友情と愛情の境で 1


『驚かせるつもりは無かったんだ』
 その言葉に「驚かないと思ったのか?」と突っ込みを入れたくなった。
『答えは待つ』
 その言葉がひどく遠く聞こえた。
『気は長いんだ。なにしろ十年以上も抱えてきた恋だからな』
 この男から、恋などと言う言葉を聞く日がくるなんて。
『ということで一つ前向きによろしくな、先生』
 そう言って学生時代からの親友は、照れたような、けれど見たことのないような優しい微笑を浮かべた。
ひどく寒い冬の日の出来事だった。



◇◇◇◇◇◇◇


 春はあけぼの。
されど、春眠暁を覚えずと言う言葉もある。
「お前は一年中暁を覚えずだろう?」
 そんな意地の悪いことを言ったのは英都大学社会学部准教授の火村英生だった。
「ああ、でも締め切り前はあけぼのに活動しているか。もっともそれを愛でる余裕はないけどな」   
 ニヤリと笑って煙草の煙を吐き出す火村に、大阪在住の推理小説作家、有栖川有栖はムッとしたまま持っていたビールを傾けた。
「うるさいわ。夜の方が筆がはかどるんや」
「へぇ」
「ちゃんと締め切りは守ったし」
「今回は、な」
 笑いながら缶ビールを口にする火村に、有栖は眉間の皺を深くして「馬鹿に絡むやないか」と口にした。
「別に絡んじゃいないぜ?ただ、春だ花見だって騒ぐから随分余裕だなと思っただけさ」
「それが絡んでなくてなんなんや。花見はこれでもかってほど期間限定やろ。日本人の心やで」
「心ねぇ…」  
 ユラユラと立ち昇る紫煙。
「嵐山も円山公園も哲学の道も嫌ややて言うから、こんな公園で我慢している俺の心遣いを誉めて欲しいわ」
「そりゃどうも。大体この時期の嵐山や円山公園や哲学の道に近づこうとする奴の気持ちが俺は判らねぇよ」
「ベタベタな観光名所やろ。ええやんか別に。まぁ確かに花見というよりは人見になるやろうけどな」
「判ってるじゃないか」
「…婆ちゃんのうちに桜があれば良かったんやけどな」
「人の部屋から花見かよ」
「そう。最高やん」
「そんなもんかね」
「そんなもんや。ほら見てみぃ。綺麗やろ?けなげに咲いとるやないか。幽玄っていうにはちょっと迫力に欠けるけどな。平安時代とかは花見って言うのは
梅の花やったって言うけど、やっぱり桜のイメージやんなぁ」
 独り言のようにそう呟いて有栖は桜を見上げていた。
「ほんまに綺麗や。今週末には満開やな。ナイスタイミングやで」
「人間、欲があるってぇのはすごいな。いつもそんな風にすれば修羅場だ、缶詰めだって事は無いのにな」
「……ほんまにやかましいで、君。そないつっかかりたくなるほど火村君は新学期準備で忙しかったんか?」
「まぁほどほどにな」
「そうか。じゃあ心の広い有栖川君は無礼の数々を許してやるわ」
「何が無礼の数々だ。さてと花見はもういいだろう?帰るぞ」
 そう言って火村は吸い終えたキャメルを携帯用の灰皿の上に押し込んでベンチから立ち上がった。
「ええー!もう?まだビールあるんやで?」
「こんなところで乾き物のつまみでこれ以上飲んでいられるか」
「……」
「近くにおばんざいのいい店を教えてもらった」
「!!行く!」
 その瞬間ものすごい勢いで立ち上がった有栖に火村は吹き出すように笑い出してしまった。
「…なんやねん。だって…」「別に今度は何も言ってないぜ?ほら行くぞ」
「うん」
 少しだけ前を歩き出した火村に、有栖は嬉しそうにその隣に並んだ。 遠ざかっていく夜の空に映えた薄紅色の花。
(…ほんまに…変わらへんよなぁ…)
 チラリと見た横顔は今までのそれと何一つ変わらない。
あんな告白劇があったなんて嘘のようだと有栖は思う。 あの後しばらくは、長年の友人であったこの男にどうやって接していったら良いのかと思ったりしたのだ。
  勿論有栖も火村のことが好きだ。大切な友人だとずっと思ってきた。
 これからもそうだと思っていた。
 だが火村の好きは恋人のように好きだというのだ。
 恋愛の対象として有栖が好きなのだとそう言ったのだ。
有栖は今までの人生の中で同性に対して恋愛感情を持ったことは無い。
火村もまた女性の噂は時折聞いたが、同性との噂は聞いたことなどなかった。
どうして有栖なのか。
どうして恋愛なのか。
だが「待つ」という言葉通りに火村は何も変わらなかった。
答えを強要することも、言葉の端にその思いを滲ませることも無い。
実際拍子抜けをしたとさえ思ったけれど、それをどこかでホッとしている自分がいることを有栖は自覚していた。
火村のことは好きだ。
とても好きだ。
人として、親友として、とても、とても好きだ。 でも…。 
どうして火村は今更あんなことを言ったのだろう。 ずっと好きだと言っていた。十年来の思いだ等と、らしくも無いことさえ言っていた。
それなのに何も変わらない。
火村が今になって有栖にそれを伝えた意味がどこかにあるのだ。
でも季節が変わっても自分はまだそれを気づけずにいる。
「おい、曲がるぞ」
「!あ、うん」「
なんだよ。まさか一本のビールで酔ったとかいうんじゃないだろうな」
「そんなことあるか。君やあるまいし」
「言ってくれるじゃねぇか。酔っ払ったら容赦なく捨てて帰るぞ」
「ありえへんよ。そんなこと」
 自信満々の有栖の言葉に火村はニヤリと笑って「忘れるなよ」と言った。


春春春と唱えながら書いた話です。