単純な恋8

「何をやってやがるんだ、あの馬鹿!!」
 4日ぶりに訪れた有栖のマンションのドアに寄りかかって、火村はイライラとしたように口を開いた。
 時計の針はすでに11時近い。
 あの後、取るものもとりあえずここにきた火村は予想通りに有栖が不在である事を確認した。
 けれど勿論、今日はこれで帰ってしまう訳にはいかない。例えどんなに仕事が詰まっていようとも、きちんと話をしなければならない。
 そう・・・この間のように、逃げるように帰ってしまうようなことは出来ない。
 そう考えて火村はひどく苦い表情を浮かべた。
 脳裏に甦る記憶。
 有栖は赤い顔をして、見知らぬ男に怒ったような困ったような瞳を向けていた。
 もう幾度も繰り返されたその情景は、火村の胸の中に痼りのように残り、刻み込まれてしまっている。
 話をする、と言っても実際にどうしたらいいのか火村自身にも分かっていなかった。
 あの男は誰なのか、そんな事を訊くつもりなのか。
 それとも、なぜ電話を切ったのだと詰問する為に自分はここまで車を飛ばしてきたのだろうか。
 今更ながら何も考えず、ただ話をすると言う思いだけでここに来て、予測をしていた有栖の不在に苛立っている自分に火村は薄い嗤いを浮かべる。
「・・・・こんなに長く禁煙したのは久しぶりだな」
 ここに来てすでに3時間が過ぎようとしていた。
 その間煙草を吸う事もなく、ただ有栖の帰りを待っている自分がおかしくて、どうしようもなく滑稽で、大声で笑いたくなる。
「・・・早く帰ってこないと風邪をひいちまうぜ」
 けれど有栖の気配はない。
「・・・風邪をひいたら絶対に、10年先位まではてめぇのせいだって言い続けてやるからな」
 時間は止まることなく、進んでゆく。
「・・・・・・」
 このまま今夜は帰ってこないのかもしれない。
 そんな事を思って、そうして次に、一体誰と一緒にいるのだと思ってしまう自分に火村は顔を歪めた。
 分かっている。
 これは嫉妬だ。
 誰とも分からない、ましてや本当にそうだと限らない仮説にさえ苛立ち、嫉妬してしまう。
「・・・末期症状だな・・」
 ポツリと呟いて、火村はキャメルの箱を取り出した。
 そうして中身を取り出すことなく、手の中で箱を弄ぶ。
 もしも・・・・・。
「・・・・・・・」
 もしも仮に、そうだとしたら・・・・。
 有栖が自分以外の誰かにその笑顔を向けると言うならば。
 そして、誰かに・・・その身体を開いていると言うならば・・
「・・馬鹿か・・・」
 そんな事がある筈がない。大体今までの付き合いの中で有栖が男とどうにかなってしまうような人間ならばその事に自分が気付かない筈がない。
 ずっと、有栖に対して欲望を抱いてきた自分が分からない筈がないのだ。
「ジョージとの食事の費用はお前持ちだ」
 有栖が聞いたら理不尽極まりないと怒り出すような言葉を口にして火村は持っていたキャメルをゆっくりと胸ポケットの中に戻した。
 吸ってはならないものを目の前にして我慢する等そんな馬鹿げた事などはやはり御免被りたい。
 シンと静まりかえった廊下。
 白っぽい壁を照らす白色灯の明かり。
 幾度も訪れているのに、なぜか初めて見る場所のように思えて、火村はぼんやりとその明かりを見つめた。
 その瞬間。
「!!」
「・・・大丈夫やて。ほんまに・・心配性やなぁ・・」
 エレベーターの方から聞こえてきた声は確かに有栖のものだった。
けれど次の瞬間、その後から聞こえてきた声に火村の胸に得体の知れない何かが湧き起こる。
「心配性の位でちょうどいいと思いますよ」
「・・・何やのそれ・・・。まぁ・・ええか。あ、そこ右ね」
「はいはい」
