Week 2

「ほら、着いたぞ。婆ちゃんは寝てるから静かに上がれよ」
 判っている事を敢えて火村は口にする。けれどそれが聞こえているのかいないのか、有栖は暗い玄関で立ったまま奥の部屋の方をぼんやりと見つめてやがてポツリと口を開いた。
「お土産買うてくればよかったなぁ」
「ああ?」
「婆ちゃんに」
「・・・・・・」
 だから寝ていると言っただろうという言葉を飲み込んで火村は靴を脱ぎ始めた。
 本当にこれは早く寝かしてしまうしかない。
 改めてそう誓いなおし、何度目か判らなくなったような溜め息を胸の中で落として、火村はようやく靴を脱ぎヨロヨロと階段を登ってゆく有栖に後ろから小さく声をかけた。
「階段落ちは御免だぜ?」
「え?何や?新撰組の池田屋襲撃か?あ、でも映画もあったよなぁ?『蒲田行進曲』?平田満だったっけ?」
「・・俺が悪かった。何でもいいから上がってくれ」
 興味を引くといくらでも喋ってしまうというのも酔っぱらいの特徴だ。チッと舌打ちをして、まだ喋り足りないような有栖を後ろから押すようにして部屋に入れると火村は思わずほぉっと息をつき、畳の上に散っていた本を行儀悪く足で退かすとすぐさま客用の布団を敷き始めた。
「あれ?火村もう寝るんか?仕事があるとか言うてなかったか?」
「・・・・・・」
 どうして酔っぱらいというのはこういうどうでもいい事はきちんと覚えていられるのだろう。
 半ば呆れ、半ば感心して火村は布団を敷き終えると空いている机の前辺りの畳の上にドカリと腰を下ろした。
 その途端自分自身も今ひとつ力加減がセーブ出来ない事が判ってつい苦い笑みが漏れる。控えたつもりで居たのだが疲れた身体は少量のアルコールでその効果を発揮してしまったらしい。 
 座った途端押しよせて来るような疲れを振り払うようにして火村は胸ポケットの中からキャメルを取り出して火を点けた。そして。
「寝るのはお前だ」
「え?俺?」
 白い煙の向こうにいかにも心外と言った有栖の顔が見える。
「記憶力の方は冴えているようで何よりだがなアリス。その他はヘロヘロでヨロヨロなのは一目瞭然だ。仕事の邪魔をしないでとっとと寝てくれれば、明日の朝飯は作ってやるぜ?」
「何やそれ。人の事を餌付けをする猫みたいに。それよりなぁなぁ、その仕事って凄く時間がかかるんか?一時間くらいで終わらんの?」
「待たれるのは気になるから嫌だ。大体一時間くらいで片づく仕事なら明日に持ち越しをしている」
 きっぱりとそう言うと有栖の顔がクシャリと小さく歪んだ。
「ケチ」
「うるさい」
「ケチケチケチケチ」
「・・アリス」
「そないに忙しかったんなら今日でなくても良かったんや・・」
 半月の修羅場からようやく復活をした推理小説家は拗ねたようにそう口にした。その子供じみた様子に、もう一度、けれど先程とは少しだけ異なる苦笑に近い笑みを浮かべて、火村は机の上の灰皿に少し長くなってしまった灰を落とした。
 今日、有栖がやってきたのは7時。約束通りの時間に研究室のドアを叩いた彼を「開いてる」の一言で部屋に招き入れた火村は、一目見ただけでだけで痩せたと判る身体に思わず眉を顰めてしまった。そうしてわざわざ電話をしてきた担当編集者に感謝をし、ついでに己の仕事の忙しさを呪った。
