アリスに先に酔われてしまった夜の話


 先に・・・・
「かんぱぁーい!!」
 酔われてしまった。
「何やぁ?火村、ちぃとも酒が進んでへんで?ほら、祝いなんやから飲め」
「何の祝いだ、何の。正月にはまだ早いし誕生日はとっくに終わったぜ?それともお前のカレンダーは今頃何かの祝日があるのか?」
「・・・嫌味な奴やなぁ、それが友人の新たな門出に対する餞の言葉か?・・・ったく・・まぁええわ。今日の俺は心が広いからな。それ位の嫌味は聞き流したる」
「・・・少しは頭に残せ、馬鹿」
「・・あんなぁ・・関西人に馬鹿っていうのは喧嘩を売ってるのと同じやて何弁言うたら判るんや?教育者のタマゴなんやからちゃんと覚えろ」
「生憎、他に覚えておかなきゃならない事が多くてね」
 言いながら小さく竦められた肩に有栖は「言うてろ、アホ」と横を向いた。
 何の話なのか・・・つまりは有栖川有栖という妙な名前を持つ学生時代からの友人が本日“一身上の都合”により会社を退職したのだ。
 本人は「これからは専業作家や」等と嘯いているが、その辞めるに至る過程を知っている火村英生は非常に面白くなかった。早く言えば“責任を負った”のである。
 もっとも有栖本人が言う通り、これは有栖にとっては喜ばしい事なのだ。職を失って喜ばしいも何もないが、何がきっかけであったにしろ自分が進みたいと思っていた道に一歩を踏み出したのだ。
 だから確かに“おめでとう”で“乾杯”なのだけれど・・・。
(どうしてもこいつ一人が割を食った様にしか思えねぇんだよな・・)
「・・火村先生、そろそろその仏頂面どうにかなれへん?」
「まだ先生じゃねぇよ」
「よぉ言うわ。この前・・えーっと・・30・・あれ?31までには助教授になってやるって厚かましく豪語していたんわどこのどいつや。ほら、グラスを持って!心優しい有栖川様がそいつを祈願して乾杯をしてあげましょう!」
 言いながらダバダバとグラスにつがれたビール。
 祈願で乾杯というのはおかしい。どう考えてもおかしい。
 けれど今夜の有栖はとことん何かに“乾杯”をして飲みたいらしい。
「・・・・・有り難くて涙が出ますよ。未来の作家先生」
「せやろ?俺も自分の心の広さにちょっと感動しとる」
 にっこりと笑う顔に広がる苦い思い。
「・・・言ってろ、馬鹿」
「せやから、馬鹿って言うんやないって!」
 グルリと一周回って元に戻ったやりとり。
「それではぁ・・未来の助教授・・・あかん・・夢はでっかくや、どうせやから未来の教授にかんぱぁい!!!」
「・・・・・・・・」
 本日何度目か、数えるのも嫌になった“乾杯”に火村は胸の中で溜め息をつきながら残り少なくなったキャメルに手を伸ばした。

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「火村ぁ・・火村ってば・・火村・・!」
「・・・何だ?」
「やっぱり本の置き過ぎやで。床が歪んどる」
 笑って、騒いで、これぞ酔っぱらいという程、至る事に乾杯をしまくって、まだ飲み足りないという有栖を引きずる様にして火村は北白川の下宿に辿り着いた。
 相変わらずの、というか来る度に本の増えている気がする火村の部屋は、学生時代から有栖の落ち着く場所の一つになっていた。
「・・・歪んでるのはてめぇの脳味噌だ!静かにしろ婆ちゃんは寝てるんだぞ」
「・・・うん・・せやった・・・・あっ・・火村歪んどるちゃうわ。地震や、揺れとるで?」
「・・・・・・・・もういいから寝ろ」
「んー・・・・嫌やぁ・・もっと飲もう、火村ぁ」
「・・頭殴られて寝かしつけられたいのか?」
「殴られたら痛いやん・・・・やなくてぇ・・寝るのもったいない」
「なら今から原稿でも書くか?」
 言いながら新たなキャメルを取り出して、火村はゆっくりとそれを口に銜える。
