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月の出てない月夜の晩に 4

「で、結局どうだってわけ?」
「どうって・・・どうもせんて」
 いきなりカレーのついているスプーンを向けられて有栖はうんざりした様にそう答えた。
「やっぱり今時“ハンカチが落ちましたよ”じゃ引っ掛かる女はいないわよねぇ・・」
 呆れた様な、馬鹿にした様な言葉がひどく勘に触る。
「あのなぁ!俺は別にそういうつもりで声をかけたんやないって言うてるやろ?」
「はいはいそうねー」
「全然本気にしとらんやろ!」
「まぁ、アリスじゃ無理よね」
 慣れ親しんだ(?)学食の片隅。まずい、もとい、あまりうまいとは言えないカレーを頬張りながら有栖は尚も空しい反論を試みようと口を開きかけて、目の端に入った人影を見つけるといきなりガタリと椅子から立ち上がった。
「!・江神さん!!」
 カチャンと床に転がったスプーン。
 近づいてくる“どないしたんや” という顔を小さく睨みつけたまま有栖は成り行きをうかがうような周囲の視線を丸無視し
て目の前に来たその人の向かって勢い良く口を開く。
「ひどいやないですか、江神さん!あれは純粋に落としたもんを拾ってやっただけやて証人に立ってくれる言うたのにマリアにナンパやなんて話しするなんて」
「・・・何の事や?」
 突然何が何だか判らないといった江神の顔にイライラとした気持ちが高まって有栖は更に言葉を続けた。
「日曜の事です。ハンカチの事!」
「俺は何も言うてへんぞ?」
 言いながら目の前の椅子にストンと腰を降ろして江神はガサリとキャビンの箱を取り出した。
「・・・え?」
「何も言うてへんよ。第一、俺は今日マリアと会うたんは今が初めてや」
 カチリと煙草に火が点る。
「・・え・・じゃあ・・」
「事実無根の完全無罪やな」
 ふぅと吐き出された白い煙。
 では誰が?と言いかけた有栖の耳に麻里亜の吹き出すような笑い声が聞こえてきた。
「・・マリア?」
「アリスの早とちりよ。私、江神さんから聞いたなんて一言も言ってないわよ」
「・・・せやかて・・」
 チラリと向けた視線の先で江神は黙って煙草をふかしている。
 けれど・・・。
 それを知っているのはあの日一緒にいた彼だけの筈なのだと有栖は思わず眉間に皴を寄せた。それに麻里亜はもう一度クスリと笑いを零した。
「アリス“これはミステリーや”なんて言わないでね。三条通の辺りで“ハンカチが落ちましたよ”なんてやってたら誰かが
見ていて当り前位に思わなきゃ」
「見ていた・・?」
「そう。見ていたの。周りに沢山人がいたでしょう?その中に知り合いの一人や二人が居たっておかしくないわ」
 麻里亜の楽しげな言葉に有栖は記憶の中を探るようにその時の事を思い出していた。
 そう・・・・宝物館の方までしっかりと見た後、その寺を後にして有栖たちはその前に話題にしていた喫茶店に足を運び腹ごしらえをしてから河原町まで出たのだ。
 河原町三条の辺りの古本屋をハシゴして、買い逃していた3.4ケ月程前の新刊をリーズナブルな値段で手に入れて、この後どこかで少し呑んでいこうと話をしていた時にふと視界に入った見慣れた赤っぽいセミロングの髪。
(あの時はほんまにマリアかと思うたんや・・)
 脳裏に甦る雑踏の風景−−−−−−・・・・

「江神さん、あれ・・」
「うん?」
 キャビンを銜えたまま指差した方に顔を向けた江神に有栖は言葉を繋ぐ。
「マリア・・ですよね・・?」
 ひとごみの中に見え隠れするそれを追いながら有栖はこんな所で偶然仲間に会えた嬉しさと、なぜ見つけてしまったのだという小さな後悔を胸の中に抱えたまま江神に視線を移した。
