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月の出てない月夜の晩に 9

「気になる事?」
 5mほどの距離をおいたまま江神は少しだけ躇らうような素振りを見せてゆっくりと口を開いた。
「視線を感じたんや」
「視線?」
 ドキリと有栖の胸が鳴った。
「ああ。あの日。彼女が悲鳴を上げた時。振り返ったけど判らんかった。ただ一瞬だけ後ろから嫌な視線を感じた」
「・・・・江神さん・・」
 脳裏に甦る夕暮れの街の中の憎悪の様な悪意に満ちた視線。
 ドキドキと鼓動が早くなる。
「あの時おそらく“彼”はお前が彼女とぶつかったり追い駆けて声をかけた事を見ている」
「−−−−!」
 その瞬間、有栖は自分が重大な禁を犯した事に気付いた。
 翌日、自分は再びあの場所に行ったのだ。麻里亜と一緒に。“彼女”に似た、麻里亜と。
 ゾクリと身体が震えた。
 突き刺さる様なあの視線の意味は・・・・。
 言わなければいけないと思った。自分が翌日その視線を受けている事を伝えなければいけない。
「・・江神さ・」
 顔色の変わった有栖に江神は眉間に皺を寄せて困ったような笑みを浮かべた。
「すまん。恐がらせるつもりはなかったんや。それだけでお前が誰なのか突き止められる訳はない。ただ少し気になって」
 そう、それが1度の事ならば判らなかっただろう。けれど2度目ははっきりとその視線を浴びているのだ。
 そうして“彼女”は“彼”に捕まった。
 1度目の時“彼”は“彼女”を追う事を優先させたのだ。2度目の時そのターゲットは・・?
「・・江神さん・・!・」
「アリス?」
 明らかに様子の変わった有栖に江神はいぶかしげな声を出して一歩を踏み出した。
 その瞬間−−−−−−−。
「あいつは俺のもんや!」
「−−−−−−!?」
 聞き慣れない声に横脇の細い道から飛び出してきた身体を有栖は寸でのところで躱した。けれどその反動でアスファルトの路上に転がってしたたか肩を打ち付ける。
「アリス!」
 古い街頭に照らし出された見知らぬ男。その手の中でキラリと光った何かがナイフだと気付いて身体が強張る。
「渡さへん・・誰にも渡さへん・・」
 言いながら近づいてくる、すでに常軌を逸したその顔に嫌悪感にも似た恐怖が押し寄せて、有栖は座り込んだままじりりと後退さった。背中を冷たい汗が伝う。
「俺のもんや・・!!」
 再び襲いかかってくる身体と振り上げられたナイフ。
 そんな事で防げる筈もないと判っているのに有栖は反射的に両手をかざして目を閉じた。
「アリス!!」
 叫ばれた自分の名前。
「・ぐっ!!」
「−−−−−−!」
 それは一瞬の出来事だった。
 訪れる筈の痛みは、けれど有栖の上には訪れなかった。
 ドンと何かがぶつかった感覚に次いでグイと引き寄せられて抱き込まれる。
 クラクラとする頭。焦点の合わない視界。けれど次の瞬間有栖の耳に力強い声が飛び込んできた。
「逃げろ!」
「!!江神さん!?」
「・・・の・野郎・・」
 ユラリと肩越しに立ち上がった人影を見て、有栖はようやく江神が男に体当りをしたのだと理解した。
「逃げろアリス!」
 言うが早いか有栖を離すと態勢を立て直して江神はその殺人鬼の様な暗い影に向き直った。
「江神さん!」
「はよ行け!!」
 怒鳴る様に返ってくる声。けれどその瞬間有栖は江神が左の二の腕の辺りを庇っているのに気が付いた。
(怪我・・!?)
「江神さん、手が!」
「いいから行け!!」
「嫌です!!」
 こんな所でこんな風に彼を置いて逃げてしまうような事は出来ないと有栖は思った。そんな事をする位なら死んでしまった方がマシだとさえ思えた。
「・ブッ・殺したる・・!」
「アリス!」
「嫌や!!」
 3つの声が交差する。
「・・・・っ・・」
 ナイフを振り回す男を有栖から遠ざける様に江神は素早くそばを離れて男に向き直った。
「江神さん!!」
「早く行け、アリス!」
「・ゃ・・嫌や・・」
 小さく首を振る有栖に江神は胸の中で舌打ちをしてジリジリと男との間合いを取りながら有栖に近づくと、再び離れてゆく。
「ええな!?アリス!」
 確認をするような声。
「アリス!」
 呼ばれた名前。
「・・はい!」
 返事と同時に有栖はクルリと踵を返すと弾かれた様に走り出した。その背中に気違いじみた男の声が聞こえてくる。
「・・誰か・・」
『警察を呼んでくるんや。ここで叫べば奴は逃げる。警戒態勢やから通りに出て叫べば巡回中の奴が駆けつける。ここで終わりにしよう』
 耳に残る江神の言葉。
 息が上がる。喉が痛む。
 頬を何かが伝い落ち、それが涙だと判って有栖はグイと力任せに手で拭った。
「誰か!助けてくれ!!人殺しやー!!」
 叫びながら電話を捜して又走る。
 急がなければ、急がなければ、急がなければ!!
 ただそれだけを思って視界に入った公衆電話に飛びつこうとした瞬間。
「どうしました!?」
 かけられた言葉に顔を上げて、普段なら近づきたいとも思わない制服を見た途端有栖は縋りつく様に手を伸ばした。
「通り魔です!その先で・・早く助けて!!」

