友情と愛情の境で 5


 3ヶ月考えて答えが出なかったものが、一週間で答えが出るはずがない。
「…言い訳やな」
「有栖川さん?」
 思わず漏れ落ちてしまった独り言に訝しげな声を出したのは担当編集者の片桐光男だった。
「何が言い訳なんですか?」
「あ…いや…別にその」
「プロットはこれでいいと思うのですが、何か言い訳をしたいことがあるんですか?書く前から締め切り伸ばしてと言うのは止めて下さいね」
「いや、別にそんなこと」
 もごもごとそういう有栖に片桐は「そうですか」と引き下がった。
「ではこの線でよろしくお願いします」
「ありがとう。頑張ります」
 新しく書き始める小説について担当と話をする瞬間と言うのは何年経っても緊張をするものだ。
 その割に違うことを考えていたのだが、それでもやはりOKが出れば素直に嬉しい気持ちが湧き上がる。
 自分のストーリーが歩き始める第一歩だ。
 ホッとした表情を浮かべた有栖に片桐は少し冷めてしまった紅茶を口に運んで「そういえば」と声を出した。
「昨日は朝井先生のところにお邪魔をしたんですが、京都はすごい人ですね。もう桜もそろそろピークを過ぎているかと思ったら、見ごろが色々とずれているようで」
「そうですね」
 思い出すあの日の桜。
「火村先生もきっとうんざりなさっていらっしゃいますね。ああ、でも毎年のことだからあんまり感じられないのかなぁ」
「花見の時期と紅葉の時期は極力外には出ないって言うてましたよ」
「ああ、そうでしょうねぇ。以前はあんまり感じなかったけどこの頃人ごみの中にいると本当に疲れて」
「片桐さんも年なんやね」
 ニヤリと笑う有栖に片桐は「そんなことはありませんよ」と言って紅茶をすすった。
 あの後火村から連絡はない。
 連絡をすると言ったから有栖からの電話を待っているのかもしれない。
『くれぐれも言っておくが本決まりではないからね』
 もう何度も思い出したその言葉。どうしてそれがこんなに気になるのか。
「有栖川さん?」
「へ?」
「ぼんやりしないでくださいよ。もしかして寝不足なんですか?」
「いや、そんなわけでも」
 そう。考えているとは言っても、眠れないほど考えているわけではない。
「じゃあ春だからかな。でも今日からはしっかりしてくださいね。締め切りはまだまだ先だと思っていると後で痛い目をみるんですからね」
 まるで子供を諭す親か教師のようなことを言って片桐はゆっくりとソファから立ち上がった。
「それではこれで。またそのうちご連絡しますね」
「え?帰るん?」
「ええ、昨日京都の方に泊まってしまったので今日は帰ります」
「なんや、久しぶりに一緒に飲めると思っていたのに」
 有栖の言葉に片桐は嬉しそうにハハハと笑った。
「そう言っていただけて嬉しいですよ。ぜひ今度ご一緒に。美味しい店を見つけましたから」
「へぇ、誰に教えてもらったん?」
「誰って…友達に。なんですか急に」
 不思議そうな片桐に有栖は「いやなんとなく」と言葉を繋ぐ。
「だって片桐さんって結構色々な店を知ってるやろ。そういうのって誰に教えてもらうんかなって。俺は作家仲間とか、それこそネットとか位しか情報元がないんやけど」
「編集者ですからね。色々情報も入りますよ」
「そうか、そうやなぁ。友達かと、編集仲間とか、色々あるよなぁ」
「……有栖川さん?」
 さすがにおかしいと思って眉間に皺を寄せる片桐を前に有栖は溜息混じりに呟いた。
「友達ってなんなんやろな」
「……火村先生と何かあったんですか?」
 有栖は思わず苦笑してしまった。そうして
「何でそこで火村が出てくるんや。俺の友達は火村だけやないで?そういうわけやなくて……」と言いながら、有栖は座りなおしてしまった片桐を見た。
「友情と愛情の境がな」
「はぁ!?」
「いやだから、火村のことやなくて」
「はぁ…。あの何か誤解をされているのかもしれませんが、さっき私が言った友達はほんとに友達ですよ」
「そこ、そこやねん!」
 ほんとに友達。その言葉に有栖は思わず片桐を指で指した。
「…え…?そこって…?」
「友情と愛情ってどう違うんや?別に今のままで変わらんのならそれでええやんなぁ」
「…あの…話が見えませんよ、有栖川さん」
 眉を寄せた片桐に有栖は息を吸って、吐いた。
