単純な恋6

「・・・ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・・」
 指で追いながら数えたカレンダーの日にち。
 キャンセルの電話で、又連絡をすると火村が言ってから今日で4日目になる。
「忙しいんやろなぁ・・・・」
 ゴロリとソファに寝転がった途端零れた、ぼやきにも似た呟き。
 それが何だかひどく情けなくて、狭いソファの上で有栖はそっと寝返りを打った。
“仕方がないだろう”
 もう幾度も耳の中に甦った、疲れたような火村の声。
 有栖とて分かってはいるのだ。この時期の教職が、年末進行を控えた出版業者並に忙しいことは十分過ぎる程分かっている。
 それでもどうにかこうにか、火村の誕生日には会った。
 けれど、有栖のそれには勿論無理だった。
 そうして久しぶりの約束の電話。
 まさかそれが3日後に反古にされ、更に4日経っても連絡がこない等という状況になるとは全く予測がつかなかった。
「・・・・早よしてくれんと、こっちの仕事が入るんやけどなぁ」
 そう、まだ切羽詰まっている訳ではないが、小さなエッセイや解説の依頼が幾つか入っているのだ。
 このままでは、今度はそちらの締め切りとブッキングしてしまう。
 もっとも今からやっておけばいいのだが、とてもそんな気分にはなれない。
「・・・・あーあ・・」
 お互いに仕事を抱えていて、その仕事を優先させるべきなのは、社会人として当然の事だ。
 けれど、でも・・・・
 理解する事と感情との間に大きく深い溝がある。
「又連絡するって言うたやないか・・・」
 結局一周回ってそこに帰ると言った思考に有栖は再び溜め息を落とした。
「・・・電話・・してみようかな・・」
 連絡を寄越さないから連絡をしたと言えば、一言二言のおまけは付いてくるものの多分それ以上の事はない。
 普段ならば、1ヶ月近く、否、それ以上に会わない事もあるけれど、会えると思っていたものが会えなくなるというのはこんなにも気持ちが違うものなのか。
「・・・いっそ訪ねてみるのもいいかもな」
 そうして忙しければ、帰ってくればいいのだ。
 それはそれで勿論ショックだけれど、今のこの気持ちよりは多分、ずっと、いいと思う。
『朗報を期待していますよ』
 不意に、有栖の耳に、まるで内緒話をするようにして別れ際にそう囁いた相馬の笑いを含んだ声が聞こえた。
 途端になぜか赤くなる頬。
「朗報なんて、あるわけないやん」
 そう、そんなものは望んでいない。望めるはずがない。
「・・・今日もう一日待って、明日行こう」
 一応火村は又連絡すると言ったのだ。
 それを待ちきれずに訪ねてゆくというのはやはりどうかと思う気持ちもある。
「そうと決まれば洗濯でもするか」
 修羅場からこっち、結局何かをする気になれず、相馬と食事をしたもの以外は相変わらずレトルトと店屋物の食生活が続き、掃除はとりあえずリビングの埃を払った程度で、洗濯はすでに放棄と言う状態だったのだ。さすがにこれ以上溜めるのは勇気のいる事になる。
「全自動はええねんけど、誰か干してたたむまでやってくれるの発明してくれんやろか」
 火村が聞いたら怠惰も極まれりと言われてしまいそうなことを口にして、けれど少しだけ軽くなった気持ちで有栖は洗濯機に向かって歩き始めた。