 こんな状態の有栖をこちらに来させなければならなかったという事がひどく嫌で自分自身に怒りすら覚えた。 勿論そんな火村の気持ちを目の前の小説家が気付く筈もない。何よりも火村自身気付かせるつもりがないのだ。
 自己嫌悪も反省も、そして火村自身が胸の中にずっと抱え込んでいる思いも有栖は判らなくていい。
 ユラユラと立ち上る紫煙。半分ふてくされてしまった酔っぱらいの言葉を「俺にも気分転換が必要なんだよ」と一言で片付けて火村は「さてと」と一つ伸びをして机に向き直った。
「え!ほんまに仕事するんか!?」
「今夜中に片付けないとまずいんだ。明日は講義が詰まっているから」
「明日も仕事なん?」
「当たり前だ。明日が休みなら今頃お前を退かして俺がそこで寝てる」
「・・・・・・・じゃあ、起きてる」
「ああ?」
「せやって火村も眠れへんのやろ?それなのに俺だけがグースカグースカ眠りこけてたら申し訳ないやん。だから俺も起きてる」
「・・・・・それでお前は何をするんだ?」
灰皿の上に押しつけた煙草。思わず眉を寄せた火村の目の前で有栖は視線を泳がせた。
「えー・・・・っと」
 ここには有栖の商売道具であるワープロはない。かといってガサガサと本を漁っていたらそれはそれで邪魔になる。それは判っているらしく、チラリと本の山に向けた視線を有栖は一瞬で逸らした。
 火村に言わせればそれが判っているなら何故ここで起きているという発想が出てくるのかが知りたいのだが酔っぱらい相手にそんな事を言っても始まらないのは今更の事実なので、言う気にもなれない。
 渋い顔をした火村から半分視線を逸らしつつ有栖はゆっくりと口を開いた。
「コーヒーを淹れてぇ・・・」
「・・淹れて?後は?」
「後は・・暖かく君を見守ってるってぇのはどうや?」
 にっこりと笑った顔に火村は今度こそ本気で頭を変えてしまった。
 本当に酔っぱらいというのは・・という事を今夜は何度考えさせられなければならないのだろう。 
 一体自分が何をしたというのだ。
「暖かく見守って貰っているより、とっとと寝てくれた方が有り難い」
 ヒリヒリと痛むようなこめかみを押さえつつ、にべもなくそう言った火村に、有栖は今度は本当に子供と同じく頬を膨らませた。
「何でや!」
「起きている事自体が騒がしいんだよ」
「失礼すぎる!」
「おい、何度も言っているだろう。婆ちゃんが起きるから静かにしろ」
「君が悪いんやないか。人の好意を無にして。そら忙しいとこのこのこ押し掛けてきたのはこっちやけどうまいもん食わしてやるって“巻物”を寄越したのはそっちやで。ええわ、もう。そんなに邪魔なら帰る」
「車で来てないのにか?」
「君が車は駄目だって言うたからやろ!」
「だから泊まっていけばいいだろう?」
「せやって寝ろって言うやないか」
「・・・・お前は何をしに泊まりに来たんだ。泊まるってぇのは寝るだろう普通。それとも一晩中語り明かしに来たってぇなら悪いが一人でやってくれ。俺は仕事をして、終わったら寝る」
「俺かて寝るわ。ここで又徹夜なんか出来へん」
「なら寝ろよ。おやすみ良い夢を」
「まだ寝たくないんだってば」
「・・・・・」
 ああ、本当に子供だ。元々そう言うところもある人間だとは思っていたが、酔うとここまで拍車がかかるとは長い付き合いだが予測出来なかった。というよりもこの推理小説家は年々子供化しているのではないだろうか?
