とある事件と記念日と   3



「お誘いしたのに気の利いたものが何もなくて・・・」
 そう言いながら彼女は香りのよい紅茶を有栖たちの前に出した。
「いえ、おかまいなく。あのそれで」
「あ、ええ。それなんですが、ストーカーやなかったんです」
 そう言って彼女は有栖たちの前の椅子に腰を下ろした。
「では、誰かにつけられているような気がするというのは、失礼ですが貴女の勘違いだったんですか?」
「いえ、つけられていたのは勘違いではありませんでした。ですがストーカーではなかったんです」
「ええっと…つまり」
 有栖の言葉に彼女は頭を下げながら再び口を開く。
「すみません、謎かけみたいになってしまいましたね。実は後をつけていたのは探偵社の人やったんです」
「探偵?」
「ええ。うさん臭いでしょう?私もそう思いました。 でも本当やったんです」
「どうしてそれがわかったんですか?」
 火村が口を開いた。
「その…絶対につけられていると確信して、姿を確認してからダッシュで戻ってどうして後をつけてくるのか問い詰めたんです」
「………真野さん」
 恥ずかしそうにそういう彼女に有栖は思わず言葉を失ってしまった。昔から肝が据わっているのは女性の方だと言われているが
まさしくその通りだ。それにしてもものすごい行動力と言うか何と言うかである。
「すみません……。けど、いい加減わけのわからない陰に怯えているような生活が嫌やったんです。自分でも危険な事をしたなとは
思ってます。でも一応はドラッグストアに立ち寄って顔見知りの店員さんにつけられているみたいだって声をかけておいたんです。
案の定その人が私の後をつけているらしい男を見て、警察に通報しておいてくれて、自分もその後からつけてきてくれてたから……」
「まぁ、怪我がなくて良かったし、その……ストーカーでなくて良かった。けど何で探偵社の人間が真野さんをつけていたんですか?」
 有栖の言葉に彼女は少しだけ困ったような顔をした。
「‥‥‥‥‥‥浮気相手の調査やそうです」
「は?」
「いえ!まったくの濡れ衣なんです!勝手にその人の奥さんが私がその相手だと勘違いをして探偵社に依頼をしたらしいです。それで
その現場を押さえようと私の方にも尾行をつけていたらしくて……。奥さんにしてみたらその旦那さんに、私は他に付き合っているような
人がいて、言いように遊ばれているんやって旦那さんに突き付けてやりたかったみたいです」
「はぁ……」
 どうも話が全く違う方向に流れ出した。確かにストーカーではなく、浮気相手に間違われて尾行されていたようですとは言いづらいもの
があっただろう。
「私に詰め寄られて、後ろからはドラッグストアの店員さんがきて、さらに自転車に乗ったお巡りさんが来て、観念したらしくそう話をしました。
勿論その人は詳しく事情を聞かせてもらいましょうって警察に連れて行かれましたが。それでその経緯も判ったんです」
「失礼を承知でお聞きしますが、その方は顔見知りの方だったんですか?」
 火村が再び口を開いた。
「はい。同僚です。同じ学校に勤めている方です。後で奥様と一緒に謝りにいらっしゃいました。その方が他で本当に浮気をしていたのか
どうかまでは判りませんけど」
「そうですね。それはやっぱりその……聞きづらいですよね」
「ええ。というわけでストーカーというのは私の勘違いでしたが、とりあえず後をつけられるような事はなくなってホッとしていました。心配して
いただいてすみませんでした。ありがとうございました」
「いえ、別に私は何も出来ませんでしたから。でも大事にならなくて良かった」
 有栖の言葉に彼女はほっとしたように小さく微笑んだ。
「はい。お蔭様で。やっぱり後をつけられたり、わけのわからないような感情を向けられたりなんて言うのはあまり気持ちの良いものではない
ですしね」
「ええ、そうですよね」
 うなづく有栖の言葉を遮るように、火村が訝しげな表情を浮かべたままもう一度口を開く。
「すみませんが、もう一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 火村が口を開いた。
「はい、何でしょう?」
「ストーカー行為をされているのかもしれないという時、つけられているという以外に何か変わったことはありませんでしたか?たとえばおかし
な手紙が送られてきたとか、無言電話や悪戯電話がかかってきたとか」
「いえ、そう言った事はありませんでした。もしもそういう事があったとしたら私はすぐに警察に届け出ていたと思います。後をつけられている
みたいだというのはあまりにも抽象的で相手にしてもらえないと思ったので届けることはできませんでしたが」
 その言葉を聞いて火村はコクりとうなづいた。
「判りました。話しづらいような事を話してくださってありがとうございます。とにかく解決をして良かったです。もうすぐやってくるGWを楽しんで
ください。カナリアでしたら年中GWのこの男がいつでも預かりますので」
「おい、誰が年中GWやねん!…って、あ、ほんまにいつでも遠慮なく声をかけてください」
「ありがとうございます」
 火村の言葉にムッとして声を出し、慌てて向き直ってそういう有栖に彼女はにっこりと笑って頭を下げた。
