Week 1

 それは綺麗な綺麗な月の晩。
 絵本の中に出てくるような細くて白い三日月が、澄み切った漆黒の空にくっきりと浮かんでいる。そんな冬の夜。大阪在住の推理小説家・有栖川有栖は、長年の友人である母校の助教授、火村英生と食事に出掛けたのだ。
というよりも、食事に呼ばれた、もしくは食事をしに出張してきたと言う方が正しいかもしれない。
 盆地特有の気候で、日本有数の観光地である古都は夏は釜の底のように暑いが、冬もまたえらく厳しい寒さになる。それは勿論北海道のように“マイナス何度”という日々が続いたりする訳ではないが、本州の、しかもやや南寄りに位置しているという事を考えればこの冷え込み方は“厳しい”部類に入るものだろう。
 まだ12月に入ったばかりだというのに、気の早いクリスマスソングが流れる街中は、金・緑・赤の所謂クリスマスカラーに彩られて、久しぶりに外に出てきた有栖
をひどく驚かせた。
 「世間に疎い作家先生には刺激が強すぎたか」等と笑う助教授の首を締めてしまいたくなる欲求を抑えて有栖は火村が驚き、呆れて、しまいに心配をし出す程とにかくよく食べてよく飲んだ。
 何しろ言うのも憚られるが半月ぶりのまともな食事だったのだ。
 火村が言う通り、有栖はここ半月ほど世間から逸脱したような生活を送っていた。
 今度こそ余裕のある原稿を、と毎回言っている事を例に漏れずに守れずに、後に控えていた連載ものの締め切りと、更にその後に控えていたエッセイやら文庫化された本のあとがきやらの細かい締め切りとが重なって『近年まれにみる』と本人が言う程のひどい修羅場を見る羽目になった。
 あわやカンヅメという状況を、けれど有栖はかたくなに嫌がった。東京に出るのは勿論、大阪のホテルに出かける事すらもったいなかったのだ。
 とにかく切羽詰まっていた長編の締め切りを伸ばしに伸ばして、これだけはどうしても落とせないという連載用の原稿を上げ、更にエッセイを書き飛ばし、文庫のあとがきはいっそゴーストライターにでも頼ろうかと(勿論そんな者は端から居ないのだが)自棄になりつつ、修羅場は続いた。
 半月・・・その期間内に担当者である片桐光男が大阪の有栖川邸まで足を運んだ回数は実に5回。
 週に2度の割合である。しかも後半は鍵を開けて中に担当者を中に招き入れるそれすらが億劫で、有栖は片桐に鍵を預けてしまったのだ。
 曰く「どうせ外に出られへんから。悪いけど片桐さんが来る時に一緒に食料も調達してくれへん?」
これにはさすがの片桐も目を剥いたが、青い顔で目の下に2.3匹巨大なクマを飼っているような有栖に言われて、人の好い担当者に何が言えただろうか。
 身体に悪いと思いつつ、運んだレトルト食品。来る度に量が減っているのだからそれなりに食事はして居るのだろうと思ってはいたもののそれを確かめる術もなく日が過ぎて、片桐自身青い顔をしながら「ゆっくり休んでください」と頭を下げて東京に帰ったのは3日前の事だ。
 そうしてその際に、律儀で気のつく編集者は有栖の友人である助教授に連絡を入れていた。
“突然すみません。今日最後の原稿を戴いたんですけど他社のものとも重なってひどい修羅場になってしまったんです。半月も。それで申し訳ないんですけどこれ以上食料を運ぶ事が私も出来ないので、近日中で構いませんがちょっと様子を見て下さいませんでしょうか。多分電話は無理だと思うんですよね”
 さすがに長い付き合いというか、片桐の言葉の通り有栖の電話は携帯も含めて開店休業中になっていた。
 だがしかし、火村も又大阪に行っていられるほどの時間はなかった。
 なにしろ入ったばかりとはいえ12月はいわゆる「先生も走る」という“師走”である。