 そんな事をつらつらと考えながら火村は深い深い溜め息を落とした。そして。
「・・・・勝手にしろ。言っておくが騒いだら殴ってでも寝かしつけるからな」
「・・・判った」
 神妙な顔をしながら、けれどどこか嬉しさを滲ませた有栖から視線を外して火村は机に向き直った。
 それを見て一応気を遣いながら出来るだけ音を立てないようにコーヒーを淹れるべく有栖は立ち上がって台所に向かう。
(・・・ったく・・)
 安易に機嫌の直ったらしい有栖を振り返る事なく火村はガサガサと持ち帰った資料を広げると新たなキャメルを銜えた。
その間にも背中から聞こえてくるカチャカチャと小さく食器の触れあう音。
 それを聞くともなしに聞きながら、火村は胸の中で何度目かの溜め息をついた。
 火村自身がそうし向けてきたのだから仕方がないのだが、有栖は火村の気持ちを知らない。多分知っていればここまで無邪気にはなれないだろう。キャメルを燻らせながら手元の資料に目を落としつつ、火村は湧き上がってくる思いを追う。
 有栖は自分を親友としかみていない。
 それは火村自身が一番良く知っている事だ。それでも一度芽生え、認めてしまった思いは消しようがなく、らしくもないと判っているがただ有栖を手放したくなくて自分はもう何年もその思いを隠し続けているのだ。
 だというのに当の本人は時折こんな風に火村の自制心を試すような事をする。
 鈍くさいのも一種の才能だ。
 又してもクスリと苦笑に近い笑いが漏れた。
 その途端フワリとコーヒー特有の香りが鼻孔をくすぐる。どうやら自他とも認める酔っぱらいは第一目的の『コーヒーを淹れる』事は無事に出来たらしい。
「旨いのがはいったで」
 机の上にコトリと置かれたカップ。
 小さく「ああ」と言うと満足したように有栖は本棚に向かった。どうやら積み重ねてある山ではなく、棚に入っている本を漁る事にしたらしい。
 訪れた沈黙。
今度こそ仕事に集中するべく火村は資料に向かった。
 パラリとレジメを捲る音と、時折棚から本を引き出す音が狭い部屋の中に聞こえて、時間が過ぎてゆく。
 けれど、でも、酔っぱらいはやはり酔っぱらいだったのだ。
 穏やかな時間は飼い猫がスルリと部屋の中に入ってきた途端に破られた。
「あ、ウリ!」
 声をかけられて嬉しかったのか、はたまた久しぶりにやってきた小説家を構ってやろうと思ったのか、酔っぱらい以上に気まぐれな猫は勢いよく手招きをする有栖の所にやってきた。
 フワリと触れた柔らかな毛の感触にヘラリと笑って有栖はその身体を抱き上げる。
「久しぶりやなぁ?どこ行ってたんや?下に居たんか?小次郎や桃はどないした?」
矢継ぎ早の質問に瓜太郎は「ニャー・・」と一声鳴いてスルリと有栖の腕から抜け出した。それに「アッ」と小さな声を上げて有栖は瓜太郎の後を追いかける。
「どこに行くんや、ウリ!」
「ニャー」
「そっちに行ったらあかんて。ほら、こわいおじさんが居るんやで」
「・・・・・・・」
「ウリってば、ウリー、こっちにおいで。ほらほら」
「ニャー」
「そんなんほっといて俺と遊ぼう。ウリ」
「・・・・・・」
「ウリー、行かんといてくれぇ」
「ニャー・・」
 背中から聞こえてくる猫と人間のやりとりに火村は再び頭を抱えたくなってしまった。
 大体こわいおじさんというのはどう言う事・・ではなく、なぜ猫相手にこうまで必死になれるのか。
「ううう・・飼い主に似て可愛くない。あ、小次郎や。コジローあそぼー」
「・・・いい加減にしろよ、アリス」
 低く唸るように呟いた火村に、二匹目の猫にも逃げられてしまった有栖はムッと口を尖らせたまま火村の事を睨みつけた。
「つまらない」
「ああ?」
「全然つまらん。君も猫も勝手すぎる」
「・・・・・・」
 誰が一番勝手なのか。その言葉を飲み込んで火村は何も言わずに資料に視線を戻した。
「なぁ、もういいやん。資料集めとか、文書の打ち込みやったら明日手伝うから止めて飲も」
「酔っぱらいに飲ませる酒はない」
「それやったら火村も寝よ。そうや、そうしたらええやん。一人で寝てたらなんや申し訳ないけど一緒に寝たら遠慮せんでええもんなぁ」
「・・・・一体いつお前が遠慮をした事があるんだ?くだらない事を言っていないでとっとと寝ろ!!独り寝が出来ない年じゃないだろう!?」
