単純な恋7

「何だって?」
「・・・ですから、ヒムの友達はもう帰られたのですか?」
「・・・・・・友達ってぇのは誰のことだ?」
「は?」
「俺は弁護士の先生を京都駅まで送って、渋滞に巻き込まれて今しがた帰ってきたところだ」
「え?では私の見間違いでしたか?確かによくヒムの所にきている方だと思ったのですが」
「・・・・話がさっぱり見えないんだけどな。出来れば俺にも分かるように言ってくれないか?」
 相も変わらぬ火村の研究室。
 手土産持参で訪れた英文科の講師は、いきなり「お友達がいらしているでしょう?時間的には遅めですが一緒にお茶でもと思いまして」と言って火村を驚かせた。
「分かるようにと言われても・・・講義の前にヒムのお友達を見かけたので、もしかしたらこの間の件の相談でもするのかと思って、こうしてやってきたんです」
ジョージの言葉に火村は眉間の皺を深くする。
「この間の?」
「ええ。約束したでしょう?一緒に食事に行きましょうと。ですから・・。確か、小説作家の方ですよねぇ?すてきなお名前の」
「・・・・・・」
 ジョージは直接的には有栖に会ったことはないが、よく訪れる事と、作家と言う職業、そして何より名前関係のことで出されるのならば確かに有栖に間違いはないだろう。
「何処で見たんだ?」
「・・えーっと・・多分この研究室に来る途中だったんだと思いますよ。この棟の8フィート程手前の辺りで見かけましたから」
「・・・・・・・」
 留守にしている間は、ゼミの学生たちが資料を見せて欲しいと言ったので部屋を貸していた。そして火村が帰ってきた時、彼等は何も言っていなかった。
 つまりジョージの見かけたのが有栖だとしたら、彼は研究室に寄らずに帰ってしまったのだ。
「・・・・何をしているんだあいつは・・」
 思わず漏れ落ちた憮然とした声。
 そうして次の瞬間、火村の脳裏に数日前の光景が甦る。
「・・・・っ・・」
 胸の中に込み上げる苦い思い。
「・・・・どうやら私の見間違いだったようですね」
 ジョージの言葉に火村はハッと我に返った。
 それを見つめながらジョージはフワリと笑みを浮かべた。
「約束を忘れないでくださいよ、ヒム。声がかかるのを楽しみに待っています」
 閉じられたドア。
 小さくなってゆく足音。
 一人残された部屋の中で火村は小さく舌打ちをした。
 多分、有栖は来たのだろう。そして、どういう理由かは分からないが自分に会わずに帰ってしまったのだ。
 再び苦い何かが胸の中に押し寄せて、火村は胸ポケットの中から少しくたびれたキャメルのパッケージを取り出すとその中の一本を銜えてゆっくりと火を点けた。
 吐き出された白い煙。
「・・・ったく・・何だってぇんだ・・・」
 確かに有栖の原稿を急がせたのも、そして突然予定をキャンセルしたのも火村自身だった。
 あの時から何かの歯車が狂ってしまった。
 そんな事を考えて火村は苦い笑みを落とす。
 もしかしたら、ジョージの見たのは本当に有栖ではなかったのかもしれない。
 又連絡すると言って連絡を寄越さない自分に有栖は今頃怒っているかもしれない。 それどころか早めに原稿を上げさせた為に体調を崩してしまっているかもしれない。 そして、先日の男は仕事仲間なのかもしれない。
 頭の中に溢れる“かもしれない”を拾い集めて、火村は火を点けたばかりのそれを灰皿に押しつけた。
「・・・・連絡をしろって事だな」
 とにかく、こんな風に仮定ばかりを抱えているのは性に合わない。
 連絡を取ってみれば、案外いつも通りに拗ねた声が聞こえてくるかもしれない。
 唯一の、前向きな“かもしれない”を抱えて火村は目の前の電話に手を伸ばした。
 すでに登録をしてある番号が、小さな電子音になって火村の耳に響く。
 1コール、2コール、3コール・・・・・
 けれどそれは突然、プツリと切れた。
「!?」
 慌ててかけ直して見るが今度は電源を切っているか電波の届かない…と言う機械的な声が流れてくる。
 ディスプレイには火村の名前が表示された筈だった。
 万が一そそっかしい有栖が着信ボタンと電源を押し間違えのかもしれないと思ってもう一度かけてみたが結果は同じ。
 つまり、有栖は火村からの電話だと分かっていながら電源を切ったのだ。
 念の為、続けてマンションにもかけてみたが留守電になっていた。
 間違いなく有栖は出掛けていて、ここまで来ていながら自分に会わず、そして、かかってきた電話さえも切ってしまったのだ。
「・・・・お前は一体何をしているんだ、アリス」