「はいは1回」
「分かりました」
「素直でよろしい。ご褒美にメチャメチャ旨いコーヒー淹れたるから楽しみにしとってな」
「そりゃ光栄です」
「ああ、違った。コーヒーやなくて飲むんやった。しまったビールくらいしかないなぁ」
「コーヒーがいいですよ。是非コーヒーにして下さい」
 近づいて来る声。
 角を曲がって見えてきた二つの影。
「・・・・・」
 この間は暗くて、正直顔はよく分からなかったのだが火村は直感的にこの男だと思った。
 あの夜の男と、有栖は一緒に居たのだ。
 込み上げてくるどす黒い感情。
「・・・・・・」
 そんな火村の視線に有栖よりも先に男の方が火村に気付いた。
 微かに寄せられた眉。
 けれど歩調はそのままで、男は有栖の身体を支えながら近づいてくる。
 一歩、又一歩。
「・・・・相馬さ・・カ・・ギ・・」
 そうしてようやく顔を上げた有栖の表情に火村はニヤリと薄い嗤いを浮かべた。
「よぉ、随分遅いご帰還じゃねぇか」
「・・・・・ひ・・むら・・」
「何だよ、そんなに驚く事なのか?約束通りに電話をしても繋がらないから来て見りゃこのざまだ。さすが作家先生、締め切り明けでも余裕があるな」
「・・・・・・」
 真っ青になって口も聞けない様な有栖から視線をはがして火村は相馬を見据えた。
「・・有栖川がお世話をかけたようですね」
「・・・・いいえ。あの、失礼ですがどちら様ですか?」
「ああ、失礼しました。有栖川の友人で火村と言います。こちらこそ失礼ですが・・」
「相馬です」
 相馬のその答えに火村は小さく眉を寄せた。
 そして相馬自身も、先程の火村の答えに胸の中で溜め息を落とす。
(こんな瞳をして何が“友人”だ・・)
 真っ青な顔をしたまま声を出せなくなっしまった有栖に視線を走らせながら相馬は胸の中で先程よりも大きなため息をついた。
 有栖だから、分からなかったのだ。
「アリス」
 聞こえてきた感情抑えたようなをバリトンに有栖はビクリと肩を震わせて、俯きかけていた顔をおずおずと上げた。
「・・話がある」
「話・・?」
「・・ああ・・」
多分有栖は無意識なのだろう、縋るように相馬の上着を握りしめている指に火村の機嫌が又一つ下がる。
「・・・・・それじゃあ、私は帰ります」
「相馬さん!?」
「又連絡をしますよ」
「・・・・あ・・」
 それはまるで、味方を失って不安になってしまった子供のようだった。
 そんな有栖を見つめる火村の視線の意味にこの中で有栖だけが気付いていない。
(・・・この人らしいな・・)
 クスリと漏れ落ちた笑い。
 でも、お節介だと言われようとここは自分が一肌脱ぐしかない。
 もっともこのまま帰ってしまったとしても十分その役は果たせると思うが、有栖に対しては念には念を入れても入れすぎることはない。
「・・・・・・・」
 支えていた身体をゆっくりとはなしながら相馬はもう一度火村を見た。
 彫りの深い顔立ち、強くて、けれどどこか危うさと脆さを感じさせる男だと思った。
「・・アリス」
「!?」
 相馬がアリスそんな風に呼んだのは勿論初めての事だった。
 こんな状況にも関わらず、有栖は驚いたように様に顔を上げて相馬を見た。
「・・・ちゃんと彼と話をした方がいいよ、アリス」
「なん・・・え・・っ?」
「!!!」
「!!相馬さん!?」
「お休み」
 それはほんの一瞬の事だった。
 名前を呼ばれて驚いて上げた顔に次の瞬間掠める様な口づけが落とされた。
 小さな笑みを浮かべながらクルリと踵を返して相馬は今さっき有栖を支えながら歩いて来た道を戻ってしまう。
 けれど有栖はそれどころではなかった。
(なんで・・なんで・・なんでや・・!?)
