とある事件と記念日と



 毎年5月が来ると思い出す光景がある。
  光の降り注ぐ階段教室の最上段。
 退屈な講義に反して一心不乱にペンを動かしている、まだどこか少年のような面影を残している男の真剣な横顔。
気になって彼の手元を覗きこんでみると、それは講義の内容とは全く関係のない、いわゆる『推理小説』というものだった。
 意表を突かれたような気持になって脇に積まれていた原稿の山に手を伸ばす。
 それに一瞬ギョッとしたような顔をしたけれど、彼は文句を言う時間ももったいないというように再び原稿用紙に目を落とす。
 単調な教授の声をバックに目の前の男が紡いでいる話を読み進める。そしてついに物語は彼が今書き進めているところに追いついた。
さすがに手元まで覗き込まれて彼は困惑した様子を隠しきれなくなったようだった。そこにタイミングよく鳴った講義終了のベル。
 彼は無礼な読者から逃げるように荷物をまとめる。 その瞬間、どうしても声を聴きたくなった。
その外見からは思いつかないような殺人事件と呼ばれる小説を書いている彼はどんな声を出すのだろう。
 そして・・・・
「その続きはどうなるんだ?」
 振り返った顔は、先ほどまでの横顔からはまったく違う印象を持たせる、びっくりしたまま固まった子供のような、まん丸目のウサギのような顔だった。
 面白い。思わずそう思った。
 あの真剣な横顔とは全く違う顔が次々に飛び出してくる。
 だが次の瞬間、彼は更に自分の意表を突いてきた。
「あっと驚く真相が待ち構えてるんや」
 どこか勝ち誇ったような、それでいて人を惹きつけるようにフワリと笑ったその顔は、何だかとても眩しくて、その笑顔をもっと見たいなどとらしくもなく思った。
「気になるな」
 再びのびっくり顔。
「ほんまに?」
 向けられた瞳の中に映っている自分の顔は、相手は初めて会った人間だと言うのに何だかとても楽しそうだった。
「アブソルートリー(もちろん)」
 次に彼が見せたのは極上の笑顔。
 多分、きっと・・・・自分はあの時にすでに彼、有栖川有栖という奇妙な名前を持つ男に恋をしたのだ。

 

--------------------------------------------------


「何だって?」
 思い切り不機嫌そうな顔でそう言ったのは母校である英都大学で教鞭をとる火村英生だった。
「何って…せやからその…多分彼女の恋人とかと間違えらえたんやないかなぁって……」
 しどろもどろでそう答えたのは大阪在住の推理小説作家有栖川有栖だ。
「俺が言っているのはそういう事じゃない。大体間違えられてじゃなく、その時に相手は間違いなくお前を狙っていたんだろうが」
「いや、それは多分そうやなんやろうけど、でもそれが間違いなんやって」
「馬鹿か。それは間違いじゃなくて勘違いだろうが!」
「うっさいわ!人の揚げ足とってるんやない」
「小説家のくせにお前が日本語の使い方を間違うからだ。で、勿論被害届は出したんだろうな」
「あ〜‥‥‥」
「アリス…てめえ」
 思わず泳いだ目に、呆れているというよりは完全に怒っているような火村の顔を見て、有栖はやっぱり完全に傷が消えてから
来るべきだったと心底思った。
 一体何がどうなってこんな事になっているのか。
 久しぶりに火村からフィールドワークの誘いが来たのは今日の午後の事だった。

 GWの始まりまで一週間ほどになり、世間は何となく忙しないような、どこかそわそわしたような雰囲気に包まれている。
テレビから流れてくるニュースは東北まで北上した桜前線の話題や、様々なイベントの話題も多い。そんな中での誘いだった。
 もっとも有栖も一瞬考えたのだ。この傷を見たら火村は何を言うだろうか。さらには服の上からは見えない左足の捻挫。
それまでも火村は気づくだろうか。
 まあ、傷と言っても、もう頬骨の辺りにうっすらと一本の瘡蓋の筋が残っているくらいで、赤みも消えているし、左足の捻挫も
無意識に庇うような時があるくらいでびっこを引いているという事はない。いざとなれば転んだと笑ってごまかしてしまえばいい。
そう思ってきたのだが、長年の友人はそんな有栖の誤魔化しに引っかかるわけもなかった。
 ソメイヨシノが終わり八重桜の濃いピンク色の映える春らしい青空。まだまだ観光シーズン真っ盛りの京都で起きた殺人事件が
今回のフィールドワークの舞台だった。先に着いていた火村はやってきた有栖を見るなりそれに気づいたようだった。
だがどうしたのだとその場で口にすることはなかった。
 黄色のテープで区切られた現場で動く鑑識課員と刑事たち。頭を何かで叩かれた後で刃物で刺されて絶命したらしい被害者の
老女。春の古都で起きた事件はあっけなく通り魔殺人を装った隣人の犯行であることが暴かれる。
 火村に容赦のない言葉で追い詰められた犯人は、恐らく被害者を刺したのだろうナイフを振り上げて彼に向かおうとしてその場
で刑事たちに取り押さえられた。
 そうして久しぶりに会った京都府警の刑事たちと別れた途端、火村はいきなり「話を聞かせてもらおうか」と有栖に向かって凄んで
きたのである。
 そんな経緯で現在、京都・北白川の火村の下宿先で有栖は火村による半強制尋問を受けているわけである‥‥‥‥。