 低く唸るような声と共に火村は再びキャメルを取り出して火を点けた。
 立ちのぼる紫煙。
「・・・ックソ・・!」
 こんな風な事は一度もなかった、と火村は思った。
過去にもお互いのスケジュールが合わず会えなかったり、約束をキャンセルしてしまった事もあったが、 こんな風に訳も分からずにすれ違ってしまうしまうことはなかった。 何より有栖がこんな風に火村を避けて怒ってしまう等考えられない。
 有栖は拗ねたり怒ったりしても、何処か楽観的で、前向きで、子供のようで、だから火村もついつい怒っている有栖を更にからかってしまう事も少なくなかったのだ。
「・・・・・鳶に油揚げなんてとんでもないぜ」
 そう。友人と言う意味とは異なる意味で、火村は有栖の事を見つめ続けてきた。
 そんな事に気づきもしない有栖を、それでいいのだと思っていた。
 いつかは、多分、有栖の隣には、有栖が選んだ女性が並ぶのだろう。
 その現実に果たして自分は耐えられるのか。そんな事を想像して苦笑した事はあるが、こんな事は知らない。
 こんな風に有栖が自分から離れてゆくのは許せない。
「・・・離せるか・・馬鹿」
 とにかく、有栖の所に行こう。
 そして何が何でも話をしなければならない。
 もしも彼が拗ねて怒っているのならば、機嫌の一つや二つは取って、ついでに今度こそキャンセルの出ない約束を取り付けてこよう。ちょうどいい具合に有栖の好きそうなネタがある。
「・・・・俺はお前を手放す気はないぜ?」
 どこか自嘲気味にそう呟いて、火村は煙草を銜えたまま、研究室を後にした。


「・・・少しは落ち着きましたか?」
「すみません・・」
 薄暗い小さなバー。どこか時間が止まった深海を思わせるそこを有栖が知ったのはほんの偶然だった。
 待ち合わせしていた店を間違えたのだ。
 けれどそれ以来有栖は時々この小さな店を訪れるようになった。
 思い出したように、顔を覚えられる程度には店を訪れていても、主人は有栖に対して決して馴れ馴れしい態度をとらない。
 それはどの客に対しても同じで、カウンターの中の親爺はかたくなで無愛想だ。それでいていつの間にか好みを把握して微妙に調整してあるらしいところがきっとこの店、否、この主人のポリシーなのだろう。
 それはここを訪れる時の有栖の心を安心させてくれる。
 誰も自分の事を知らない。
 孤独感と、それに反比例するような安息感。
 きっとこの店を訪れものは、それを求めて来るのに違いない。だからまるでそれがこの店の暗黙の了解でもあるように見たことのある顔が入ってきても、誰も、何も干渉をしない。
 それ故ここで相馬に話しかけられた事は有栖にとっては本当に驚きだったのだ。
「何があったか聞いてもいいですか?」
 薄い水割りをトンとカウンターの上に戻して、相馬は前を見つめたまま小さく口を開いた。それにクシャリと顔を歪めて、有栖も又前を見たまま小さな笑いを零す。
「・・・・ふられてしまいました」
「有栖川さん?」
 驚いたように向けられた顔。それに有栖は泣き笑いの表情を浮かべて俯きながら小さく首を横に振った。
「・・告白なんてものをしたわけじゃありませんよ。そんな事をしなくても結果は目に見えています」
「・・・・・それならなぜふられたなんて」
「女嫌いを公言して憚らないヤツが女を愛車に乗せていた」
「それだけで・・」
 僅かにひそめられた眉に有栖は更に言葉を続ける。
「見合いをしたのかもしれないと彼の教え子たちが言っていました。それだけなんて言わないで下さい。 私にとってはそれで十分なんです。勿論、それは単に噂なのかもしれない。彼女もただの知り合い程度の人かもしれない。でも、いつかはその可能性がある」
「・・・・・・・それは・・」
「ただ今のままで。それだけでいいなんて、私はなんて贅沢な事を言っていたんでしょうね。同じである事を続けてゆく事の難しさにさえ気づけなかった。あいつの隣を自分のものだと信じて疑わなかった。でもそれはひどく簡単に失ってしまうものなんですね。積み上げてきた時間なんてこれっぽっちも役に立たない」
 カランとグラスの中で氷が鳴る。
「そこに誰か知らない人間が当たり前の様に立つなんてきっと耐えられない。サイテーな人間や・・・」
 カウンターに顔を伏せてしまった有栖に相馬は一瞬だけ言葉を失って、グラスを口に運ぶと、次の瞬間胸ポケットの中からゆっくりと煙草を取り出した。
 カチリと点けられた火。ユラリと立ちのぼる煙。