 よりによって火村の目の前でキスをするなんて相馬は一体何を考えているのだろう。酔っているにしてもひどすぎる。
「・・・・・・・」
 ドクンドクンと早まる鼓動。
 火村は何と思っているだろう。
 驚いているだろうか。
 それとも、自分の友人が男とキスをするような人間だったのかと軽蔑をしているだろうか。
(・・いやや・・そんなん・・)
 ジワリと瞳に涙がにじんだ。
 火村の事を切ってゆくとまで考えたにもかかわらずここまできてまだ嫌われたくないのだと考えている自分が滑稽で、ひどく情けないと有栖は旨く回らない頭で思っていた。そして・・。
「おい、いつになったら部屋に入れるつもりだ。俺はもう充分過ぎるほど待っていたんだ。家主が帰ってきてるのにこの上まだ待たせられるなんて御免だぜ」
「あ・・ああ・・すまん」
 火村の言葉に有栖はようやくずっと鍵を握りしめていた事に気がついた。慌ててドアに近寄り、鍵を鍵穴に差し込もうとするが、焦れば焦るほどうまくいかずに泣きたくなる。
「・・何をしているんだ、お前は。貸してみろ」
 イライラとしたような、けれどどこか呆れたような火村の声。と同時に伸ばされた指が一瞬だけ指に触れて有栖は声にならない声を上げて大げさなリアクションで指を引いた。
 まるで火傷をしたようだと有栖は思った。
「・・開いたぜ。入るぞ」
「ああ・・」
 カチャリと何事もなく開いたドア。短い言葉で先に入ってしまった火村の後を追うように、有栖は暗い玄関に足を踏み入れて、バタンとドアを閉じた。
 シンとした、暗闇の世界。
「?・・火村?電気を点け・・!!」
言葉の終わらぬうちに、物凄い勢いで身体を引き寄せられて、有栖は壁に肩の辺りを打ちつけられて思わず言葉を失った。ジンと広がる鈍い痛み。
「あいつは誰なんだ?」
「!!」
「言えよ。誰なんだ?」
 それは予測できた質問だったが、まさか明かりも点けない玄関先で訊かれるとは思わなかった。
「・・・・・友達や・・」
 答えた有栖に、火村はフンと鼻で嗤う様にして再び口を開いた。
「ほぉ・・有栖川先生には随分洒落た挨拶をするご友人がいらっしゃるんだな」
「・・・・・・・」
「・・・いつからなんだ?」
「え・・?」
「いつからの“お友達”なんだ?」
 2度目の問いかけは何かを含ませたもので、さすがの有栖も押さえつけている火村の腕をはね除けるようにして靴を脱ぎ、スリッパを履こうとした。
「!!・っ・・火村!」
 が、火村はそれを許さなかった。
 動き出した身体を壁とは反対の備え付けのシューズボックスに力任せに押しつけて、そのまま有栖の肩を押さえつけたのだ。
「・・・つぅ・・・・!何するんや!!」
「質問に答えちゃいないぜ、アリス。いつからなんだ?」
「・・そんなん・・」
「・・俺には言えないって?・・それとも俺には関係ないか・・」
 狭い玄関での応酬。電気も点けないそこは暗くて、顔すらよく見えないが、それでも火村の怒気は十分伝わって有栖は押しつけられた背中の痛みに顔を歪めた。
「なら、質問を変えよう。どうして携帯の電源を切ったんだ?」
「!!」
「かかってきたのが俺だと分かって切った。そうなんだろう?」
「・・ち・・が・・」
「そりゃあ、出られないよな、アリス。あいつといる所に俺からの電話なんて。切っちまって正解だったぜ。俺はその後お前がボタンを押し間違えたのかと思って何度もかけ直したからな」
「・・・火村・・」
「答えろよ、アリス。あいつは誰なんだ?いつからなんだ?どういう関係なんだ!?」「!や・・めっ・!!」
 ガタンと派手な音を立てて廊下に倒された有栖にのし掛かるようにして、火村は有栖の唇に乱暴に唇を重ねた。
「・・や・!」
 ぶつかるように触れた口づけは、次の瞬間、噛みつくようなそれに変わって、有栖の瞳からポロポロと涙が零れ出す。
「・・・なん・・で・・・何で・・こんな・」
「何で?それは俺の方が聞きたいよ」