 幾分口調を荒げた火村に有栖は一瞬だけポケッとその顔を見つめて、次の瞬間ニヤリとあまりタチの良くない笑いを浮かべた。
「ふっふっふっ・・こうなったら何が何でも眠らせたくなったで。ほら、寝ようてば。火村。眠れへんようやったら子守歌でも歌ってやるで?」
「まだ耳の聞こえはいいんでね。丁重にご遠慮願うぜ」
「どういう意味やねんって・・おっと、そんな言葉でごまかされへんで。ほらもう観念して。どうせ仕事になんてなってへんやないか。なっ?」
 一体誰のせいなんだ。怒鳴りそうになりながらも火村は三度仕事にしがみつく。
「火村」
「・・・・・・・」
「いい加減諦めが悪いな君も」
「・・・・・・・」
「なぁ、寝よう」
「・・・・・・・」
「火村ってば、火村ぁ・・一緒に寝よう」
「・・・・・・・」
 端から聞いたらとんでもない台詞を口にして有栖は背中に抱きつくようにして火村の身体を揺さぶった。
「・・・・いい加減にしろよ」
「君が強情なのがいけないんや」
「・・・てめぇ・・」
 振り向いてはいけない。それは火村自身が一番よく分かっていた。今振り向いたらとんでもないことをしてしまうかもしれない。けれど、でも、そんな火村の気持ちを有栖はやはり気付かない。
「寝ようー。なぁってば、もう寝よう」
「おい本当に叩き出すぞ!!」
「火村、婆ちゃん起きてまうよ」
「・・・・・・」
 先程から自分が繰り返していた言葉を盾に取られて火村はガックリと肩を落としてしまった。
 本当に一体自分が何をしたというのだろう。いくら気持ちが判っていないと言ってもこれはあまりにもひどすぎる行為なのではないだろうか。
「・・・有栖川先生は添い寝をしてやらないと眠れないってわけか?」
「あははは・・それもええなぁ。布団敷くのも面倒やしほんまに一緒に寝るか?」
「・・・・・・」
 そして判っていないと言う事はこれほどまでに暴力的な事だったのだろうか。
 ズキズキと痛むこめかみを押さえていた指を外して薄く嗤うと火村はゆっくりと後ろを振り返った。それに有栖が嬉しそうな表情を浮かべる。
「寝るか?」
「・・・いいぜ。寝てやっても」
「そうか。そんなら気が変わらんうちに寝よ」
 ニコニコといっそ無邪気に笑う顔に火村の中にむくむくと行き場のない怒りが湧き上がってきた。
 こんな状態のアリスを京都に呼び寄せたのは確かに自分だ、けれどこれはあまりと言えばあまりな状態である。 だから少しくらいの報復があっても許されるだろう。 悪いのは有栖自身なのだ。
「ところでアリス、寝るってぇのはまさか枕を並べてお休みなさいってだけの事じゃねぇよな?」
「へ?」
「お互い立派な大人なんだ。これだけ誘っておいてそれだけってぇなら俺にも考えがある」
「さ・・誘う??」
 ポカンとしている有栖に火村は人の悪い笑みを浮かべて更にたたみかけるように口を開いた。
「そう。これはお誘いなんだろう?据え膳はやっぱり食わねぇとな」
「据え・・って・ひ・火村!?」
 言うが早いか畳の上に倒された身体に有栖は思わず引きつった声を上げていた。
 慌ててバタバタと手足を動かすが酔っぱらいの悲しさか、のし掛かってきた身体をうまく退かす事が出来ない。
「や・・」 
 首筋に当たる息。肩を抱く大きな手。
「アリス」 
 耳元で囁くように呼ばれた名前。
「あ・・」
ヒクリと有栖の喉が震える。
 勿論火村としてはこれくらい驚かせば十分だと思ってはいたのだ。けれどでも、押さえ込まれて下から見上げてくる有栖の瞳に火村の鼓動がドクンと大きく鳴った。
「・・・・・・・」
 濡れたような瞳と赤い顔。
 有栖は確かに驚いていた。そして思うように抵抗出来ずに口惜しそうな色も浮かべていた。
 複雑に絡み合った感情。
 それは火村が初めて見る有栖の表情だった。
「も・・放せって・・」
 僅かな抵抗は挑発と同じだと言ったのは誰だっただろう。
「冗談キツイで・・」
「・・・冗談じゃないって言ったら?」
「火村・・?」
 ドクンドクンと鼓動が早まる。
「本気だって言ったら?」
「本気・・・・って・・」
 腕の中の身体はすでに抵抗する事を忘れている。
「アリス・・」
 今なら言ってしまえるだろうか。
 言ってしまってもいいのだろうか。