「せやから、その……あんまり事を大きくすると相手が恐縮するし、ほんまにそうか判らんし」
 有栖の言葉に火村はイライラとしたように胸ポケットの中から煙草を取り出した。
「話を最初からまとめてみよう。お前が彼女からストーカー行為を受けているかもしれないと言われたのはいつの事だ?」
 彼女というのは有栖の部屋の隣人で、有栖に時折買っているカナリアの世話を頼む女性だ。
 何度か見かけたことのある女性の顔を思い浮かべなら火村は銜えた煙草に火を点けた。
「締切が終わったばかりやったから、4月の初めや」
「4月の初めにどこで?何て?最初からお前に助けを求めたのか?」
 火村がこんな風に立て続けに質問を投げかけてくるのは珍しい。
「ええっと場所はエレベータホールのとこや。先に彼女が居って、俺が後から来たんや。それでこんばんはって言うたらこんばんはって
返してきたんやけど、なんや様子がおかしいんでどうかしたのか聞いたら」
「聞いたら?」
「外に変な人が居ませんでしたかって。それで別に居なかったと思うけど何かありましたか?って聞いたら最近どうも帰りを誰かにつけ
られているような気がするんやて。別に姿を見たわけやないけどなんや気持ち悪いし、でも自意識過剰なのかしれへんしって。別に何か
直接的に悪さをされたような事もあれへんから警察に相談するわけにもいかんからて。変な事言うてすみませんって言うてたわ。で、2度目が」
「2度目?」
 火村は思わず驚いたような声を上げた。
「あ、うん」
「お前さっきは何度もあるような風には言ってなかっただろうが」
「いや、その……」
 火村は眉間に皺を寄せながら溜息交じりに口を開いた。
「で?2度目は?」
「2度目はそれから一週間くらい経ってからかなぁ。今度は近所のスーパーに買い物に行っていた帰りマンションの入り口のところで彼女が
後ろからいきなり名前を呼んできて」
「お前の名前を?」
「他の名前を呼んでどないすんねん」
「くだらねぇ突っ込みはいいから話を続けろ」
 誰が先に突っ込んできたのか。その言葉を飲み込んで有栖は再び口を開く。
「…引きつったような顔で走ってきたから、どないしたんですか?って言うたら後ろから誰かがって」
「誰かの姿を見たのか?」
「いや?」
「……彼女の狂言ってことはないのか?」
「俺相手ににそんな芝居をする意味がないやろう?」
「……まあな。で?」
 吐き出された白い煙。
「とにかく震えてるし、肩をかして部屋まで送っていったよ」
「そのつけられているような感覚以外、彼女には何か直接的な被害はないんだな?」
「多分」
「多分?」
 有栖の言葉を火村が繰り返した。
「せやってその後どうですかって聞きに行くのもあれやろう?」
「じゃあお前はどうして彼女と付き合っていると間違われて襲われたと思ったんだ?」
 そう。最初に有栖は傷と捻挫の事を隣人と付き合っていると間違われて襲われたのかもしれないと火村に言ったのだ。
「それは…その……彼女を助けるっちゅうか、入口のところで会った後少ししてから無言電話がかかってくるようになって」
「どんどん新事実が出てくるな、アリス」
「すまん……」
 眉間に更に深い皺を寄せた火村に、有栖はもう謝るしかなかった。
 最初に火村に言ったのは『隣人のストーカーかもしれない男に彼女と付き合っていると間違われて襲われたのかもしれない』
という事だった。
 かもしれないが多いのは仕方のない話としてもこれでは大筋がかろうじてというレベルである。
「けどほんまにその電話が彼女がらみかどうかも判らんのや」
「じゃあ有栖川先生は他に無言電話を受けるような心当たりがあるんですか?」
「いや、それはないよ。あるわけないやろう。俺は善良な一小説家なんや。っていうかいきなりですます調になるのはやめてくれ」
「善良ね……。まぁいいか。とにかく無言電話じゃそれかどうかも特定は無理だな。番号は非通知なんだな?」
「うん」
「じゃあ襲われた時はどうだったんだ?大体どこで襲われたんだ?コンビニか?スーパーの帰りか?犯人が男なのは間違いない
んだな?」
 なんだか自分の行動範囲がコンビニエンスストアーかスーパーしかないような言い方でちょっとむかついたが、言われたように
その時もコンビニだったので有栖はそれには何も言わず頷いて口を開く。
「うん。それは間違いない。帽子かぶってて顔はよお判らんかったけど中肉中背の男やった。店を出て少し歩き出したところでいき
なり飛び出してきた」
「そいつは何も言わなかったのか?大体それは本当にお前を狙ったのか?じゃねぇな、そいつはお前が有栖川有栖だと判って襲っ
てきたのか?」
「そう言われると判らんのや。言うたようにいきなり飛び出してきてナイフで切りつけてきたんや。何も言われなかったと思うけど、
よお覚えてへん。どうにかよけたのは自分で自分を褒めてやりたいけど、よけた拍子に左足を捩じって転んでしもうて」