 クシャリと歪められた火村の顔。
 怒っているような、苦しんでいるような、それでいてひどく自嘲的なその表情は、有栖が初めて見るものだった。
「・・・・ひ・・むら・・?」
「何でだ、アリス」
「・・・・・・」
 有栖の中に小さな困惑が生まれる。
 有栖は男にキスをされたところを見られて、火村に軽蔑されると思ったのだ。そんな事をする人間だったのかと思われて嫌われてしまうか、二度と顔を見せなくなってしまうかもしれないと恐れていた。
 けれど火村は有栖の予想を裏切り、あろう事かキスをしてきた。
 これは一体どういうことなのだろうか。
 それとも、誰とでもこんな事をする人間なのだろうと有栖自身を貶めているのだろうか。
「・・・何で、あいつなんだ・・?」
「・・え・・」
「・・・あいつが好きなのか?」
「何・・・言って・・」
「・・あいつに抱かれているのか?」
「火村!!!」
 床の上に押さえつけられていた身体を思いもしない力で抱きしめられて有栖は悲鳴にも近い声でその名を口にしていた。
 この男は一体何を言い始めているのだろう。
「答えろよ。アリス・・」
 耳許で囁くいつもより少しだけ低い火村の声。
 ドクンドクンと鼓動が早くなっているのが分かった。
 おそらく、多分、絶対に、火村にもそれが伝わってしまっているだろう。
 そんな風に思われた事が悲しくて、こんな風に腕の中にいながら思いが伝わらない事が切なくて、有栖の瞳から再び涙が溢れ出した。
「・・何で泣くんだ?」
「・・・・君が・・変な事聞くからや・・」
「・・・・・」
「・・・・抱かれる筈ない・・そんなんとちゃう」
「じゃあ、何なんだ?」
「・・・・・」
「泣くなよ。ちゃんと答えろ」
「・・っ・・」
「アリス・・」
 再び重ねられた唇。
 重なる視線。
 そうしてその瞬間,有栖の耳に相馬の言葉が鮮やかに甦った。
『好きだから、好きだと言える単純な恋がしたい。そう思いませんか?』
 トクンと一つ、大きく鼓動が跳ねる。
 何も言えないと思っていた。
 何も言わないつもりだった。
 でも、だけど・・・・。
 こんな風に勘違いされている事の方が辛い。
 このままで居ると言うことが一番難しいと言う事を有栖は十分すぎる程知らされていた。
「・・仲間や・・」
 有栖の言葉に火村は微かに眉を寄せた。
「・・・・唯一の・・仲間やったんや・・」
「・・・お前は仲間とキスをするのか?」
「それは・・俺もいきなりでびっくりしたけど、そう言うのと違う」
「・・・・・・」
 鼓動が再び早くなってゆくのが分かる。
 もしかしたらこのまま火村とはここで終わってしまうかもしれない。
 今の今まで何よりそれが怖かった。
 だけど今は・・・。
「・・・・俺が・・この世の中で、抱かれてもいいと思っているのはたった一人や・・・」
 声が震える。
 喉がヒリヒリと痛む。
 驚いたように見開かれた火村の顔を有栖は涙で濡れる瞳で下から見つめていた。
「・・・・それは・・誰なんだ?」
「・・・・・・・・・ボケ・・」
「アリス?」
「アホんだら!いけず過ぎやで!ほんまは分かってるんやろ!?」
「いいや、全然。是非、有栖川先生の口からお聞きしたいな」
 絶対に分かっている。この男はこう言う男だ。
「・・・君や!これでええやろ!分かったら退けや!」
「嫌だね」
「火村?」
「うん?」
「・・・・その・・気持ち悪くないのか?」
「何が?」
「・・・・せやって・・俺・・・」
 言ったらおしまいだと思う言葉を口にした筈なのだ。
 それなのに、どうしてこの男はこんな風にしていられるのだろう?それとも冗談だと思っているのだろうか。
「なぁ・・」
「何や!」
「その言葉、証明させてもらってもいいか?」
「・・え・・?」
「好きだ、アリス・・」
「!!!」
「抱かせろよ」
勿論有栖には赤い顔で頷く以外何も、出来なかった。

  
えっと・・Hでも平気な人は進んでね
駄目な人は一気にラストへ