 このままで居られればいいと思い続けていた事も紛れもなく火村の本心だったが、何かが起きる事で自分たちの関係がどう変わるのかを見てみたいと思い始めている自分がいる。
 そんな風に思うのは自分もかなり酔っている証拠なのだろうか。胸の中で自問自答を繰り返しながら火村はどこか怯えたような色を滲ませた有栖の顔を見下ろした。
 そしてこんな顔をさせているのは確かに自分なのだと思いつつ小さく口を開く。
「目を瞑れよ」
「・・なんで?」
 唐突な火村の言葉に有栖はこんな状況にも関わらずキョトンとして問い返してきた。それがらしくて、ひどく愛おしくて、答える代わりに瞼に軽く口づけを落とす。
「・・・・なんでキスするんや?」
 直接的な問いに火村はクスリと笑った。やはり有栖は酔っている。今更ながらの事実に、けれどそれでもと思う自分が火村の中に居た。
「なぁ・・何でや」
「したいから」
「・・・なんで・・?」
「好きだから」
 長い間胸の中にしまっておいた言葉は案外サラリと火村の口から零れ落ちた。
 見上げてくる、驚いて見開いた瞳。
「・・俺を好きなのか?」
「もう黙れよ。誘ったのはお前だ」
 ゴソリとセーターの中に手を入れるとビクリと身体が震えた。
「・・ぁ・」
 と同時に漏れ落ちた短い声に、火村は下に敷く身体を思い切り抱きしめる。
「好きだ・・」
「・・・・っ・・」
 奪うようにして重なる唇。反射的に瞳を閉じた有栖のそれを角度を変えて深く深く口づけながら火村は名前を呼ぶ。
「アリス」
「・・・ん・・」
「・・アリス」
 どういうつもりなのか口づけの間に背中に縋るように回された腕に、火村は唇だけでなく先程触れた瞼に、そして頬に、耳元に、首筋に唇を寄せて、少しだけ身体を起こした。その途端。
「・・・・っ・・!」
 パタリと畳の上に落ちた腕。
「・・・アリス?」
 湧き上がる嫌な予感をそのままに伸しかかっていた身体を起こして、火村は眉を寄せながら動かない有栖の顔を覗き込んだ。
「・・・おい・・」
 有栖は瞳を閉じていた。
 そしてそれは別に火村の行為を許したとか、抵抗を諦めたとか、ましてや驚いて気を失ったとかそういうものではなかった。
「・・・どうしてこの状況で眠れるんだ、お前は」
 聞こえてくる、腹が立つほど規則正しい寝息。
 あれ程寝ろと言っていた時は眠たくないだの何だのとごねて、さんざん人の気持ちを掻き回して、あげくにこれはないだろう?
「起きろ、この馬鹿!」
 腹立ち紛れに拳で頭を軽く叩いてみたが返ってきたのは「うーん」という寝ぼけた声だけだった。
 完全に寝ている。完璧に寝ている。
「・・・このまま襲うぞ」
 口に出した途端襲ってきた脱力感に、火村はややしばらくひどく幸せそうな有栖の寝顔を見つめていた。
そして浮かんできた一つの疑問。
 果たして有栖はこの事をどれくらい記憶しているのだろうか。
 この分ならばほとんど記憶がないと思って間違いはないという思いと、もしかしたら断片的に何かを覚えているかもしれないと思いが火村の中で交差する。
「・・・今更か・・」
 ポツリと漏れ落ちた声。
 有栖が覚えていようといまいと、自分が有栖に「好きだ」と告げてしまった事は変わらないのだ。ここに来て有栖の記憶を気にしながら今までと同じく接してゆく事など多分自分には出来ない。というよりはしたくもないという方が正しいと火村は思った。
 押さえつけた身体のぬくもりも、重ねた唇の甘さも忘れる事など出来る筈がない。
 それならば・・・
「ようするに手放すつもりはないんだと俺が腹をくくればいいって事だよな、アリス」
 眠ってしまった有栖に向けて火村はそう口にすると
胸ポケットの中から皺になったキャメルのパッケージを取り出して、おもむろにその一本を銜えるとカチリとライターで火を点けた。
 フワリと上る白い煙。
「とりあえず今日の事を覚えていて貰わないとな」
 好きだと告げた事を覚えていなくても、何かがあった事は判っていて貰わなければならない。
 ユラユラと揺れる紫煙を瞳で追いつつ、すでに今夜の仕事を放棄して、火村は“今後の傾向と対策”を本気で考え始めていた。


開き直った助教授。この辺りから火村が居直り始めたんです、うちの場合・・・・ヽ(´・`)ノ フッ…(笑)