「転んだお前にまでナイフで切りつけてくることはなかった?」
「うん。っていうか転んだ時にうわあ!とか大声を上げたみたいでコンビニから出てきたサラリーマンが大丈夫ですか?って声を
かけてくれて、多分その声を聴いて逃げたんやと思う」
「かすり傷と軽い捻挫で済んだのはお前の運動神経のお蔭じゃなくて、大声と運のお蔭だったというわけか」
「‥‥‥‥‥‥‥」
 何も言うまい。黙ったままの有栖に火村は白い煙を吐き出しながら短くなった煙草を灰皿の上に押し付けた。
「それが、一週間前なんだな?で、その後は?無言電話はやんだのか?その後彼女には会ってないんだな?」
「無言電話はまだ時々ある。でもさっきも言うたけど、俺を襲ってきた奴かは判らん。それと、彼女とは会うてへん。わざわざ訪ねて
いってその後どうですか?って聞くのもなんやし。俺もなるべく外に出ないようにしてたし」
「てことは、被害届も出してないうえに、病院にも行ってないんだな?」
「いや、だから、その、ちょっとかすった程度やったし、捻挫も湿布薬貼ってたら痛みもひいてきたし、ものすごく腫れたりしたら勿論
行こうと思うてたけど外に出たら、また襲われるリスクがあるかもしれへんやろう?今日やって電話がきたのが昼間やったから行こ
うと思うたんや」
「物は言いようだな、アリス。でもとりあえず被害届は出せ。お前を狙ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、それなら
それで無差別の通り魔的な犯行って事もありうる。その辺りにナイフを持って襲ってくるような男が居たって言うならパトロールだって
増やすようになるだろうしな。全てがはっきりしないなら他に被害者が出ないようしないとまずいだろう」
「…そうか。そうやな。すまん、自分の事しか考えなかったわ」
 すまなそうにそう言って頭を下げた有栖に火村の表情が少しだけ柔らかくなる。
「まったく、めずらしく花見だ、誕生日だと騒がないと思ったら厄介な事に巻き込まれてやがるし。とりあえず、明日は一緒に警察に
いってやるから今日は泊まっていけよ。一週間も籠っていたならろくなものは食べてないんだろう?」
 火村の言葉に有栖はほっとしたように息を吐いた。
 先ほど口にしたように誘われたのが昼間というのもあったが、火村に会いたいと思ったのもまた有栖の中の事実だった。
「筍食べたい。あと鮎も。この前見て食べたいと思ってたんや。養殖物やけど結構大きさもあったし」
「‥‥‥判ったよ。請求書は後で回すから」
「ええ!奢りやないんか?」
「ふざけるな。散々心配をかけておいてどの口が言うんだ?一歩間違えば失明していたかもしれないんだぞ。まったく」
「‥‥‥それとこれとは…」
 違うと言いたいがその可能性もなきにしは非ずなので有栖は思わず口ごもる。
「とにかく俺の白髪を増やすような事はやめてほしいな、アリス」
 言いながら火村は2本目の煙草を取り出した。
「君の白髪を俺が作ったわけやないわ」
「お前の事件に巻き込まれやすい体質が寄与しているのは事実だと思うがな」
「……体質ってなんやねん」
「まさに言い得て妙ってやつだろう?」
 ニヤリと笑う火村に、有栖は再び口を噤んだ。
 とにかく今日は何をどういっても不利だ。
 黙り込んだ有栖に煙草をふかしながら火村が口を開く。
「言ってやれば良かったのに。俺にはちゃんと恋人がいるので彼女とは何でもありませんって」
 思ってもいなかった火村の言葉に有栖は弾かれたように顔を上げた。
「!!!」
「まぁでも、そう言ったら今度は彼女を馬鹿にしていると思って逆上するなんて事も考えられるかもしれないからやっぱり言わない
で正解だったか、なぁアリス」
 にっこりと笑った顔は、けれど目が笑っていなかった。
「………君、ほんまはまだ怒ってるんやろう?」
 有栖の言葉に火村はわざとらしくひょいと肩を竦めた。
「怒ってる?心外だな、アリス。単に思った事を口にしただけだ。次から次に新事実が出てくるお前の話よりも単純だろう?ちなみに
俺はこれをGWまでにカタをつけるつもりだぜ?勿論協力をするよな?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「自分の恋人が他の女の恋人に間違われた事も、襲われて怪我をしたのを隠していた事も、病院に行かなかった事も、もうすんじ
まったものは仕方がないが、これ以上そんな事が続いたりしたらやっぱり面白くはないしな。そうだろう?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」 
「GWが楽しみだな、アリス。さて、それじゃあまずリクエストお答えして筍と鮎を食べに行こう」
 そう言った火村に有栖は何一つ返す言葉を見つけられなかった。
 今年のGWはどうやら違う意味で缶詰状態になりそうだった。


 <続く> 2