単純な恋5

 相も変わらぬ、本と雪崩落ちる様な資料に占拠された研究室。
 煙草の煙で燻煙しているようなその部屋のドアを開けた途端、英都大学英文科の講師ジョージ・ウルフは、形の良い眉を寄せて、次の瞬間部屋の主に断りもせずに窓を開いた。
「おい、資料が飛ぶ」
「資料よりも自分の身体の方を心配した方がいいと思います。ついでにスプリンクラーが作動しない様に気を付ける事も忘れずに」
 流暢な日本語を操る英国紳士はそう言って窓際でクルリと火村に向き直る。
「そりゃどうも。ご忠告感謝しますよ。それで?何の用だ?」
「用がなければ友人の研究室を訪れてはいけませんか?」
「・・おい・・?」
「ジョークです。そんなに怖い顔をしないで下さい、ヒム」
 にっこりと笑う碧眼。多分不機嫌な火村の前でこんな事が出来るのは有栖を抜かせば彼だけだろう。
 同僚であり、火村の数少ない友人の一人であるジョージはそう言いながらもう一度窓の外に視線を移した。
「お茶を誘いに来たんですよ。誰にでもティーブレイクは必要です。ああ、気持ちがいいですね。桜が終わると今度は眩しい新緑の季節。日本は本当にいい国だ。そう思いませんか?」
「生憎その素晴らしい時期に忙しいことが多すぎてそれどころじゃないね」
「それは残念。では今日は日本の美しさについて語り合いながらお茶を飲みましょう。おいしいアールグレイとマドレーヌを戴いたんです」
「・・おい、本気で言ってるなら叩き出すぞ」
 低く唸るような火村の言葉にジョージは嫌味にならない動作でひょいと肩を竦めた。
「何かありましたか?」
「・・・主語がないぞ、英文科」
「ヒムのオーラが恐ろしくて、誰も近づけないとすごい噂になっていますよ。そんな事だと受講者にも影響が出るかもしれません」
「そいつは結構。純粋に講義を聴きたい奴だけが残るなんて有り難くて涙が出るね」
「そう言うのをアマノジャクって言うんですよ。きっと」
 何処でそんな言葉を覚えてくるのか下手な日本人よりも達者な日本語を使う英国人講師は、もう一度小さく肩を竦めた。
 僅かな沈黙。
 黙り込んだ火村をどう思ったのか、ジョージは言葉通りにお茶の用意をし始める。
 その様子を冷めた瞳で眺めて、ふと甦ってきた3日前の記憶に火村は思わず苦い表情を浮かべながらてキャメルを銜えた。
 そう・・・・3日前の夜。
 約束を反故にして、けれどどうにも後味が悪くて出掛けていった夕陽丘のマンション。
 けれど、主は不在だった・・。

     ◆◆◆

 もしかしたら眠りこけているのかもしれないと、近所迷惑を顧みずに鳴らしたインターフォンに、有栖が出てくる気配はない。
 思わず零れ落ちた溜め息。
 昼過ぎの電話でキャンセルを伝えたのだ。
 その後は勿論連絡などはしていない。だから、有栖とて火村がまさかその夜に訪ねてくるとは思っても見なかっただろう。
 驚かせるつもりがどうやら見事に空振りをさせられてしまった。
 自業自得と言えば自業自得だが、勝手と言われようと何と言われようと面白くないものは面白くない。
「・・・・馬鹿アリス・・」
 らしくもなくポツリとそう呟いて、火村は胸ポケットの中からキャメルを取り出した。
 そうして次に廊下の壁に貼られた禁煙マークに「どこもうるさくなったよな」と独りごちて出したそれをゆっくりとしまう。
「・・・・・・・」
 もしかしたら食べ物でも調達をしに出掛けたのかもしれない、と火村は思った。
 もしくはどこかのファミリーレストランのような所にに行ったのかもしれない。
 無理矢理に終わらせてきた仕事だが、勿論仕事自体が片づいたわけではない。
 今夜中に京都に戻る予定なのだ。
「・・・やっぱり電話を入れておくべきだったな」
 このままここで煙草もなしに有栖を待つというのは無理なことだった。
 何より時間がない。
「・・・・仕方がねぇな・・・」
 言いながらクルリと踵を返して、火村はエレベーターの前まで戻った。表示のランプは4階に止まっていて火村がボタンを押すのを待っていた様にゆっくりと上ってくる。
 つまり、有栖はまだ戻ってきていないと言うことだ。
 特有の小さく唸るような音を立てて止まり、開かれたドア。
 空のそれに乗り込んで、1の数字を押すと四角い箱は再び小さな唸りを上げてゆっくりと動き始めた。
 下がってゆく数字。
 僅かな時間で開いたドアからエントランスに出て、火村はもう一度キョロキョロと辺りを見回した。
「・・・・居ねぇか・・」
 このままいつ帰ってくるか分からない人間を待っていることは出来ない。
 諦めて、一つ向こうの道に無断で止めてしまった愛車に向かって火村は何かを振り切るように歩き始めた。
 その瞬間・・・・。
「・・・・・?・・」
 背後に止まったらしいタクシーが自分が先程出てきたばかりの建物の前に止まったのを見て、火村は反射的に振り返った。
 そうして次の瞬間、そこから出てきた人物に思わず足を止める。
「・・ア・・」
 けれど、有栖は一人ではなかった。
 ふらついて降りた有栖を支えるようにして伸ばされた手と心配げな顔。
 声は聞こえなかったが有栖は大丈夫だと言っているようだった。
 それに2.3言何かを言って男はタクシーの中に戻る。
 有栖はひどく嬉しそうに笑っていた。
 男はタクシーのドアが閉まってしまう前に笑いながら有栖を手招きした。それに有栖が笑いを浮かべたままでゆっくりと顔を近づける。
 耳元に寄せられた唇。
 有栖の顔がくすぐったそうな表情を浮かべ、次に真っ赤に染まってそこから離れた。
 走り去るタクシー。
 マンションの中に入ってゆく有栖。
 火村は、一瞬だけ呆然とそこに立ち竦み、胸の中にこみ上げてくる苦い思いを抱えたまま、愛車に向かって歩き出した・・・。