 そして二人は彼女の部屋を後にして隣の有栖の部屋に入る。
「どうやらお前の読みは外れていたみたいだな。彼女はストーカー行為を受けてはいなかった。ってことはお前を襲った男がお前を彼女の恋人と
勘違いをして襲ってきたっていう可能性はほぼなくなる」
「言われんでもそれは判っとるわ。まぁ彼女がストーカー被害を受けてなかったのはよかったけど。でもそうしたら俺の家に無言電話をかけて来た
り、俺をいきなりナイフで襲ってきたのは誰なんや?」
「さあ」
 短くそう言って火村はひょいと肩を竦めて見せた。
「とにかく、お前が有栖川有栖だって判っていてナイフで襲ってきたんならターゲットはお前だって事だ。何をした?大人しく全部吐いちまえよ」
「……君はどこのチンピラや……」
 ソファにドカリと腰を下ろした火村に有栖は呆れたように言って、向かい側のソファに腰掛ける。
 だが、彼女のストーカー騒ぎに巻き込まれたわけではないと判明した以上、火村の言う通りターゲットは自分の可能性が限りなく高い。
「ああ、嫌やなぁ。ほんまに俺がターゲットなんやろうか?けど、無言電話がかかりだしたのは彼女の話を聞いてから何やけどなぁ」
「話を聞く限りじゃ最近のお前の行動範囲はたかが知れてるみたいだしな」
「やかましいわ。サラリーマンと違うんやから毎日出かける事がないのは当然やし、俺は別に毎日GWなわけやなくてちゃんと家で執筆活動っちゅう
仕事をしてるんや」
「締切前に集中的にの間違いだろう?」
 勝手に灰皿を取り出して火村は煙草を取り出した。
「君、ほんまに一言多い…あれ?そう言えばキャメル販売中止になったやろう?今はそれなんか?」
 有栖の言葉に火村は小さく眉間に皺を寄せた。
「いや、偶々だ。外で切らして仕方なく。まったく愛飲している人間がいるのに勝手に販売中止にするなっていうんだ。とりあえずはまだある。同じ
キャメルの愛飲家が海外から取り寄せられると教えてくれたから手持ちがなくなったらそうしようかと思ってる」
 どうやらキャメル愛飲家の准教授は相当数の買い溜めをしたらしい。
「誰かに恨まれているかもしれへんな」
 有栖は意趣返しと言わんばかりにニヤニヤと笑ってそう言った。
「キャメルの愛飲家に?」
 その言葉に白い煙を吐き出しながら火村は器用に片眉を上げる。
「そう。君が片っ端からキャメルを買い占めたから自分が買えなかったとか。目の前で売り切れになって憎悪が芽生えたとか。ああ、そうや、そういう
事もあるかもしれへんな。人間どこでどんな風に恨まれているか判らんからな」
「ついに自分が恨みを買っている事を認めたのか?さてはどこかで何かを買占めをしたとか?」
 少しだけ長くなった灰を灰皿の上に落として今度は火村がニヤリと笑った。
「アホか。買い占めなんてよおせんわ。それに恨まられるような心当たりがあるならとっくに警察に言うてるし。せやけどさっき彼女も言うてたやろう?
自分の知らんところで悪意を向けられたり、わけのわからん感情を持たれてるかもしれへんて言うんわやっぱり嫌やし、へこむわ」
「まだ恨みを買っていると決まったわけじゃない」
 散々、そう煽っておいてそんな事を言ってもあまり真実味はないけれど有栖は「そうやな」と小さくうなづいた。そうして再び口を開く。
「それで先生はこれからどないするんや?明日は講義があるんやろう?」
「勿論あるさ。GW前に休講にしたら教務課からどんな嫌味を言われるか判らない」
「そうやな、君は間違いなく教務課からは恨みまではいかんが目をつけられている」
「それは認めるよ。とりあえずアリス、今度無言電話がかかってきたら録音をしておけよ」
「無言電話をか?」
「そう、相手が声を出さなくても聞こえてくる音があるかもしれないだろう?」
「そうか、そうやな。判った」
「それから、無言電話がかかってきてからのお前が出かけた先と外でも中でもいいからとりあえず接した人間の事を出来る限り思い出せ。宅急便でも
郵便屋でも、出前を持ってきた店の従業員でもだ。まとまったらメールででも送ってくれ」
「……判った。あとは?」
「後はそうだな。とりあえず隣人の女性のように無茶はせずに出来る限り引きこもってろよ。得意だろう?」
 吸い終わった煙草を灰皿の上で揉み消して火村はふうと煙を吐き出した。
「何か判ったことがあったら連絡をする。くれぐれも無茶はするなよ。それと」
「まだあるんかい」
 うんざりとしたような有栖に火村は再びニヤリと笑う。
「約束通りにいい子にしてたらGWはうまいもんを作ってやるから食いたいもののリストでも作っておけ」
「!!!」
「勿論、報酬はそれなりにいただくけどな。まぁ事件を解決してお互いいい休みにしよう」
「…………」
 報酬″が何を意味しているのか、勿論有栖にはわかっていた。
 夕べは火村の下宿先で、階下には大家が寝ているし、GWまでに解決すると息巻いていた准教授が何かを仕掛けてくるような事はなかったが、GWは
そうはいかない。
「まずは冷蔵庫の中身を確認して当面出なくてもいいように買い出しはしていくよ。夕飯も作って行ってやろう」
 警察を出た時より明らかに機嫌の良い火村に有栖は胸の中で深い溜息を落とした。


続く