.

月の出てない月夜の晩に 8

 報道されたばかりの通り魔事件の件もあり、まだ宵の口という時間に店を出る。
 このところ来る事が多くなってしまった三条通を背に幾分赤い顔をした織田がなぜか勢いよく頭を下げる。
「ほんなら、マリアをしっかり送らせて貰います!」
「頼んだぞ」
「まかしといて下さい。ほら、マリア行くで!」
「はい。じゃあ、江神さん、アリスお休みなさい」
 ペコリと頭を下げて織田と望月の間に挟まれる様に歩き出した後ろ姿を見送りながら有栖は小さく「おやすみ」と答えた。
「行くぞ、アリス」
「あ、はい」
 短い言葉に慌てて後を追い駆けて、隣に並んで歩きながら有栖は頭の中から離れない事を口にするか否かを迷っていた。
 あの事は忘れると決めた筈なのだ。
 けれどほんの少し前にブラウン管の中で見た顔が脳裏に焼きついて離れない。
“彼女は何を見たのか?”
“彼女は何を恐れていたのか?”
“彼女は自分が被害者になる可能性を感じていたのか?”
“彼女は犯人を知っていたのか? ”
“彼女は・・ ”
 頭の中を巡るいくつもの問いかけ。
「アリス」
「!!あ・はい・!」
 突然聞こえてきた声に沈んでいた思考を慌てて引き戻し、有栖は物凄い勢いで顔を上げた。途端にぶつかった少し驚いた様な江神の顔。そしてそれは次の瞬間、フワリと限りなく苦笑に近い、けれどどこか寂しげな微笑みに変わった。
「うちによって行かんか?」
「・・江神さん?」
「何や飲み足りん気がしてな。途中でビールか何かを買うて」
 サラリと揺れた長い髪。それが足を止める事なく前に視線を戻した彼の横顔を隠す。
「江神さん」
 振り返らない顔。見えない表情。止まらない足。
「それとも、ポン酒にするか?」
「・・・いえ・・ビールがええです」
「つまみは何する?」
「・・・何があるんですか?」
「今から買うてくんや。やから、何がええ?」
 声だけが・・・声だけしか聞こえなくてそれがひどくやるせない。
「・・・・・芋けんぴ!」
「アリス!?」
 その言葉に驚いた様に振り向いた顔を見て有栖はクシャリと顔を歪めてピタリと足を止めた。
「何を隠してるんですか?」
「アリス?」
「店に行く前に江神さんも見ましたよね?テレビに映ってた。深入りするなて言われたからもう考えるんわよそうて。せやけどそんなんされたら嫌でも考える。彼女は・」
「アリス・・」
 困ったような、どこか苦しげな表情だった。
 短い沈黙。
 やがて有栖の耳に江神の微かな溜め息が聞こえてきた。
「・・歩きながら話さんか?」
 言いながらクルリと背を向けて歩き出したその背中を有栖は切ない気持ちを抱えたまま追いかけて隣に並ぶ。
「・・・・・・偶然でしょうか?」
 迷ったあげくに切り出した言葉は主語のない唐突なものだった。けれど江神は視線を前にしたまま「お前はどう思う?」と聞き返してきた。
「・・・偶然や・・ないと思います」
「俺もや」
 パァーッとクラクションを鳴らしながらテールランプの軌跡を残して走り去って行く車。
 いつの間にか取り出したキャビンに火を付けて江神はゆっくりと振り向くと同じ言葉を繰り返した。
「俺もや、有栖。彼女が襲われたんわ偶然やない。多分な」
 夜の闇にユラリと紫煙が上って、消える。
 いつの間にか河原町通と丸太町通の交差点近くまで来ていて見慣れた御所の深い緑の黒い影が有栖の視界に入った。そうして御所を右手に堀川通まで歩けば西陣の江神の下宿までは僅かな距離だ。もっともそこまではまだ先は長いけれど。
「・・・・多分、彼女は“彼”を知っていた。通り魔事件が恐らく“彼”の仕業である事も、それが“彼”が自分を捜して起こしている事も」
「・・・捜して?」
 有栖の言葉に江神は小さくうなづいた。
「推測やけど、“彼”は別れた恋人。少なくとも彼女はそう思っていた」
「せやけど“彼”はそう思うてなかった」
 今度はうなづく事なく江神は言葉を続ける。