  
   ◆◆◆

「・・・・・・」
 ゆらゆらと揺れる白い煙。
 暗くてよく分からなかったが、火村の知らない男だった。
 勿論自分には自分の、有栖には有栖の付き合いがありそれぞれ知らない人間が居て当然である。
 それは納得が出来る。
 けれど、でも・・・
 再び脳裏に浮かぶ有栖のひどく嬉しそうな笑顔。

 アノ顔ハ自分ニ向ケラレルモノダッタ・・。

 真っ赤に染まった顔。

 アンナ顔ハ知ラナイ・・・。

 有栖の横に当たり前の様に居た見知らぬ男。
 それを許していた有栖。
 そこは、自分の場所ではなかったのか・・・。
「・・ム・・・ヒム・!」
 母国の躾からか、滅多に大声を出さない友人の声に火村は暗い思考の海から浮かび上がり、ほとんど吸わないまま短くなってしまったキャメルを灰皿に押しつけると苦い笑みを浮かべた。それを見てジョージが溜め息混じりの声を出す。
「いきなり自分の世界に入り込まないでください。お茶が入りましたよ。これを飲めば気分が軽くなる事間違いありません。さぁ、どうぞ」
言いながら差し出されたカップを火村は素直に受け取った。白いカップの中でゆらゆらと揺れる紅い液体。
「いけませんねぇ、こんないい天気にその顔はいただけません」
 ジョージはそう言って自分の眉間の辺りをトントンと長い指で叩いて見せた。
「それで、定例会の方は無事終わったんですか?」
「ああ・・お陰様でね」
「それは良かった。ご苦労様でした」
 口にした紅茶は火村にとってはかなり熱いものだった。
 思わず顔を顰めてソーサーの上にカップを戻しながら火村は今更ながら、それが元凶だったなと思い出す。
 そう、それが横入りしなければ、約束通りに自分は有栖を食事に連れ出し、いつものように話をし、いつものように同じ時間を過ごした筈だ。
 間違ってもあんな場面にはお目にかからなかった。
「・・・畜生・・なんだってぇんだ・・」
「ヒム?」
「・・何でもない」
 低い火村の言葉に、今度はジョージが口を閉じる番になった。
 その沈黙の中で火村の思考は再び深く、暗く沈んでゆく。
 有栖は、昔からからかわれやすい人間だった。
 思っていることがすぐに顔に出やすく、彼自身が醸し出す親しみやすさもあって、仲間内だけでなく、火村自身もよくからかっては怒らせて楽しんでいた。
 勿論、有栖自身も本気で怒っている訳ではない。
 だから多分、3日前に見たそれも同じものなのだろう。
 何かを言われ、からかわれて、赤くなっていたに違いない。けれど、でも・・・。
「・・・今日のヒムは本当に心ここにあらずですね。とりあえずティーブレイクの予定はクリアしたので、今日はこれで帰ります」
 立ち上がったジョージに火村はさすがにハッとして顔を上げた。それを見つめてジョージはゆっくりと言葉を続ける。
「そうそう、学生たちから新しく出来た店を教えてもらったんです。中々の味だそうですので、今度是非行きましょう」
「野郎二人でか?」
 うんざりとしたような火村にジョージはクスリと小さく笑った。
「そうですねぇ。それはそれでオツですが・・・ああそれならヒムのお友達を誘うのはいかがですか?」
「・・・え?」
「女性をエスコートするのはいいのですが、後が色々と面倒でかないません。野郎3人なら、ムサイだけですむでしょう?」
 本当にこの外国人は何処で日本語を覚えてくるのだろうか。
「約束ですよ、ヒム。日付が決まったら教えて下さい。私の方はそれに合わせますから。店の方は私が予約をします。ただし、希望は第2希望まで決めておいて下さいね。それでは」
 機嫌良く言うだけ言って、ジョージは部屋を出る。
 閉じたドア。
 静かになった室内。
「・・・・お節介だな・・」
 ジョージは心配をしてきてくれたのだろう。
 その気遣いが、嬉しくて、けれど何処か煩わしくて火村は再びドカリとソファーに腰を下ろした。
 ふぅっとついた息。
 そう言えば、有栖に又連絡をすると言っておきながらまだ連絡をしていなかった事を思い出して、火村は残り少なくなってきたキャメルを取り出した。
「・・・・・あいつは・・誰なんだ?」
 カチリと点けた火。
 ついでフワリと浮かんだ白い煙。
 ずっと押し殺してきた暗い思いが胸の中から溢れ出してきそうな気がする、と火村は思った。
 ずっとずっと隠してきた、有栖には絶対に理解されないだろう欲望が、有栖自身に向かって襲いかかる想像に思わず薄い嗤いが零れ落ちる。
「・・・・・アリス」
 守りたくて、けれど、傷つけてしまいたいとさえ思ってしまう愛しい存在。
 火村がこんな事を思っているとは考えもしないだろう。
「いっそ殺してやりたいよ・・・」
 呟くように口にして、自嘲的な微笑みを浮かべると火村はテーブルの上にあった程良いぬるさになったそれを一気に飲み干した。