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月の出てない月夜の晩に 5

「・・・そうなんや。それにその前にもいきなり方向転換してこっちに向かって歩き出したり。ぶつかったんわこっちも悪い
んやけど彼女も前方不注意だったんやないかって」
「・・・変よ。彼女は何でいきなり方向転換をしたのか。何でそんな悲鳴を上げたのか」
「それに、何で怯えたような顔をしていたのか?」
 有栖の言葉に麻里亜はいぶかしげに眉を寄せた。
「怯えた?」
「ああ、これは江神さんが言うたんやけど、こっちに向かって来る時怯えたみたいで、まるで誰かに追われているような感じやった」
「アリス、これこそ謎よ。一体彼女は何を見て何を恐れていたか。でなきゃあまりにも不自然よ」
「・・・・・・・ヤクザの情婦って感じでもなかったしなぁ」
「発想が貧困」
「せやかて色々な仮説を上げてみなあかんやろ?」
 先ほどの不機嫌をすっかり忘れて有栖は“猫に鰹ぶし”よろしくミステリー馬鹿の本領発揮とでも言う様にその話題にのめり込んでいった。
「何や?えらい話が弾んどるな」
 コトリとテーブルに置かれたトレーに乗った3つのコーヒーと日変りランチ。
「あ、江神さん。今、彼女は何だったのか考えてたんです」
「はぁ?」
「だっていきなり方向転換したり、怯えた様な顔をしたり、声をかけられただけで悲鳴まがいの声を上げたり不自然じゃないですか」
「で、推理か?ほら、コーヒー。マリアも」
「有難うございます!」
 差し出されたカップを受け取って二人は再びその話題に戻ってゆく。
「だから、それはアナクロ過ぎるって」
「あら、アリスの仮説よりも有り得るんじゃない?」
「お前等どんな仮説を出したんや?」
 フライに箸をつけて江神は呆れた様に口を開いた。
「彼女はヤクザの元情婦でようやく逃げた組の下っ端を見かけて焦った」
「・・・・・・」
「彼女はかけ落ちをしていて、家の者かあるいは知った顔を見かけて焦った」
「・・・あのなぁ・・」
「まだあるんですよ。彼女は犯罪の秘密を握ってて公的機関に追われている」
「追われている様な人間がそんなところをノコノコ歩いている筈ないじゃない」
「自分かて借金に追われて逃げているとか言うてたくせに」
「ボンドじゃあるまいし国家機関より借金の方がよっぽど身近で有り得るわよ」
「お前たちええ加減にせぇ・・!・・全く・・」
 どんぶりの様な茶碗に入った御飯を口に入れて江神は大きな大きな溜め息をついた。
「じゃあ、江神さんはどう思います?」
 少しだけ頬を膨らませて麻里亜が尋ねる。
 それにズズッと味噌汁をすすって江神はコトリと椀を置いた。
「どうも、こうも・・・会いたくない奴を見かけたんやろ?」
 素っ気のなさ過ぎるその言葉に麻里亜は大げさに肩を落とした
「つまんない!そんなのは判ってるんです。それが何なのか知りたいのよ、ねぇ、アリス」
「・・・ああ」
 黙々と箸を動かす江神に有栖は小さく首をかしげてオズオズと口を開いた。
「あの・・江神さん・・・何かあったんですか?・・その・・気にかかる事とか」
こんな風に江神が言うのは珍しい。
 いつも何か疑問に思うような事があれば謎解きやパズルを楽しむ様に話にのってくる人なのだ。
 ジッと見つめてくる有栖に江神はやがて参ったという様に苦笑に近い笑みを浮かべた。
「・・・勘なんや。根拠も何もあれへん。ただこれに深入りするなって警鐘が鳴ってる。忘れた方がええって思う。あの悲鳴
みたいな声を聞いた時、行かせるんやなかったとさえ思うた。嫌な・・気がするんや・・」
「江神さん・・・」
「ええか、アリス。マリアも、彼女はその時の彼女が一番見たくない、あるいは会いたくないと思っていたものを見てしまっ
た。ヤクザでも、駆け落ちでも、国家機関でも、何でもええ。この件に関して深入りはするな」
「・・・・・・・」
 真剣な江神の様子に二人は思わず黙り込んでしまった。
 僅かな沈黙。
 やがてそれを破る様に目の前の顔がふわりといつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「恐がらせて悪かった。案外いつぞやの様に彼女はただ単に腹の具合が悪かったのかもしれへんぞ」
「・・やだ、江神さんたら」
 その言葉に麻里亜が小さく笑い出した。
「悪いがこの後バイトが入っとるんや。モチたちが来たらよろ
しく言うとって。それからくだらん事心配する前に次のレポー
トの心配でもしとけって」
「はい、伝言承りました。江神さん・・じゃなくて“ポール兄さん”もバイト頑張って下さいね」
 麻里亜の言葉に笑いながら軽く手を挙げて歩いて行く後ろ姿を有栖は黙って見送った。
“嫌な・・気がする・・”
 耳に残った声。
「・・ねぇ、アリス。どう思う?」
「・・どうって?」
「江神さん、本当は何か見たんじゃないかしら?」
「!・・でもほんまに周りに彼女を追いかけてきている奴なんか居らんかった」
「追いかけてくるものとは限らないでしょう?」
「でも、彼女は追いかけてこられたと思ったから悲鳴を上げたんやろ?」
「そうねぇ、じゃあやっぱり人間なのよね、対象は」
「マリアもう・・」
「行ってみない?」
 言いかけた有栖の言葉を遮る様に麻里亜はそう口にした。
「・・行ってって・・」
「三条通の交差点」
 瞳に浮かぶのは好奇心という名の輝き。
「・・・せやかて、たった今江神さんに深入りするなて言われたばかりやろ?」
「じゃあ、アリスは気にならないの?」
 気にならない筈がない。これが気にならなければミステリーファンなどやってはいないと有栖は思う。
「でも・・・」
“行かせるんやなかったとさえ思うた”
 いつになく真剣なその顔が有栖の気持ちにブレーキをかける。
「行ってみて、彼女が立ち止まって方向を変えた場所とその周りを見て何かないか確かめるだけ。何にもなかったらそのまま帰ろう?ねっ?」
「・・・・・午後の講義はどうするんや?」
「勿論受けてから行くわよ。単位は落とせないもの。それでも暗くなる前には着くでしょう?」
 そう言ってにっこりと笑った顔に一瞬言葉を詰まらせて、次の瞬間有栖はがっくりと肩を落としながらもOKの返事を返していた。


言い付けを破ったらダメよ・・・。って。
でもやっぱり気になるよね。