「これも・・あくまでも推測なんやけどな、“彼”は彼女をいっそ病的なまでに愛してしまったんやないやろか。愛して、自分だけを見て欲しくて、自分だけのものにしておきたくて、誰の目にも触れさせず、宝をしまいこむ様に、大事に、大事に・・。やがて彼女はそれが窮屈で、煩わしくなってくる。それを感じて“彼”の目は更に鋭くなり、疑心暗鬼にさえ捕らわれる。誰かが自分から彼女を奪って行こうとしている。追求はひどくなり、ますます縛り付けようとする“彼”からついに彼女は逃げ出す。けれどそれこそが“彼”にとって最大の裏切り。愛しくて、誰よりも何よりも愛しくて、だから許せない」
「・・江・神・・さ・・」
 暗い闇に溶けてしまいそうな横顔をポツンポツンと立つ街頭がまるで此の世のものでは無いように照らし出していた。
ヒリヒリと渇いて痛む喉から苦しげにその名を紡いで有栖は江神を見つめる。
 けれど江神は有栖の声など聞こえなかったかの様に更に言葉を紡いでいった。
「今までの被害者はみんな彼女と同じ位の年齢。同じ位の髪の長さの女性や。彼女と思うているから殺しはしない。“彼”は彼女を愛してるから少し傷付けて懲らしめただけやった。けれどそれは彼女ではなかった。又、捜す、傷付ける。又違う。精神のバランスは崩れていた。・・・もともと愛し過ぎてしまった時点でそうなっていたのかもしれへん」
 再び車が脇を通り過ぎて行く。
 長い、長い独白のような話だった。
「・・・・・・そんな事があるんでしょうか?」
 硬い声の有栖の問いに江神は短くなった煙草を無造作に捨ててゆっくりと振り向いた。
「・・・よくある事や」
 小さな小さな呟きの様な言葉。
 けれどそれは有栖の胸の中に突き刺さる様に響く。
 再び訪れた沈黙。
 やがて江神は今まで事がまるで夢だったとでも言う様に暗い影を消して、いつもの、有栖がよく知っている穏やかな微笑みを浮かべた。
「こないな事言うつもりで誘ったんと違うんや。すまんな」
 聞こえてきた耳慣れた穏やかな声。なぜかそれが切なくて悲しいと有栖は思った。一線をひく様に突き離されてしまった気さえした。
 外した視線の先に広がる夜空。
 月のない闇夜と呼ばれる暗い空。
 幼い頃、有栖は子供心に月が無くなってしまうのが不思議で仕方がなかった。丸い月がふと気付けば細く、細くなってゆき、終いには消えてしまう事が悲しくて、月のない夜空を見つめてごねた事を何故か不意に思い出す。
“お月さんがのうなってしもうてん!”
 引き吊った子供の不安気な言葉に母親はクスリとひどく優しい微笑みを浮かべた。
“のうなったんとちゃう。新しいお月さんが生まれたんよ”
 幼い子供に太陽と月と地球の関係など勿論判る筈がない。消えた事が生まれた事と聞いて驚いた様に声を失った有栖に母は笑いながら言葉を続けた。
“生まれたばっかりのお月さんはまだこんなに小さいから見えへんだけ。でもちゃあんとアリスの事は見えてるんよ”
 月の様に人の思いも時を追って変化して又生まれ変われればいいのにと有栖は思った。そしてそう思うそばから、それでも自分はきっと隣を歩くこの人を好きになって、生まれ変わる毎にその思いを重ねてゆくのだろうと思ってしまう。
 月の出てない月夜の晩。新月という名の月の夜。
 −−−−『うちにくるか?』
 春の日の光の中で巡り合って、追い駆けて、ここまできた。
 そして自分はこれからどうしたいのだろう?
 もう何度も繰り返してきた問いの答えはまだ出ない。
「自販がある。ビールでええか?」
「・・・はい」
 言いながら脇道に入り、光々と明かりのつくそれに近づいて小銭を入れると江神はビールのランプを押した。派手な音をたてて落ちてくるアルミ缶。
「・・・・・・江神さんは・・判ってたから深入りするなって言うたんですか?」
 振り向いた、一瞬何を言われたのか判らないと言った顔が次に少しだけ苦い笑みを浮かべて首を横に振る。
「あの時はただそう思うただけや。今の仮説はさっきのニュースを見て浮かんだ空論や。買いかぶり過ぎやよ」
 2本目のそれが又音をたてて落ちてくる。
「・・・つまみはどうするかな」
「その先にコンビニがありましたよね?買うてきます。何がええですか?」
「芋けんぴやろ?」
「嘘ですよ」
 返ってきた言葉に有栖は小さく笑って走り出す。
「・・アリス!」
「はい?」
「ほんまは気になる事があって誘ったんや」
「気になる事?」


さて語りめいたものが入っていよいよ佳境に突入か?気になる事ってなんでしょう?