「・・・そぉやなくてぇ・・・今日会社を辞めたやろ?」
「正確に言えば昨日だがな」
「茶々入れなや」
 カチリと点けられた火。年期の入った畳の上、本棚に寄りかかる様にして座ったまま有栖はボンヤリと立ち昇る白い煙を見て再び口を開いた。
「言わば俺の独立記念日やん。そんな日に寝たら何やもったいない気がするやないか」
「・・・・・・・」
「ほんまはなぁ・・君にも感謝しとるんや。さっき不機嫌やったのも心配してくれたんやろ?」
「・・・気色悪い事言ってるんじゃねぇよ」
 トンと灰皿の上に落とした灰。ジワリと煙草の先で赤い火が泌む。
「・・けどなぁ・・責任とるとか、誰のせいとか・・そういうんやなくて、きっと俺が一番自分勝手なのかもしれん」
「アリス?」
「せやかて・・自分のしたい事するんやもん。だから、悔いなんてくれっぽっちもないねん。まぁ、これから後悔するかもしれへんけどな」
 クスクスと笑いながらズルズルと畳の上に沈んで行く身体に火村は小さく眉をひそめた。
「・・おい・・寝るなら出血大サービスで布団位敷いてやるからそこで寝ろよ」
「うーん・・・寝ぇへんて」
「・・その態勢で言うか?」
「寝ない。まだ飲む」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。起きてるってぇなら止めないがこれ以上飲むってぇのだけは御免だからな」
「ケチ」
「ケチで結構。ほらもう少し向こうに行け」
「寝ぇへん言うとるやろ?」
「お前が寝なくても俺が寝るんだ。生憎、誰かさんと違って気ままな自由業じゃないんでね」
「休まれへんの?」
「助手の分際でそんな事が出来るか」
「・・・急な発熱とか腹痛ってぇのはどうや?」
「子供の風邪じゃねぇんだよ。馬鹿言ってないで退け」
「う〜・・・」
「唸るな」
「つまらん」
「酔っぱらいの戯言なんぞ聞いてられるか」
「酔っぱらってない!」
「酔っぱらいは大抵そういうもんだぜ?」
「ほんまに酔うてないもん!」
 子供の癇癪のような有栖の言葉に火村はさっさと布団を敷いてついでに有栖の足元にもう一組分のそれを置くとさっさと布団に横になってしまった。
「ほんまに寝るんか!?」
「そう言っただろう?お休み先生」
「まだ先生やない!ってこれはさっきの君の台詞・・やなくてぇ!・・付き合い悪いで。火村ぁ」
「・・・・・・・」
「友達やん・・」
「・・・・・・・」
「なぁ、火村ぁ・・火村ってば・・火村ぁ・・」
 だんだん子供じみてくる口調と声。それを聞きながら火村は胸の中で苦い溜め息を落としていた。
 大体、有栖に先に酔われていい事など一つもないのだ。
 元々子供っぽい所のある人間だが酔うとそれに輪がかかる。
 3回生の終わりの頃だか、4回生の始めの頃だかにこんな風に有栖が先に酔った事があった。その時一緒に居た有栖の友人が言ったのだ。
『有栖川がこんな酔うたの初めて見たわ』
『・・・・結構こんなもんだぜ・・?』
 そう、それは火村にとっては特別珍しい事ではなかった。けれど・・・・。
『ふーん・・じゃあ今日は保護者が居るから安心して飲んだのかな?』
 他合いのない言葉だった。が、しかしその途端胸の中に湧き上がった苦さと甘さの入り混じった感情を火村は忘れられない。
 そうして思うのだ。自分の前ではそうしてはいけない。
 有栖はそんな風にしてはいけないのだと・・・。
「・・ほんなら飲まんでもええから話しよ」
「寝ろ」
「ケチ!!」
「・・・・・・・」
「ケチ、ケチ、ケチ、ケチ、ドケチ!!」
「・・・っ・・」
 有栖は判っていない。少なくとも自分の前だけはこんな事をしてはいけない事を。もっとも、他人にこんな風にしている有栖を見たら、それはそれでひどく面白くないのだけれど。
(・・・・厄介だな・・)
 やっぱり有栖と飲む時には“程々”にさせるか、同じようなペースで飲んで、自分自身も程好く酔ってしまうしまうに限る。