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 クルクルと回る赤いランプとその間をザワザワと落ち着きなく動く人影。
 悲鳴のような有栖の言葉の僅か5分後、無線によって集まった警官たちによって、狂った殺人鬼は捕らえられた。
「アリス・・」
 古い街頭の灯りの下でふわりと笑う江神の顔に有栖は小さく首を横に振った。
「アリス」
 近づいてくる身体に思わず目を伏せて俯いてしまう。
「・・・・すみません・・でした・・」
「何で謝るんや?」
 フワリと江神が笑ったのが判った。けれど有栖は聞き分けのない子供の様にただ首を横に振る。
「すみませんでした・・すみません・・すみま・・」
「こんなん大した事あれへん」
 言いながら肩に回された温もりが優しくて、悲しくて、どうしても顔を上げられない有栖に江神は「かすり傷や」と言葉を繋ぐ。
 無線の後「ここにいて下さい」という警官の言葉にとんでもないと言う様に首を横に振ってその制止を振り払う様に有栖は江神の元に駆け戻った。
 胸の中にうずまく不安に押し潰されそうになって細い路地を曲がる。そして有栖は見たのだ。目の前でおたけびの様な叫びをあげながら幾人もの警官たちに取り押さえられる男を。
 それはひどく悲しい、狂った獣の様な声だった。
 そうして次の瞬間、有栖は向かい側の塀に寄りかかる様にしてその光景を見つめる江神を見つけた。
 安堵に叫び声を上げそうになった−−−−−−−−・・・。
「・・・・心臓が・・止まるかと思うた・・」
「−−−−−−−!?」
 ポツリと耳に聞こえてきた江神の言葉。
 一瞬自分の思いを口にされた気がして有栖は驚いた様に顔を上げた。
 重なる視線。
 けれどその言葉の意味を有栖は尋ねる事が出来なかった。
 サイレンを鳴らしながらやってきた救急車に二人で乗せられたからである。
 けたたましいサイレンを救急車の中で聞きながら有栖は隣に座る江神の腕の、変色し始めた血の後をやりきれない様な気持ちで見つめていた。


犯人逮捕。このシーンが書きたかったんです、私。
ハッピーエンドまでもう1歩だー!!