 薄明かりの中でうねうねと動くそれを眺めながら、相馬は再びゆっくりと口を開いた。 「単純な恋がしたいですね」
「・・・・・え・・?」
「好きだから、好きだと言える単純な恋がしたい。そう思いませんか?」
「相馬さん?」
相馬の真意が分からない。小さく顔を上げた有栖に相馬はひどく優しく微笑んだ。
「前にも言いましたよね、私は私の恋人にひどいことを言ってしまったって。ひどいことを・・多分、私は彼がそれを悩んでいることを知っていながらそれを口にしてしまったんです。肝心な事は言わないでね」
「・・・・・・」
「好きだともっと、ちゃんと、言えば良かった。気持ちを言葉で伝える術を持てば良かった。好きだから一緒にいるのだと思う気持ちを大切にすればよかった。ねぇ有栖川さんそう思いませんか?」
「・・・・・・・」
「言わなきゃ伝わらないこともたくさんあります」
「・・・嫌や・・そんなん言われへん・・」
「彼は貴方を軽蔑しますか?」
「・・・それは・・」
「怖いのはそれに答えて欲しいと思うからです。自分から離れようとしている今、それ以上何が怖いんですか?」
「・・・けど・・」
「それから泣いても間に合いますよ。その時はまたいくらでもお付き合いします」
「けど、俺は最後の言葉をあいつから聞きとぉない。そんな言葉を聞いたら生きてられへん」
 ポロポロと落ちる涙。
 それを見つめて、相馬は「ああ泣かせてしまったな」と胸の中で苦い笑いを落とした。 ひょんな事で知り合った同胞。
 2つ年上の彼はひどく純粋で、何をおいても守ってやりたい気持ちにさせる。
 泣きながらカウンターに突っ伏してしまった有栖の肩をトントンと叩きながら相馬は見たことのない、有栖の思い人の事を考えてみた。
 大学時代からの友人で、母校で助教授をしているという男。
 犯罪社会学を専攻としていて、友人はあまり多くなく、女嫌いで、どうやら口が悪い。それがこの2年の間に有栖の口から相馬が知り得た、火村英生と言う人物だった。
 彼は有栖と知り合ってからの決して短くない時間の中で、この有栖川有栖と言う人間の隣に立ちながら、何を考え、何を見つめてきたのだろうか。
「・・・それなら有栖川さんはどうしたいんですか?」
「・・・・・それが分かれば苦労はないよ。離れてしまうことも、見つめてゆく事も出来へん・・なぁ、相馬さんやったらどないする?もしも、相馬さんが俺やったらこれからどうする?」
 “私”から“俺”に変わってきたことで有栖が酔ってきた事が分かり、相馬は小さな笑みを浮かべた。
「・・そうですねぇ・・私なら、とりあえず飲んで、食べて、寝て、それから電話をかけてみます」
「うん・・それで?」
「それから、好きだって言ってみるっていうのはどうですか?」
 乗り出すようにして聞いていた有栖は途端に顔を顰めてカウンターの上に逆戻りをした。
「・・・年上の人間をからかうとバチが当たるで」
「すみません、私も結構酔っているみたいです。そろそろ出ましょう」
「・・もう帰るん?」
 顔中に帰りたくないと書いてあるような有栖に相馬は何度目かの苦笑を落とした。
 『有栖川有栖』と言う人間は、どうしてこうも無防備で人の保護欲をそそるのだろう。 恋愛感情を抜きにした自分がこうなのだ。何年も一緒にいたという男は、こんな有栖をどう思っているのだろうか?
 なぜか相馬は初めて火村という男に会ってみたいと思った。そうして保護者宜しく「有栖の事をどう思っているのか」と訊いたら彼はどんな答えを口にするのだろうか?
埒もない考えに相馬はまだぐずる様な有栖に肩を貸しながらバーを出た。
 ふらつく足元。
 やはりこの辺りで引き上げさせて正解だった。
 そんな事を考えているそばから有栖が「もう一件行きましょう」と声を上げる。
「・・・・帰るんでしょう?」
「嫌や。帰らへん」
「有栖川さん」
「・・・ならいいです。相馬さんは帰って下さい。俺はもう一件どこかに寄って帰りますから。無茶言ってすみませんでした。ほんなら、お休みなさい」
 フラフラとしながら自分の手を離れて歩き出そうとする身体を、相馬は慌てて引き寄せた。
「・・・ったく・・本当に目が離せない人ですね。分かりました。もう一件行きましょう。但し、行き先は有栖川さんの家です。そこならいくら酔いつぶれても私も安心して帰れますから」
「・・・・・・・・」
「それに、こんな気分の時は一人で帰るよりも誰かが一緒に居た方がいいでしょう?」
  僅かな沈黙。
 そして次の瞬間、コクリと小さく頷くと有栖は「ありがとう」と少しだけ掠れた声でそう口にした。