすると修羅場明けだからかなぁ・・」
 言いながらコクリと飲んだワインはよく冷えていて酸味の少ない、飲みやすいものだった。
 それにひどく気をよくして、有栖は目前の料理に手を伸ばす。
「うまい!うまいですよ、これ!!頼んでいただいたものを先にいただいて何ですけど相馬さんもどんどん食べましょう!!」
「ええ・・でも、有栖川さんそれだったら却ってご迷惑だったんじゃないですか?」
「何でですか?誘っていただいてほんまに嬉しかったですよ。それにちゃんと昼寝はしてきましたし、ここで眠り込んで迷惑をかける事もないと思います」
「いえ、そんな事くらいなら全然迷惑にはなりませんよ。でも・・」
 小さくなる言葉。それに有栖はとんでもないという様小さく首を振って口を開いた。
「そんな風に言わんといて下さい。こっちの方が恐縮してしまいますよ。電話でも言いしたけどちょうど約束を蹴られたとこで、あのままやったらきっと飲んだくれてふて寝がいいところでしたね。さすがに修羅場明けにそんな事をしたらどうなるか位は、今ならちゃんと分かります」
 その言葉は、少し照れた様な、けれどどこか自嘲的な色を含んでいた。
 僅かな沈黙。そして・・・・。
「・・・それなら、誘った甲斐があります。本当にここの料理は旨いんですよ。カクテルの方も種類が多いので修羅場明けの先生の胃が壊れない程度にどんどん食べて飲みましょう!」
「はい!」
 そうして次の瞬間口に入れた【本日の魚介類の煮込み・ナポリ風】と言う長い名前の料理は頬が緩むほどおいしかった。


 相馬明人と言う男と有栖が出会ったのは、2年ほど前の大阪の小さなバーのカウンターだった。 その日もやはり火村の事でえらくナーバースになっていた有栖は以前偶然見つけたそのバーで一人でグラスを空けていたのだ。
 そこに声をかけてきたのが相馬である。
 始め有栖は自分が声をかけられているとは思わなかった。そして次に自分は男に誘われるようなタイプの人間に見えるのだろうかと頭を抱えたくなった。
 そうして次に、火村のことを思っていることが、赤の他人から悟られてしまうほどあからさまに出てしまったのだろうかと羞恥と自己嫌悪に悲鳴を上げてしまいたくなった。
“私はそう言ったような・・その・・男性から声をかけられるような、そう言う人間に見えるんでしょうか?”
 有栖のどこか意を決したような、そして辛そうな、それでいてひどく真剣な問い掛けに相馬は一瞬驚いた様に言葉を失って、次にゲラゲラととても初対面の人間とは思えない勢いで笑い始めた。
“あ・・・あの・・”
“ああ・・申し訳ありません・・そう言うことはないと思います。でも・・”
“でも・・・?”
 繰り返された言葉に男はひどく優しい笑みを浮かべた。
“思わず声をかけてしまったのは、もしかすると私もそう言う人間だからなのかもしれません”
“え・・・?”
“私も、男が・・と言うわけではなく、好きな彼がいます”
 それは普通に考えればひどく普通でない言葉だった。
 けれど相馬明人と言う人間はそれを当たり前の様に口した。
“私のそんな気持ちが、貴方が隠していた気持ちに気づかせた、というのはナンパの理由にはなりませんか?”
“・・・・・・・”
“貴方はどこかその人に似ていたんです。容姿とかそう言うのではなくて。だから失礼にも声をかけて驚かせてしまいました。すみません”
“いえ・・そんな・・”
思わずグラスに落とした視線。
そして次の瞬間、相馬は有栖の気持ちをスルリと言い当てたのだ。
“・・・その恋は苦しい恋なんですか?”
“え・・?”
 ドクンと鼓動が大きく跳ねた。それを知ってか知らずか、相馬は更に言葉を続ける。
“私は、私の不用意な一言でいなくなってしまった恋人をずっと捜しているんです”
“・・・あの・・”
 ドクンドクンと早まる鼓動。
“あの・・これは・・”
“はい?”
“この気持ちはおかしいなものだとは思いませんか?” 
 それは多分有栖がずっと誰かに聞きたくて、自分以外の誰にも聞けずにいた問いだった。
 真っ直ぐな有栖の視線に相馬はどこか労るような色をたたえた瞳を向けた。
“誰かを好きになるっていう気持ちにおかしいもおかしくないもないでしょう?”
“ほんまに・・・?”
