Week 3

 チュンチュンという何ともオーソドックスと言えばオーソドックスな声でポッカリと目が開いた。
 飛び込んできたのは見覚えのある木目の天井。
 記憶を探って「ああ、火村の所に泊まったんやった」と落ち着いたところまでは有栖がよく経験している事だった。
 久しぶりにまともな食事をして、飲んで、何より気の置ける友人と話をして、どうやら下宿にかえってきた辺りから記憶が怪しくなっている。
 なんとなく火村を困らせてコーヒーを淹れた所までを思い出して、有栖は思わず眉を顰めてしまった。今更という感じなのだが、火村に迷惑をかけてしまったに違いない。
 湧き上がる罪悪感に有栖はとにかく謝ろうと身体を起こし、次の瞬間思わず布団の中に逆戻りをしてしまった。
「な・・何で?」
 どうして自分は真っ裸で寝ているのだろうか。
 今は冬である。勿論真夏でもそんな事をした事はないが、百歩譲ってその季節ならば暑くて脱いだと言う事が考えられなくもない。が、しかし、真冬には万に一つもその可能性はない。それならばなぜこんな事になっているのだろうか。
 グルグルと回る頭の中で必死に夕べの記憶をかき集めても思い出せるのはコーヒーを淹れたという事止まりでおそらくそれ以前の事なのだろう記憶さえ断片的にしか浮かんでこない。
「いいい・・一体何があっんや・・・」
 グルリと部屋を見回したが部屋の主の姿は見えなかった。もしかしたらも出掛けてしまったのだろうか。
 それとも、何かよほど火村の怒る様な事をしでかしてしまったのだろうか。
「・・・・」
 どうにも使えそうにない頭で有栖は記憶に頼るのを諦めて今度はこうなってしまうかもしれない可能性を探してみる事にした。仮にも自分は推理小説作家なのだ。冬に友人の家で真っ裸で寝ていた事の理由くらい一つや二つ浮かんで来なくては行けない。
「えー・・・っと」
 妙な使命感にも似た思いに取り憑かれて、有栖は眉間の皺を深くした。
「・・・服を脱ぐ理由・・・うーん・・風呂・・夜中に風呂に入りたいとか言って脱ぎだしたんやろうか」
 そうして火村に止められて布団に押し込められた。
「ストリーキングの趣味はないねんけどなぁ・・」
 大体それが本当だったら自分は火村に合わせる顔がない。
「あとは・・汚したりしたら脱ぐやろ・・」
 自分で言って、次の瞬間有栖は思わずヒクリと顔を引きつらせた。
 もしかしたら自分はコーヒーを飲むだのと言いながら見事に戻してしまったり、又は淹れたコーヒーを零したりしてしまったのだろうか。そして脱いだ。と言うよりもこちらの場合は脱がされた可能性が高い。
「・・・こっちやったらますます合わせる顔ないやん」
 情けなくそう呟いて、有栖はかけていた布団を身体に巻き付けるようにしてもそもそと起きあがった。
 考えられた可能性はとりあえず2つだったが、そのどちらもが火村に迷惑をかけているものだった。
 酒乱のつもりはないのだが、昨夜はそれに近い事になってしまったに違いない。
「・・・・とにかく何か着ないと風邪引くわ・・」  ブルリと身体を震わせて有栖はキョロキョロと部屋の中を見回した。
 そして視界に入った、きちんと畳まれて置かれている自分の服。
「・・・・」
 と言う事は汚した説はここで消える事になる。残るのは自分で脱いだ説だけだ。
「・・・・・・・ほんまか・・」
 有栖が呆然としたような声を漏らした途端、カチャリと部屋のドアが開いた。
「!!」
「ああ、起きたのか」
 入ってきたのは当たり前だが、火村本人だった。
 見たところ怒っている様子はない。
「あ・・の・・」
 一瞬で素早くそれを観察して、有栖は小さく口を開くと、次にどう話していいのか判らずに俯いてしまった。
 それに火村がクスリと小さく笑う。
「身体の調子はどうだ?」
「へ・・・?」
「なんだ、やっぱり覚えてないのか」
「!!」
 火村の言葉に有栖は慌てて顔を上げた。
やっばり、というかこんな恰好なのだから当然なのだが自分は何かをしでかしているのだ。
「あ・・・あの・・・火村・・その」
「うん?」
 自分の記憶にない奇行(だろう、多分)を長年の友人から聞くというのは思っている以上に気恥ずかしく、辛いものだと言う事を有栖は身をもって味わっていた。
 けれど知らない事の方がそれよりも何倍も歯がゆい。
 チラリともう一度見ると、火村は怒ってはいないようだ。というよりもどこか楽しそうでもある。