 まさかここでそれに気付いたからと言っていきなり逃げるわけにはいかないではないか。
 そんな有栖の気持ちを気付く事なく江神は一瞬だけスッと目をすがめて小さく首をかしげた。
「人違いやないか?」
「えっ?・・・でも・・」
 着ている服もどことなく見覚えがある気がする。
「アリス、止まってたら邪魔や。歩くぞ」
「あ、はい」
 確かに人込みの中立ち止まっているのは迷惑以外の何物でもない。前方を同じ方向に歩いてゆくその人影を目で追いながら有栖は言葉と同時に歩き出した江神に続いて慌てて歩き出した。
 チラチラと見える赤い髪。
「・・・そんなに気になるんやったら確かめに行くか?」
 前を向いたまま江神はいきなりそう口にした。
「え・・?別にいいですよ。もともと向こうが用事があるって言ったんだし。もしもあれがマリアやったら明日会った時“昨
日見かけたぞ”とでも言ってやりますから」
 別に会いたいわけではなないのだと有栖は胸の中で言葉を付け足す。そう、有栖にとって“今”はひどく大切な時間なのだ。
「・・・ええのか?」
「江神さん?」
 けれどなぜか繰り返された問いかけに有栖はいぶかしげに隣を歩く顔を見上げた。その途端、黒い瞳が驚いた様に僅かに見開
 かれたのを見て何事かと前方に視線を向ける。
 視界に飛び込んだのは、麻里亜だと思っていた女が人の流れに逆らうようにこちらに向かってくる情景だった。
「やっぱり人違いやったな」
 江神の言葉にそれはそうだったのだけれどなぜこんな事になったのか、そちらが知りたくて有栖は慌てて口を開いた。
「そうですけど、でもどうしたんですか?」
「わからん。いきなりピタリと立ち止まったかと思ったら方向転換をして歩き出した」
「・・はぁ・・」
 それは歩き出したというよりは何かから逃げているといった方がいいような様子だった。けれど彼女を追いかけてくるような物は何もない。どんどん近づいてくる人影は(もっとも自分たちもそちらに向かう形で歩いているのだから、見る見る差が縮まるのは当然なのだが)次第に顔立ちをはっきりとさせ、マリアとは雰囲気がどこか似ている気がしなくもない全くの別人である事を有栖に教えた。
「・・まるで・・怯えてるような顔やな・・」
 ポツリと聞こえてきた声に「何に?」と口を開きかけて有栖は眉間に皴を寄せた江神からもう一度女の方に視線を向けた。
 怯えているとは一体どういう事なのだろう?
 考えながらもう一度周囲をグルリと見回して見る。その途端ドンとぶつかってきたサラリーマン風の男にグラリとバランスの崩れた身体。
「アリス!?」
「うわっ・!」
「きゃっ・!」
 3人3様の声が重なる。そして。
「すみません!」
「いえ・・こちらこそ・・」
 江神に片手を支えられながら頭を下げた有栖は次の瞬間ようやく自分がぶつかった相手が先ほどの赤毛の女であった事を知った。女はもう一度小さく頭を下げると再び逃げる様に歩き出す。
「大丈夫か?」
「え?ああ、はい。あのサラリーマン人にぶつかっておきながら謝りもせんで・・」
 ブツブツと思わず口の中で漏れた文句に江神はクスリと小さく笑って「お前もぼんやりしてたからな」と掴んでいた有栖の手をゆっくりと離した。
「・・でも一体何だったんでしょうね。彼女」
「さぁな。よっぽど会いたくない奴でも居ったんやないか?」
 その台詞にドキリとしながら有栖は「なら何で怯えるんです?」と反論をしかけてそれに目を止める。
「アリス?」
「・・これ・・彼女のでしょうか?」
 ヒョイと拾い上げたのは花柄のキチンとアイロンのかけられたハンカチ。
「・・多分。そうやろな。さっきまではなかった」
 おそらく自分とぶつかった時に落としたのだろう。
