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月の出てない月夜の晩に 7

 落ちるものも無くなりましたという落葉樹の寒々しい並木道。
 相も変わらぬ学生会館の2階で硬いベンチに腰掛けながら有栖は自販で買ったコーヒーをすすっていた。
「何や、アリス。その年寄りくさい飲み方は」
「こぶ茶みたいな飲み方したらコーヒーが泣くで」
 ドサドサとテーブルの上に荷物を置きながらそれぞれに勝手な事を言う望月達をチラリと見上げて有栖は小さく口を開く。
「せやかて熱いんですもん」
「今、来たんか?江神さんたちは?」
 熱いと聞いての推理だろう、次いで出てきた名前に「まだです」と答えて有栖は再びズズッと舌が焼けそうなコーヒーをすすった。つい、こういうのは注意書きがないと新しくできた何とかという法律に引っ掛かるのではなかったかとヒリヒリとする舌を持て余しながら思う。
「そういえばこの前のは一体何やったんや?」
「この前の?」
 望月の言葉にコーヒーを置いて有栖は小さく眉を寄せた。
「俺等が行ったらマリアと二人で江神さんに謝ってたやろ?二人で何かしたんか?」
 セブンスターをガサガサと取り出して、ライターを探すようにポケットを探る望月に思わず浮かんだバツの悪い表情。
「・・・・言いつけ破ったんでもうしませんって謝ってたんですよ。江神さんの忠告を聞かんかったら何や寝覚めが悪うて」
「江神さんの忠告を聞かんとは豪胆やな。で一体何の言いつけやったんや?」
 いつの間にかコーヒーを片手にしながら好奇心という色を浮かべる織田の瞳に有栖はますます渋い顔をして、やがてムッとした様に口を開いた。
「大体モチさんのせいでもあるんですからね」
「俺の!?何やそれ」
 いきなりの御指名に上げられた慌てた声。
「モチさんがマリアに下手にナンパなんて言わへんかったらこんな事にはならんかったんや」
「ナンパ・・て・・・お前、あれはどう見ても下手クソなナンパやろ!?」
「どういう事や!?」
 全く訳が分からないという織田に望月は身振り手振りであらましを話し出す。それを横目で眺めながら有栖は一昨日の事を思い出していた。
 明け方近くまでそれこそ色々な夢を見て、最悪の寝覚めで大学に来た有栖は講義もそっちのけでラウンジの定位置で江神の来るのを待ち構えていた。そうして昼の少し前。現れた長い髪の見慣れた顔に“ひどいぬけがけする気だったの!?”とそれより5分程前に来た麻里亜と二人でガバリと頭を下げたのだ。
『すみませんでした!』
 あの時の驚いた顔と、仕方がないという様な困った顔と、そしてほんの一瞬だけ浮かんだ暗い怒りの様な表情が忘れられないと有栖は思った。
「・・ナンパちゅうよりそれじゃ痴漢扱いやな。でもなんでその女そんな悲鳴を上げたんや?アリス、よっぽどえげつない声でも出したんか?」
「!冗談やないですよ!とにかく、あの時の事は忘れる事にしたんです。江神さんにもそう言われたし」
「江神さんにも?」
「じゃあ言いつけってその事やったんか?」
「冴えてるやないですか、モチさん。何や嫌な気がするから深入りするなって」
「・・・珍しいな、江神さんがそないな事言うなんて」
 銀縁眼鏡の奥で考え込む様に望月が瞳を細めるのを見て、有栖はふとそこから視線を外した。
 そう、もう考える事は止めたのだ。女の事も、言いつけを破った事も、背筋の凍るような視線の事も。
 そんな事よりも今の自分には・・・・
「あ、部長」
 織田の声に顔を上げると笑いながら小さく右手を上げる姿が見えた。
「早かったな」
「教授人もいい加減で終わりが近いと休講が多くて適いませんわ。お陰で時間割りは穴だらけ」
「温和な俺でも1限の次が5限とかなるとどついたろか!?て言う気になって。これが又必修やと泣くに泣けんちゅうか」
「普段出てればこういう時自主的休講がきくのにな」
 ニヤニヤと笑う江神の言葉に経済学部の二人はガクリと木製のテーブルになついてブツブツと文句を言う。
 そんなやりとりをどこかボーッと眺めていた有栖に江神はポフポフとその頭に手を乗せた。
「!・っわ・」
「何や、アリスしけた顔して」
 言いながら隣に座る気配。そう、そんな事よりも今の自分にはこの人と居る事の方がずっと大切な事なのだと有栖は思った。
 あの日の夜、何度も見た夢の中で江神に背を向けられてその度に飛び起きた。凍るような視線よりも何よりもそれの方がずっとずっと恐ろしい。
「掲示板に張り出してあったバイト。目の前で取られて・・」
 情け無い有栖の声に江神はクスリと笑いを漏らした。
「そんなにええ条件やったんか?」
「日給8000円はおいしいですよ。短期3日間」
「そら、確かに惜しかったな」
 フワリと鼻を掠めるキャビンの匂い。
「8000円には及ばんけど今俺のやってるバイトの一つ、紹介してやろうか?」
「何してはるんです?」
「歳暮の荷物の集配」
「・・・相変わらず肉体労働してますねぇ」
「アホ、あれ位が肉体労働になるか」
 クスクスと笑う声が耳を打つ。隣に座るぬくもりが暖かくてなぜかやるせない。
「ねぇ、部長。久しぶりに飲みに行きましょうよ。こう寒いと熱燗でキューッと・」
 身振りを交えた織田の言葉に望月が大げさに肩を竦める。
「親父やなー!」
「何やと!日本酒は日本人の心やで!」
 目の前で始まった凸凹コンビのやりとり。それ見て有栖は小さく笑いを浮かべた。
「どうする?貧民アリス」
 聞こえてきた声に顔を上げて。見つめてくる瞳に笑い返して。
「バイト紹介して貰えるんですよね?やったら行きます」
「決まりや!なら直営店に行きましょう!エンパイヤビルの地下にある!有栖のバイト決定を日本酒で乾杯しましょう!」
織田の声に盛り上がった座に「何の騒ぎ?」とやってきたばかりの麻里亜が混じってそれは更に盛り上がる。
 初冬の馬鹿騒ぎ。
 けれどそれはその後、歩きながら電気屋の店先で見たニュースで一挙に消し飛ぶ事になった。

『昨夜午後10時頃。上京区丸太町の路上で会社員−−−−さん(22)がナイフのような刃物で脇腹を刺され、背中など数ケ所を切り付けられるという事件がありました。−−−−さんは出血が多く意識不明の重体です。尚、現場からは不審な男が走り去って行くのが目撃され、警察は一連の連続通り魔事件との関係を調べながらこの男の発見に全力を上げています』
 歩道に向けられたいくつものテレビ画面。
 そこに写し出された顔はあの日の女の顔だった−−−−−−。


いよいよ身近で事件が動き出しました。