.

月の出てない月夜の晩に 10

「もう大丈夫や、まだ終電まで間があるから帰れ」
「嫌です」
「アリス・・」
「家まで・・部屋まで送ります」
「・・・・・・」
 何かを言いかけて、けれど何も言えずに口を閉じて黙ってタクシーを降りた江神の後についてそこから降りながら、有栖は今は上着の中に隠れてしまった腕に巻かれた包帯の白さを思い出していた。
 季節柄ジャケットやセーターの様に地厚の服を着ていた事もあり、幸い一番大きな二の腕の切り傷も縫うまでには至らずに済んだ。けれど振り回されたナイフの先が掠めたのだろう江神の手や顔には小さな切り傷が幾つもあった。
 有栖自身は転がった時に打ち付けた肩が軽い打撲になっていたのと、いつ付けられたのか判らない、ナイフによる小さな切り傷が一つだけだったと言うのに。
 その事実が有栖の中に暗い陰を落としていた。
 お互いに無言のまま見慣れた下宿の階段を上がり、無言のまま見慣れたドアの前で立ち止まる。
 ガチャガチャと鍵を開ける音に続いて開いたドア。
 そのまま中に入り、つけられた明かりに浮かび上がった室内は泣きたくなる程有栖が見慣れた江神の部屋だった。
 運ばれた病院で処置を終え、待っていた刑事たちから簡単な事情聴取を受けて−−−勿論江神は自分の仮説を彼等に話す事はなかった−−−タクシーに乗って江神の下宿の近くで降りた。
 そして病院でも交わした同じような会話をして今、ここでこうしている。
「そんなところで立っとらんで入り」
 着ていたジャケットをハンガーに掛けながらの江神の言葉に有栖はノロノロと靴を脱いだ。
「・・・ビールは忘れてきてもうたからコーヒーでええな?」
 返事を期待している様子もなく江神はヤカンを火にかける。
 ついでカチリと音がしてキャビンの香りが有栖の鼻を掠めた。
 ありふれた、ありふれた日常にジワリと熱くなる瞳を有栖は慌てて隠した。
「コーヒーを飲んだら帰るんや。ええな」
 流し台の端に寄りかかって白い煙を吐き出しながら江神は静かにそう言った。そうして黙ったままの有栖に困った様な限りなく苦笑に近い微笑みを浮かべて再びゆっくりと口を開く。
「何て顔しとるんや?医者も大した事ない言うてたやろ?」
「・・・せやけど怪我をしたんわ事実です」
「アリス?」
「江神さんの言いつけを守らずに江神さんに怪我をさせたんわ
僕です」
「アリス・・!」
少しだけ怒った様なその声に有栖はキッと顔を上げた。
「自分が刺された方が良かった・・」
「・・・・」
「江神さんにこんな怪我させる位やったら自分が刺された方がなんぼかマシやった・・!」
「・・・それは、どうとればええ言葉なんかな・・」
 困惑と怒りとをない混ぜにしたような江神の表情をけれど有栖は視線を反らさずに見つめていた。
「俺に庇われるんわ嫌やて言う・」
「嫌や!」
「アリス!?」
「嫌や!庇われて・・こんな怪我させるなんて嫌や!絶対に嫌や!!自分が許せへん・・!」
 訪れた沈黙の中をチーッというヤカンの細い音が流れて行く。
 カチリとガスを消して江神はフイと有栖から視線を外した。
「・・・大した怪我やない」
「でも嫌や!」
「アリス・・」
「絶対に・・嫌・・や・・」
「アリス・・・」
 名前を口にして江神は一瞬だけ何かを抑える様にしながらゆっくりと有栖の側に膝を折った。
「アリス・・」
 繰り返された名前にけれど有栖は小さく首を横に振る。
「あんなんは・・もう嫌です・・あんな風に背中を向けるんは絶対に・・」
「・・・・・・」
「あの時はあれしかなかったのかもしれへんけど・・やけど」
 そう、もう2度とあんな思いはしたくない。
「・・・江神さんに何かあったら僕も生きていられへん・・」
 ポツリと独り言の様に漏れ落ちた言葉だった。
「・・アリス・!?」
 けれどその瞬間聞こえてきた声に有栖はハッと顔を上げた。
 目の前には驚いた様な江神の顔。
 有栖の中でザァーッと血の気が引いてゆく。
 それは、ずっとずっと隠してゆく筈の思いだった。
 どうなると当てもなく抱えて行くしかない筈の恋だった。
 それなのに・・!
「アリス・・?」
「・・違・・」
 小さな声に有栖は蒼くなった顔を力なく横に振った。