 そしてその翌日・・・・。
 母校に出向いた有栖は、偶然にも火村と見知らぬ女性が彼の愛車に乗り込む所を見てしまったのだった。




 本当は分かっていたのだ。
 いつかこんな日が来る事を。
 ただ側に居る。
 そんな、簡単な・・・否、簡単だと思っていた事が案外一番難しいのかもしれない。
 好きだと告げるつもりもなく、今のままで居られたらそれだけでいいなんて、自分は何て思い上がっていたのだろう。
「・・・・」
 脳裏に甦る情景。
 きれいな女性だった。
 遠目だったけれど、聡明な印象を受けた。
 火村はひどく自然に助手席のドアを開け、彼女をシートに座らせた。
 そしてその瞬間、後ろから聞こえた学生たちの声。
“あ・・火村先生やわ”
“えっ!?うそ!女連れ?”
“ショック・・彼女かなぁ・・”
“えぇー・・・ああ、でも待って。以前にもあの人見たことあるわ”
“・・てことはやっぱり恋人なん!? ”
“いやぁ、ほんまにぃぃぃ…?私狙っとったのに・・”
“無理無理。どう見てもあっちの勝ちやわ”
“・・・・・そしたらあの噂本当やったのかなぁ”
“ああ、お見合いの?”
 聞くともなしに聞こえてきてしまったその会話は有栖のショックに追い打ちをかけるには十分すぎるものだった。
 そんな会話を聞いているうちに、ベンツは駐車場を出て、有栖の視界から消えてしまった。
「・・・見合いなんて聞いてへんで・・・」
 何処をどうやって戻ってきたのか気づけば梅田の辺りを歩いていた。
 谷町線に乗らず、こうして地上に出てフラフラしていたのは無意識にマンションに帰りたくないと思ったからなのだろう。
 思わず漏れ落ちた溜め息。
 チラリと見た腕時計はもうすぐ6時になろうとしている。まだ明るさを残した空を見て、有栖は随分日がのびたなと思った。
 そうして改めて、いかに自分がマンションの中に籠もっていたのかを思い知らされる。
(・・・・結婚するんやろか・・)
 それは多分、友人としては祝福すべき事なのだろう。
 今日のそれがただ単に噂で、万が一にでも彼女がそうでなくても、遅かれ早かれその時期はやってきて、自分はその場所を明け渡さなければならない。
 笑いながら「おめでとう」と言う自分を想像してクシャリと歪んだ顔。
「・・そんなん、よぉ言われへんで・・・」
 人波に押される様に道の端に追いやられて、冷たいビルの壁に背中をつけたまま、有栖はぼんやりと暮れ始めた空を見つめていた。
 結婚すれば、火村と過ごす時間は今よりも更に減ってしまうだろう。
 ただの友人よりも妻になった女性を優先するのは当然の事だ。
 好きだと気付いた時から、否、始めて出会ったあの時から、自分は何と惜しげもなくその時間を使ってきたのだろう。
「・・・・・・」
 ネオンが、一つ、又一つと街の中に灯り始める。
 目の前を足早に通り過ぎてゆく、無数の人。
 ひどい孤独感が押し寄せて、有栖は小さく俯いた。
 時間は止まっていてはくれないのだ。
 唐突にそんな事を思って有栖は再び顔を歪める。
 止まらない時間の中で自分だけが今のままがいいのだと駄々をこねている、そんな気がした。
 そうして、それでも尚、自分には仕事だと言いながら彼女には会う時間があるのだなどと思えてうんざりとしてみたり、次の瞬間にはそんな火村を見るくらいならば死んでしまった方がいいとさえ思って有栖は苦い笑みを零した。
 思考があっちに行ったりこっちに行ったりするのが分かった。
「・・・・いつまで経っても進歩してへんのやなぁ」
 あの時・・・。この思いを気づかされた時。火村は変わらなくていいと言った。
 けれど、進化はしろと言った。
 進化はどうだか分からないが、進歩がないのはわかる。
 結局自分は何一つ変わっていないのだ。
 火村を好きな気持ちも、けれど気付いたところでそれをどうする事も出来ないのだと言う思いも、何一つ変わっていない。
「・・・見放されて当然やな・・」
 自嘲的な言葉が口をついて出る。
「・・・!!」
 その途端、鳴り出した携帯。
 取り出したそれの画面に表示された名前を見た瞬間、有栖は今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべた。

【火村英生】

 それは今、一番会いたくて、けれど一番会いたくない男の名前だった。
 思わず切ってしまった電源。
 途端に消えた名前。
 そして次の瞬間、自分がそうしたにもかかわらず消えてしまった名前が悲しくて、有栖はズルズルと壁に寄りかかったまま地面に座り込んでしまった。
「・・・・っ・・」
 もしかしたら、自分はこんな風に火村の事を切って、忘れてゆかなくてはならないのかもしれない。
ただ側にいるだけと願っていた時と同じように、今度は忘れなければならないと思い続けていくのかもしれない。
「・・・・・・・っ・・」
 頬に暖かなものが伝って、有栖は慌てて顔を伏せた。
 行き交う人が気の毒そうな、或いは不審気な眼差しを向けて通り過ぎてゆく。
 無関心さが優しさになるそんな悲しい事を有栖は初めて知った。
 いっそこのまま消えてなくなってしまいたい。
 そう思った瞬間・・・・。
「有栖川さん!?」
 名前を呼ばれて、ついで掴まれた腕に、有栖は嫌がる様に首を横に振った。
けれど掴んだ手はそんな僅かな抵抗などなかったかのように掴む手に力を込める。 「・・ゃ・・いやゃ・・放っておいて・・」
「気分が悪いんですか?有栖川さん!」
「・・や・・」
「・・私が誰だか分かりますか?」
それはまるで聞き分けのない子供に語りかけるようなひどく優しい声だった。
「こんな所に座っていたら風邪をひきますよ」
 暖かくて、労るような、落ち着いた響きを持つ声。
「・・・・誰・?」
 涙でグシャグシャになっている顔を上げると滲む視界の中に見知った顔が入った。
「そ・・ま・・さん・・?」
「はい。こんなに早く、予約もなしに会えるなんてびっくりしました。こんなところではなんですからどこかに移動しましょう」
「・・なんで・・」
「宿泊しているホテルがこの辺りなんです。ああ、そうだ。せっかくだから初めて会ったあの店に行きませんか?確かこの近くでしたよね?あそこなら落ち着いて話が出きる」
 まるで全てを見通しているような相馬の言葉に有栖の瞳から止まりかけていた筈の涙がポロリと落ちた。
「話ならいくらでも聞きますよ。だからこんなに淋しい泣き方をしたら駄目です」
 包み込むような微笑みが切なくて、けれど有り難いと有栖は思った。
 そうして今更ながら街がすっかり宵闇の中に沈んでしまっていることに気付いて、有栖は出された腕に支えられるようにしてゆっくりと立ち上がった。