 日本人の律儀さで切りよく何でも年内に片付けようとする国民性をそろそろ見直してもいいのではないかと思いながら火村は灰皿の上にうず高くキャメルの吸い殻を積み重ねていた。そしてその傍らで延々と同じ文面のFAXを流し続けていた。
『そっちに行ってる暇はない。こっちに来たらうまいものを食わせてやる』
 果たして夕べ。ようするに片桐から連絡を受けて2日後、ようやく復活の兆しを見せ始めたらしい推理小説作家はおそらく巻物のようになっていただろうそれを見つけて電話をかけてきた。しかもFAX紙がもったいないという小言付きでだ。
 かくして有栖は本日京都までやってきた。
そして久々の食事と、久々の開放感に夜空にポッカリと浮かぶ白い三日月を見上げながらついつい鼻歌などを歌って細い路地をフラフラと歩いて行く。
「あー…腹一杯」
「そりゃ、そうだろうよ。あれだけ食えばな。お前の胃袋はブラックフォールか」
 呆れたようにそう言って火村はキャメルを銜えるとカチリとライターで火を点けた。
「あははは・・いい例えやなぁ。こんどそれ使うていいか?」
「馬鹿。誉めてるんじゃない。けなしてるんだ、俺は」
「えー・・そうなん?じゃあ怒らなあかんとこやったか」
 夜空にフワリフワリと浮かぶ紫煙。それを何だかひどく嬉しい気持ちで眺めて、再び鼻歌を歌いながら有栖は
相変わらずの千鳥足で火村の前を歩く。
「・・お前頼むから人の前をフラフラ歩くんじゃねぇ」
「何で?」
「右に避けようと思うと右に来るし、左に避けようと思えば左に来るし、歩き辛いんだよ。真っ直ぐ歩くか並んで歩け」
「真っ直ぐ歩いてる」
「・・・・・ああ、そうかよ」
 脱力をしながら火村はキャメルをふかした。大体酔っぱらいにかなう筈がないのだ。まともに取り合って相手をするだけ自分が疲れる。そう自分自身を諭すようにして火村は歩調を早めた。 
 こうなったらとっとと歩いて下宿に帰って、さっさと寝かせてしまうに限る。
「あ、何で抜かすんや」
「お前が遅いからだろ」
「なんやて。俺のどこがトロい言うねん」
「絡むなよ」
「絡んでへんわ。なぁ、もう少しゆっくり歩こう。ほらお月さんも綺麗やで。なんや・・こう・・ああそう。魔法使いが箒に乗って飛んでるのが似合う月と思わんか?ほらほら」
 自分の言った言葉に自分でウケてケラケラと笑う有栖に火村は容赦なく更に歩調を早めながら、今夜の席を下宿の近辺にしたのは大正解だったと思っていた。
 この状態の人間を車に押し込めて連れて帰るのは仕事が詰まった今の状況ではかなりの重労働になったに違いない。そんな風にしみじみと思っている火村の気持ちが伝わる筈もなく有栖は又しても早まった歩調に低く唸るようにして文句を口にした。
「気持ち悪い〜・・もう少しゆっくり歩け〜」
「ここで吐いたら容赦なく捨てて行くからな」
「人非人!鬼!悪魔!イケズ!!」
「・・・・・これ以上騒いだら強制送還」
 目の前に見えてきた下宿。時計の針は日付が変わるまでに間があり、宵っ張りの推理小説家にとってはまだまだ宵の口という時間であってもこの辺りでは真夜中と一緒だ。騒いで、すでに眠っているであろう家主を起こすのは火村としては避けたい。
 普段の有栖ならばその辺りは心得ているのだが、今日の時点でそれを彼に求めるのは無理そうである。
 短くなった煙草を携帯用の灰皿の中に落として、火村はふぅと溜め息と一緒に白い煙を吐き出した。
 最後の一言が効いたのか、有栖は静かに後を付いてきている。それを視界の端で捕らえつつ火村はカラリと玄関の戸を開けた。


ちょっと強気な火村の話です。続きをお楽しみに。