 怒らせるような事よりも、呆れる様な事なのだろう。 有栖はそう判断を下して小さく口を開いた。その瞬間。「本当に何も覚えていないのか?アリス」
「え・・・」
「まいったな・・」
「・・・何・・が?」
「・・・・・・・ああ」
 湧き上がる不安。
 長年の付き合いになるが、目の前の友人がこんな風に言葉を濁すようにするのを見るのは初めてだ。
 一体自分は何をしてしまったのか。ヒクヒクと引きつりそうな頬を宥めて有栖は火村に向かって声を出した。「あの・・迷惑・・かけたんやろ?」
「・・・迷惑・・ねぇ」
「こ・・これ・・じ・自分で脱いだんか、やっぱり。夜中に風呂に入るとか言いだしたんやろか」
 先程考えた“可能性”を有栖は言葉にしたみた。
 けれど火村は「そんな事はない」というだけでそれ以上の答えを与えようとはしない。
「・・・じ・・じゃあ、俺は一体何をしたんや!!はっきり言うてくれ!こんなんイライラするわ」
 とても迷惑をかけたのかもしれない人間に対して言う言葉ではないのは判っていたが、それ以上に有栖は煮詰まっていた。
 何故裸でいるのか。
 何故「まいったな」なのか。
 何故開口一番に身体の心配をされたのか。
「・・・誘われた」
「はぁ・・・!?」
「判らないか?お前に誘われたんだ」
「誘われた?何処に?」
「馬鹿。場所じゃねぇよ。仕方がないな」
「!!何すんねん!!」
 溜め息混じりの言葉と共に巻き付けていた布団を剥がされて有栖は慌てて声を上げた。けれどそれに動じることなく、火村は有栖の胸の辺りを指で触れる。
「ここと・・・・」
「・・え・・」
「・・ここ」
 今度は脇腹の辺り。
「それから、ここ」
サァーッと血の気が下がってゆくのが自分でも判った
 言いながら鎖骨の下辺りに触れた指。
 勿論そこは見えないけれど、先に指し示された所と同様の赤い跡がついているに違いない。
「つけるつもりはなかったんだが、悪いな」
「・・・・・」
 悪いと思っている様子もなく口にした火村に有栖はもう一度その跡を見た。
 それが何なのか。勿論判らない程馬鹿ではない。
 けれどでも、それをなぜ火村が自分につけたのかが判らない。ヒリヒリとするような喉を一つコクンと鳴らして有栖は火村の顔を見た。
「なん・・で」
「だから言っただろう?誘われたんだ、お前に」
「嘘や!」
「嘘言ってどうすんだよ。それとも俺がお前を襲ったとでも言いたい訳か、お前は」
「それは・・でも・・それにしたって・・」
 いくら誘われたと言ってもなぜ、火村は自分にこんな事をしたのだろう。
 目は口ほどにものを言う有栖に火村は薄く嗤って口を開いた。
「俺も驚いたけどな。一緒に寝てくれって言われた時はさすがに耳を疑った。本当にこれっぽっちも覚えてないのか?」
「・・・・・・そんなん」
覚えていたらここにこうして居られる筈がないではないか。そんな有栖の言葉にならない声が聞こえてでもいるように火村はもう一度薄く嗤って、たたんであった服をバサリと有栖の頭からかぶせた。
「!!」
「とにかくさっさと着ろよ。風邪引くぜ?それとも思い出せるようにもう一度同じ事を挑戦してみるか?」
 聞こえてきた言葉に有栖は慌てて服を掴んだ。
 そして素早くそれを身につけると、すでに新聞を広げながらコーヒーを口にしている火村に向かってゆっくりと歩き出した。
「なぁ・・」
「ああ。着替えたのか。コーヒーならそこにあるから勝手に入れてくれ」
「・・・・・・・」
 取りつく島もない火村の横顔。
 その横顔に有栖の中に先程浮かんだ疑問が浮かぶ。
 なぜ火村はその誘いに乗ったのだろう。
 どうして自分を抱く気になったのだろう。
「・・・すまん・・」
「何で謝るんだ?」
 振り向いた火村の眼差しに有栖は俯きながら言葉を続けた。
「・・・嫌やったやろ・・・」
「何が?」
「・・・・い・・一緒に寝・・寝てくれとか・・言うたんやろ?」
「ああ。言ったな」
「きっと・・め・迷惑かけたんやろ?」
「さっきから迷惑迷惑って言っているけどな。お前の考える迷惑ってぇのはどういうものなんだ?」
「どういうって・・」
 どう答えればいいのだろうか。思わず言葉が詰まってしまった有栖の耳に、やがて火村の小さな溜め息が聞こえてきた。
「酔っぱらって大声を上げて、仕事を邪魔して、そのうちに一緒に寝ようと駄々をこねられた事が迷惑なら、確かに迷惑をかけられたな、俺は」