 こちらがある程度酔っていれば、どういうわけか有栖は“子供返り”までは起こさない。
「・・・火村ぁ・・」
「いい加減にしろ。叩き出すぞ!」
 ムッとして起き上がった火村の瞳に映ったのは、けれどニコニコとした顔でもなく、置いて行かれてしまった子供の様な顔でもなく、ぐったりと前かがみになった有栖の姿だった。
「!・・おい!」
「・・・・気持ち悪・・」
「!!!動くな!吐くなよ。そっとしとけ」
 素早くタオルを手に火村は有栖に近寄ると「大丈夫か?立てるか?」とそっと肩に手を乗せた。
その途端−−−−。
「!!!」
「へっへー!捕まえたー!」
「アリス・・てめぇ・・!」
「ふふん。飲むか話すかせぇへん限り離さへんもん」
「ふざけるな!アリス!離せ!!」
「嫌や」
 がっちりとしがみつく様に抱きつかれて火村は思わず舌打ちをする。
「殴るぞ・・!」
「腕の上から押さえとるのに殴れる筈ないやろ。ったくせっかくの記念日なのに君が悪いんやで?ほら、飲むか、話をするか。二つに一つや。どっちにする?」
 見上げてくる瞳とフワフワと頬を掠める柔らかな髪。
 抱きついてくるぬくもりに火村の中に苛立ちと同じ位に愛しさが込み上げる。
「・・火村」
 ドクンと一つ鼓動が跳ねた。
 そうして次の瞬間−−−−−−−。
「・・・・・っ・・!」
 ぶつかる様に合わせた唇。
 触れただけで離れたそれに、けれど次の瞬間、有栖の手がスルリと離れた。
「・・な・・んや・・?」
「・・・寝ろ!」
 低く唸るようにそれだけを言って、火村はさっと立ち上がるとそのまま電気までも消して布団に戻ってしまった。
 その様子を茫然と見つめながら更に数瞬遅れて、有栖が口を開く。
「信じられへん!普通、手を押さえられているからってこないな事するか!?」
 言いながら近づいてくる気配に、火村は布団の中で2度目の舌打ちをする。
 近づいてはいけない。
 そんな風にしてはいけない。
 今、来たらいけない。
 頭の中で声にならないまま繰り返される警告。
「火村!起きろ、このボケ!!」
 パッと点けられた明かり。
 伸ししかかる様にしてぶつかってきた身体。
「・・・いい加減にしろ。何時だと思っているんだ?本気で追い出すぞ!」
「やかましい!いいかげんにするのはどっちや!ほんまにあんな事・・嫌がらせにしても程がある」
「・・嫌がらせじゃねぇよ」
「・・え?」
「・・・もう退け」
「火村?」
 有栖は判らない。有栖は知らない。けれど、それすらが罪になる事もありうるのだという事を有栖は知らなければいけない。
「退くんだ」
 最後の警告。
「嫌だ」
「・・・・っ・!」
 短い言葉のやりとりに、次の瞬間、火村は自分の布団の上にかぶさる様に伸しかかって身体を押さえ付けて、そのままグルリと反転させると自らの下に抱き込んでしまった。
「・・ひ・・むら?」
「嫌がらせじゃない」
「何・・言うて・・」
 繰り返された言葉と今の自分の状況について来れずキョトンとしような有栖を火村は一瞬だけやるせない眼差しで見つめた。
「お前のせいだ」
「・・は?」
 理不尽と言えば、有栖にとってこれ程理不尽な言葉はなかったかもしれない。
「お前のせいだ。アリス」
「何・・何言うてるんや・・え?・・ちょ・・火村!?」
 首筋に触れた唇に有栖はひどく驚いたような声を上げた。
 それが又切なくて、次いでどこか滅茶苦茶にしてやりたいとでも言うような凶暴な気持ちにもなる。
「火村!!」
 左右に力任せを引っ張るとピッとシャツのボタンが飛んだ。
 驚きと怯えの混じった顔に、昏い笑みを浮かべて。
「い・・嫌や!!火村!ちょぉ・・待っ・・火村!」
 引き吊るような声を聞きながら火村はゆっくりとその肌に唇を這わせ始めた。



いつものパターンです(;^^)ヘ..
後編もお楽しみに♪