“あるのは、その人を好きだという気持ちだけだ”
“・・・・ありがとう・・ございます・・”
 その瞬間、有栖は泣き出したくなって、そして、どこか救われた様に不思議な感覚に陥ったのだった。


 相馬の言った通り、食事は料理も酒もとてもおいしくて、有栖はワインから“お勧め…”とあったウオッカをベースにグレープフルーツを加えた【アクア】と言うカクテルに変えて、ゆっくりとグラスを傾けていた。
「それで、相馬さんは今回どれくらいこっちにいられるんですか?」
「ちょっと大がかりなプロジェクトなので、2週間ほど滞在して、一度戻って又来ます」
「大変やなぁ・・ああ、でもそれやったら又誘ってもらえますね」
 にっこりと笑う有栖に相馬はまるで困った弟を見守る様な兄のような視線を投げて、ジントニックの入ったグラスを口に運んだ。
「でも、有栖川さんは私よりも一緒に行きたい人がいるでしょう?」
「・・・・・・・」
 途端にむっとなる顔はひどく幼い。
 有栖が自分よりも2歳年上だと知った時は正直ひどく驚いたと相馬は思った。
「相馬さん、ちょっと会わんうちにえらいいけずになったんちゃいますか?」 
「そうですか?」
 シレッとそう口にして、相馬は笑う。
 それを見つめながら有栖は反撃とばかりに口を開いた。
「そんな事より相馬さん自身はどうなんですか?」
「・・・そうきましたか・・・お陰様と言いますか、お生憎様と言いますか、半年前、と言うより2年前からほとんど進展はありませんねぇ」
「なら、相変わらず行方知れずなんですか?その・・前から思うてたんですけど興信所とかに頼んだりしては」
「腹違いの弟を捜してくれととでも言うんですか?」
「・・・・あ・すみません・・」
「いえ、いいんですよ。有栖川さんが純粋に心配して下さっているのはよく分かっていますから。でも、これは私の我が儘なんですが、誰かの力を借りるのではなくて私自身の手で見つけ出したいんです。それが、ひどい言葉で傷つけてしまった彼に対しての私のけじめでもあり謝罪でもあると思っているんです。それにね、有栖川さん。私は結構楽天家なんです。多分きっと、あいつは私の事をどこかで見ていて、出てくる時期を考えているんだって。だから、反省して、ちゃんと謝れる心の準備をして待っていよう。そう思っています」
「・・・・相馬さんは強いなぁ・・」
「有栖川さん?」
「相馬さんの恋人が羨ましいわ・・」
「何言ってるんですか。そう言う有栖川さんはどうなんです?さっきの約束云々の様子だと進展はなしって事ですか?」
からかうような相馬の言葉に有栖はクシャリと顔を歪めて【アクア】をグイッと煽るとそっと口を開いた。
「進展も何も、変わりませんよ。私自身がそれを願っているんですからそれでいいんです」
「本当に?」
「・・・ええ。何かを言うて壊れてしまうような関係ならいっそ・・と考えられるほど私は人間が出来てないんですよ。それでも何でもどうにもならなくてもいいから側に居たいと思ってしまう、そんな意気地なしです」
「そんな風に自分をいじめるもんじゃありませんよ」
「・・・・・そう・・ですね。でも・・・いいんです。今のままで。今のままでさえいられたら他には何も望まない」
「・・・・伝えてみればいいのに・・」
「え・・・?」
「伝えるだけでも駄目ですか?それを言うだけで関係が変わってしまうものなんですか?」
「・・・・・分かりません。もしかしたらあいつは変わらずにいてくれるかもしれない。でも、変わってしまうのは多分私自身です。それを告げて尚、何もなかった様に側にいられる自信は・・・ないです」
 カランとグラスの中で小さくなった氷が音を立てた。
「ああ・・すみません。こんな話になって。・・・呆れられましたか?」
「いいえ」
「・・良かった。こんな話出来るのは相馬さんだけやから相馬さんに呆れられたらどないしようかと思った」
 ホッとしたような有栖に相馬はもう一度小さく笑う。
「呆れたりしませんよ。何たって有栖川さんと私は同胞ですからね。でもいつか・・・いつか、お互いに朗報を聞かせられるといいですね。希望的観測は忘れないようにしなければ人間進歩がありませんから」
 それは、いつか、どこかで聞いたような台詞だった。
 思わずクスリと漏れた笑い。
「そう・・ですね。そうなる事を願って」
「ああ、何だか楽しくなってきた。そうしたら有栖川さんにはちゃんと紹介しますよ。彼が私の愛している人ですってね。だから、有栖川さんも紹介して下さいね」
「相馬さん!?」
「約束ですよ」
「とんでもない!そんな事出来ませんよ!!」
「何でですか?ああ、それだったら、彼の方に自己紹介をしてもらいましょう。私が有栖川の恋人ですってね」
「!!!止めて下さい。そんな事を言われたら心臓発作を起こして死んじゃいますよ!」
 言いながら、赤くなったり、青くなったりする有栖に相馬は一瞬ポカンとして、次に思い切り笑い出してしまった。
「有栖川さん」
「はい?」
「それは、これ以上ないって位のノロケですよ」