 そんな有栖を見て片桐は少しだけ困ったような顔をしながらなぜかボソボソと小声を出した。
「ええっと、その、プライベートな事を聞いて恐縮ですが、誰かに好きだとでも言われたんですか?」
「…俺の事やないよ」
「え?」
「話を…話をされてどう思うって聞かれたんやけど、俺はどうしても理解できなくて…」
「お友達にですか?」
「判らないことがなんだか口惜しくて、悲しいねん」
 子供のような有栖の言葉に片桐はフワリと笑った。
「そりゃ恋愛なんてものは千差万別ですからね。他人の恋愛なんてましてや理解なんて出来ませんよ。もっともそんなに言えるほど私自身恋愛経験
があるわけではないですけどね」
「…片桐さんやったらどう思う?」
「私がですか?」
「長い間友人だと思っていた人間から急に好きやって言われて、でも答えは待つって言われた。その言葉通りに相手はプレッシャーをかけてくることも
なく、今までと何一つ変わらへん。それって告白の意味があるんやろか?」
「……えっと…ちょっと待ってください。相手はその言われた方はその人のことが好きなんですか?」
「大事な友人と思ってた。今もそうや。自分の中では特別な友人やねん」
「でもその人が言うような恋愛感情はないと」
「…それが判らんのや」
「有栖川さん?」
「判らんて言うんや。友情と愛情の区別がつかんて。その人のことを大事だと思うことと、その人に対する恋愛感情っていうのはどう違うんやろ。恋愛感情
を表すっていうのは性的な欲求が含まれてるってことなんやろか?けど愛はなくてもSEXは出来るやろ?」
「あ、有栖川さん!?」
「いや少なくともそういう人間は居るやん」
「はぁ、まぁそりゃ…」
 よもや有栖からSEXなどという言葉を聞く日が来るとは思っても居なかった。だがそんな片桐を無視して有栖は更に言葉を続ける。
「相手はどうしてそんな事を今更言うたんやろ?どうして10年も黙っていたものを今更口にしたんやろ?」
 その言葉に片桐は思わず声を上げてしまった。
「10年!そりゃまた気の長い。でもそんなにもその人のことが好きだったんですねぇ。きっと大切で、大切で言い出せなかったのかもしれませんね。
またはひどく臆病な人間だったとか」
「あいつがそんな気弱な人間か」
「へ?あいつって?」
「あ…いや…ほら…俺も知っているから。友人の…友人やし」
「はぁ…。それはもしかしてやっぱり火村先生のことじゃないんですか?」
「せやから火村は関係ないって!それにこれが火村のことやったらびっくりするやろう?ていうか俺があいつに何のアドバイスができるちゅうねん。
そんなことできるか……」
「はぁ、まぁ、そうですね。判りました。とにかく火村先生ではない有栖川さんのお友達が、長年のお友達から好きだと言われてどうしたらいいのか判らないと
有栖川さんに言ってきて、有栖川さんも良く判らなかったということなんですね?」
「そう…そうやねん」
「しかも大事な友達と思ってはいるけれど恋愛感情があるのかははっきりしなくて、好きだと言った本人は待つと言う言葉を守っているようで、その後は以前と
全く変わりなく接してくると」
「そう、その通りや。せやから何で今更そないな事を言うたんやろうって。相談されたけどよお答えられへん」
「う〜ん…。それはやっぱり、知ってほしかったからじゃないですか?」
「10年も何も言わんかったのに?」
「でも突然やっぱり好きだって思うこともあるじゃないですか。10年も経って相手の色々も見えていて判っていて、勿論自分自身も年を重ねてきて。それで昔だった
ら言えなかった事も今の自分なら言えるんじゃないかって思って言ったのかもしれませんよ?10年経っても自分の気持ちは変わらないなって気づいて言ったとか。
またはどんな答えが返ってきてもそれでも変わらずにその人が好きだって思える覚悟が出来たとか。ああ、そう考えると何だかすごく情熱的ですね」
 情熱的…火村が情熱的…。何だかやっぱりピンとこない気がすると有栖は思う。
「……そんなもんやろか」
「まぁ、人の気持ちなんてもんは所詮本人にしか判りませんから何とも言えませんけどね。ところでその話は火村先生には話されたんですか?」
「……話してへんよ。あいつとはこう言った話はあんまり…ほとんどしたことがないねん。それに…」
「それに?」
「恋愛と友情の区別が判らんとか言うたら鼻で嗤われそうやろ?」