 ただ黙って見つめているという自由
 あの人にさとらせないという努力
 孤独というひまわり
 言葉という星−−−−−−−−・・・

「アリス」
「帰る・・・帰ります・!」
「−−−−−−!」
 いたたまれないと言う様に立ち上がった有栖の手を江神が慌てて掴む。
「離・・帰る!」
「アリス、待て!」
「嫌や!・・離せ・」
「アリス・」
「嫌や・・離して!」
 子供じみた押し問答。その中で有栖は今更ながらとんでも無い事を口にしてしまったと思っていた。もしかしたらもう二度とこの隣に居る事が出来なくなってしまうかもしれない。そう考えて思わず目の前が暗くなる。
「アリス!」
 ビクンと震えた身体。
 そして次の瞬間、有栖は絶望と悲しみと不安と諦めを混ぜ合わせた瞳をゆっくりと江神に向けた。
 それはまるで死刑の宣告を受ける罪人の様な眼差しだった。
 途端にクシャリと江神の顔が歪む。
「・・・帰れって言うと帰らん言うて、帰るな言うと帰る言うんやな、アリス・・?」
 その声は有栖に死刑を宣告するべく冷たいものではなく、優しげな、けれどどこか疲れたような声だった。
 有栖の中に湧き上がる戸惑い。
 それに気付いているかの様に江神は何かを言いかけて、口を閉じ、次にギュッと瞳を閉じるとゆっくりと掴んだ腕を離し、そのままフワリと有栖の身体を抱き締めてきた。
「−−−−−!」
「お前が・・刺されると思うた瞬間・・ほんまに心臓が止まると思うたんや」
「・・・江・・神・・さん・・」
「お前が血を流すのを見る位やったら、自分の血が流れる方がマシやと思った」
「・・江神さ・・」
 ドクンドクンと自分の鼓動が早くなってゆくのを有栖は感じていた。暖かな、ひどく暖かな江神の腕のぬくもり。
 もしかして自分はひどく都合のいい夢を見ているのではないだろうか?
「・・・・せやけど・・俺は今程死にたくないと思うた事はないよ、アリス」
 耳もとでうるさい位に鳴り響く鼓動。
「何かあってお前が生きてられん言うなら・・俺は死ねへん。絶対に・・死ねへん」
「・・・・っ・」
 震える唇。
 震える指先。
 震える身体。そして。
「・・・・好きに、なってもええか?」
「−−−−−−−−!」
「お前が、好きだと言うてもええか?」
「・・・・・っ・」
 涙が溢れ出す。
 溢れてポロポロと零れ落ちてゆく。
『その本、かなり読み込んでありますね?』
『もう七回目かな。年に一回以上読み返してるね』
『僕も二回読んでます』
『中井英夫が好き?』
『最高です』
『うちにくるか?』
 あの春の日から始まって、火を噴く山で、青い海に囲まれた島で、そして離れ離れになったあの嵐に閉ざされた山奥でもずっとずっと有栖は江神という謎を追い続けてきたのだ。
 好きだという思いも知らずにずっとずっと暖めて、抱えながら追い続けて。そしてそれに気付いて尚、ただ側にいられる事を願って、又追い駆けてきた。けれど・・・。

 きっとという奇跡
 こころという不思議−−−−−−・・・

「アリス?」
 覗き込んできた顔に涙で濡れた瞳を手の平で拭って有栖はゆっくりと口を開いた。
「推理して下さい。答えはたった一つです」
 真っ直に見つめる瞳の中で江神がフワリと笑う。
 それはいつか見た、花の開くような微笑みだった。
「好きや、アリス」
「・・・僕も。僕も好きです」

 追いかけることをやめる時、
 僕たちは未来に希望をみいだすだろうか−−−−−

 月の出てない月夜の晩。
 “新月”という生まれたばかりの月の様に今から二人で始めるのだ。
 恋と言う名の謎解きを・・・。
「アリス・・」
 ゆっくりと近づいてきた江神の顔に少しだけ驚いて有栖は小さな小さな微笑みを浮かべた。
「・・好きです・・江神さん」
 言いながら静かに瞳を閉じて。
 −−−−−重ねた吐息は、キャビンの香りがした。


やっとここまできました。お疲れ様です。次回はラストなのですが・・・・・。ああ・・どうして私これで終わりにしなかったんだろう。
Hダメな方は次回は前半を読み飛ばそう・・・