 振り返った先では幸いとでも言うか信号に捕まって彼女は交差点の所にいる。今、追いかければ渡す事が出来るだろう。けれど・・でも・・・。
「・・ハンカチ落としましたよ、なんてあまりにも古典的なナンパみたいで嫌やなぁ・・」
 思わずそう呟いてしまった有栖に江神はプッと小さく吹き出してしまった。
「江神さん!」
「すまん、すまん。ほら、アリス。はよせな信号が変わってしまうぞ」
「・・・・・見なかった・・訳にはいかないでしょうね」
 仮にも自分がぶつかったせいで落とした物なのだ。渋々歩き出した有栖に江神はクスクスと笑いながら言葉を繋げた。
「アリス、何か言われた時は“こいつは純粋にハンカチを届けただけです って証人に立ってやるから安心して行ってこい」
 「面白がってますね」と胸の中で毒突いて有栖は交差点に向かって走り出す。
 変わる信号。動き始めた集団。そして。
「あのー!ハンカチ落としましたよ」
「きゃあ!!」
 夕暮れ時の三条通の交差点。その衆人観衆の中で驚いた彼女の声が響いた−−−−−−−−−・・・。

 正直、あの時程恥ずかしかった事はないと有栖は思った。
 何事かと振り返るいくつもの視線にザァーッと血の下がるような気持ちでパッとハンカチを差し出して(いっそ投げ付けて走り去ろうかと思ってしまった)「君のと違う?」と早口でそう言った。
 驚いたような、怯えたような瞳がやがて恥ずかしげな申し訳なさそうな色に変わって聞こえてきた「ありがとうございます」という小さな声に救われたような気がしたけれど、とてもそれはひやかされる様なエピソードとは程遠いと有栖は今更ながらに思った。
「・・・・見てたって・・誰が見てたんや?」
 勿論麻里亜にこういう事を言うのだから、自分を知っていて尚且つ麻里亜とも話をするような人物なのだろうと有栖は眉間に皴を寄せてカタンと椅子に座り直した。その途端。
「・・モチやな?」
「!!」
「当り!」
 江神の言葉にパンと麻里亜は手を叩く。
「何で!?何でモチさんがそんな所で見てるんです?」
「偶然よ、偶然。説明会の帰りに仲間と歩いていたら派手なパフォーマンスがあって、野次馬よろしく覗き込んだら可愛い後輩だったって。“あれじゃあ絶対無理やろうけど一応その後どないなったか聞いといて。あと、ナンパするならもう少しうまくやれって言うてやって”ですって」
「・・・ナンパやない」
 憮然とした有栖の言葉に麻里亜は又クスリと笑った。
「まぁ、アリスにそういう器用な事は出来っこないもんね。純粋に落とし物を届けてあげた事を認めてあげましょう」
「それがほんまなんやから認めて貰ろうても嬉しかないわ!」
 すっかり冷め切ったカレーの残りを口に入れ面白くないという様に有栖が言う。
「まぁ、そない怒るんやない。ちゃんと証人に立ってやるって言うたやろ?食後のコーヒーを奢ってやるから機嫌を直せ」
 ポンポンと頭を叩く手とガタンと立ち上がった身体に有栖は慌てて顔を上げた。
「江神さん!そんな・・」
 “構わんよ”とでも言う様にヒラヒラと揺れる右手。
 それに結局何も言えなくて有栖はボンヤリとカレーの入っていた皿に視線を落とした。その途端。
「でも本当にその人、なんでそんなに驚いたのかしら?」
「え?」
「だってハンカチが落ちたって声をかけただけでしょう!?そりゃちょっとは驚いたりするけど、普通悲鳴を上げたりしないわよ。モチさん曰く“殺されそうな悲鳴”だったって」
「・・・・・・」
 そう。それは自分も感じたのだと有栖は思った。
 陳腐なナンパの様で嫌だとは思っていたけれどよもやあんな声を上げられるとは夢にも思わなかったのだ。


はい、ちょっと進んだ・・って感じかな?なんで『彼女』は声をあげたのか。
皆さんはどう考えますか?