「!確かに!火村先生に恋愛相談って似合わない感じがするなぁ。そう言ったことにあんまり関心がないような気もするし」
「……うん」
 ほら、他の人間からもそう見えるのだ。そんな男がどうして10年も自分を好きで居続けたのか。そしてどうして今更そんな事を口にしたのか。
「それにしても友情と愛情の境ですか。中々難しいですね。でもやっぱり友情と愛情は違う気はするんですよね。境っていうのはあやふやですけど。何ていうのかな、
恋愛って言うのはある意味で相手のことを縛るし、自分自身も相手に縛られるような部分があるじゃないですか。縛るって言ったら変かな。自分の物みたいな。所有感って
いうのかな。そういうのって感じると思うんですよ。相手のことがもっと知りたくて、相手のそばにいたいと思って、相手にも自分を見て欲しいなんて思ったらそれはやっ
ぱり恋なんじゃないのかなぁ。さっき有栖川さんがおっしゃっていたSEXについても、そりゃ勿論愛なんてもんがなくたって出来ますよ。でも好きな相手に触れたいとか
好きな相手と抱き合いたいっていう気持ちはやっぱりあるでしょ?まぁそれは一つの方法なだけかもしれないですけど。う〜〜ん、そう考えだすと結構難しいですね。友情
と愛情か。愛情っていうか恋愛ですよね。それってもう少しこう…メンタルな部分が大きい気がしてしまうんですけど。すみません、やっぱり良く判らないですね」
「……いや…片桐さんが謝ることやないし」
「でも…もしかしたらその方は、そのお友達のことを誰にも渡したくないと思ってしまったのかもしれませんね。それか…」
「それか?」
「…これも勿論ただの推論ですけど、何か大きな変化があって言おうと思った」
「……変化って」
「それは判りませんよ。ただ何かきっかけがあって告白っていう事は十分考えられるでしょう?やっぱり10年黙ってきたものを口にするって言うのはそれなりに覚悟もいる
と思うんですよ。私的な見解で恐縮ですが、そのお友達がその方のことを嫌いでないと思うなら、その気持ちに応えてあげてほしいなと思っちゃいますね。素直に恋愛感情だ
と判らないけど、大切だと思っているって言ってもらうだけでも嬉しいと思いますよ」
「…うん…そうやな…。そうかもしれへんな」
「それにしても有栖川さんにはそんな素敵な話は本当にないんですか?」
 笑いながらそう言う担当編集者に有栖は「あったら真っ先に片桐さんに報告しますよ」と言った。
「あ、そうや。さっき言うてたうまい店を教えてくれたグルメなお友達にもよろしく言っておいてくださいね」
「あ!信じてませんね!有栖川さん!ほんとにただの友達でしかも男ですってば!」
「…へぇ。そうなんか」
 さっきの話も男同士の話だとはとても言えない。
「ああ!まずい!それじゃあ今度こそ失礼します!」
 時計を見て片桐は慌てて立ち上がった。
「すみません。引き止めてしもうて」
「いえいえ。中々ドラマッチックな話でしたよ。お友達にもよろしくお伝えください。密かに応援してます」
「ははは…言うとくわ」
 小さく引きつった笑いを浮かべて有栖は慌てて帰っていく片桐を玄関まで見送った。
 バタンと閉じたドア。
「大切だと思っているだけでもか…」
 そう、大切だと思っている。特別だと自覚はある。好きだと思う。これはただの友情か。それとも恋なのだろうか。恋になる気持ちなのだろうか。
「……難しいな」
 同じ悩むのならばトリックを考えて悩んでいる方がずっといい。
「…電話もしなきゃあかんな」
 火村の誕生日まであと十日。
 とりあえずは忙しい准教授の予定を訊かなければ。
「……悩んでたって性もないし、とにかくそろそろ言わんとな」
 3ヶ月以上も待たせて、とても大切だと思うし、好きだと思うけれど、それが恋愛感情かどうか判らないと言ったら火村はどんな顔をするだろう。
 それとも先ほど片桐が言っていたように、彼はどんな答えが返ってきても、それでも変わらずに有栖が好きだと思える覚悟をして好きだと告げてきたのだろうか。
「……………」
 時間は5時を少し回っていた。おそらく彼はまだ研究室にいるだろう。
 とにかく誕生日の予定だ。これ以上先伸ばしをしていても仕方がない。 自分にそう言い聞かせるようにして有栖は受話器を手にした。



片桐氏、語る(笑)