「・・・・・す・すまん・・」
「謝るなよ。俺は別にそんな事を思っちゃいないさ」
「何で・・・だって・・お・男に迫られたんやで?気持ち悪いやろ?」
「まぁ、普通はな」
「せやったらやっぱり・・嫌やったやろ?」
「別に」
「え?」
「別に嫌だとは思わなかったけど」
「・・・・・何で?」
「何でだろうな」
 僅かな沈黙。
 何故火村は自分の誘いに乗ったのか。
 何故火村は自分を抱く事を嫌だと思わなかったのか。
 有栖は目の前の長年の友人を、まるで初めて見る生き物のように見つめた。
「・・・君・・・男とも・・」
 言った瞬間、有栖はビクリと身体を震わせた。
「ほぉ・・そうくるか。それならこっちからも言わせて貰うぜ。何で俺を誘ったんだ?今までにも他のヤツにこんな事をしていたのか?」
「そんなんある筈ないやろ!!」
「だけど俺を誘った事も、何をしたのかも何も覚えていないんだろう?それなら今までにだってそれがなかったってどうして言い切れるんだ?」
「・・・・・・君は・・俺をそんな風に思ってたのか」「同じ言葉を返すぜ。さっきのお前の言葉はそれと同レベルだ。俺をそんな風に思っていたのか、アリス」
「あ・・」
 小さな声を上げて有栖は再び「すまん」と小さく口にして俯いてしまった。  
 重たい沈黙が部屋の中に落ちる。
 そしてそれを破ったのは火村だった。
「タイムリミットだ。時間をやるよ。もっとも俺は結構ヒントを出したつもりだがな。一週間。一週間で答えを出して今後の対処を決めよう。考える事は二つ。『何故お前は俺を誘ったのか』『何故俺がお前の誘いに応じたのか』簡単だろう?」
 何処が簡単なんだと言う言葉を飲み込んで有栖は火村の顔を思わず小さく睨みつけてしまった。その視線に気付いているのだろう彼は、わざと視線を外すようにして荷物を手に持ってドアに向かって歩き出す。
「出てきた答えで決めようぜ」
「・・何を?」
ピタリと止まった火村の足。
「おいおい今言っただろう?今後の対処の仕方だ」
「だから今後の対処って何なんや」
「判らないのか?このまま何もなかったように出来るとはまさか思っていないだろう?」
「え・・・」
「こんな事があったんだ、今後もこんな事がないなんてどうして判る?一緒に飲みに行くという事を徹底的に止める。勿論お互いの家で飲み明かすってぇのも言語道断だ。それともいくら自分が仕掛けたとしてもそれに乗った俺が許せないっていう答えをお前が出したなら・・。そういう事だ」
「・・・・それって・・・」
 信じられない事を聞いたと言うように有栖は思わず瞳を見開いたまま立ちつくしてしまった。
「じゃあな、アリス。一週間後に」
「ま・・待て!そんなんズルイ!俺一人だけ考えるなんて卑怯や!自分かてちゃんと考えてくるんやろうな」
 今この時に、勢い込んで言う台詞ではないと言う事は有栖自身が一番良く判っていた。大体内容自体が情けなさ過ぎる。それでも何でもこのまま目の前の男が行ってしまうのが嫌だった。
 又しても下りた沈黙。けれどそれはすぐさま火村の堪えきれないと言った笑いで破られる事になる。
「俺はもう答えを持っている」
「え・・」
「ちゃんと考えろよ、アリス。自分の事と俺の事だ。自分のことは言わずもがな、俺とも長い付き合いなんだからそれくらい推理出来るだろう?先生」
 言うが早いか掠めるような口づけに有栖は瞬時に顔を赤く染めて、もの凄い勢いで部屋の隅に後退った。
「ななな何すんねん!!」
「ヒント。記憶喪失ってぇのは同じ事をすれば思い出す可能性があるって言うだろ」
「誰が記憶喪失や」
「同じようなもんだ。じゃあな」
 ヒラヒラと振られた右手。
 開けて、閉じられたドア。
 トントンと階段を降りてゆく足音。
「・・・・冗談やないわ」
 呟くようにそう言って有栖はズルズルと畳の上に座り込んでしまった。まだ顔が熱い。
「・・・自分の事もよう判らんのに、一週間でお前の事まで判るか、アホんだら」
 拗ねた子供のような言葉が零れる。
 『何故自分は火村を誘ったのか』
 『何故火村はその誘いに乗ったのか』
「・・・知らんわ、ボケ」
 賽は投げられた。
 冬晴れの空の下、年代物のベンツに乗り込みながら火村が「覚悟しておけよ」とニヤリと笑って呟いた事など、有栖は勿論知りようもなかった。


こういうのに簡単に騙されちゃうところがアリスって可愛いと思う私はやっぱり末期症状なんでしょうか・・・