友情と愛情の境で 6


 火村の携帯の番号は携帯だけでなくこの電話機にも登録がされていた。
 短縮ボタンを押して、繋がるまでの短い間に跳ね上がってくる鼓動をアホかと宥めて…。
 だが…。 彼の携帯は電源が切られているか電波の入らないところに…というメッセージを有栖に伝えてきただけだった。
「……研究室に直接かけてみるか」
 なんとなく今を逃したら、また気持ちが萎えてしまいそうで、有栖は再び短縮の番号を押す。
 耳の中に聞こえるコール音。
 そして。
『はい、火村研究室です』
「あ…」
『もしもし?』
「……あの…火村は外出中でしょうか?」
『えっと…もしかして有栖川先生ですか?重本です。お久しぶりです。お元気ですか?』
「うん。お蔭さんで。あの火村は?」
 電話に出たのは昨年から火村の元にいる助手の重本だった。有栖も何度も会っていて、中々の好青年である。
『先生は今島田教授のところです』
「島田教授?」
 有栖の脳裏に気にかかっていたあの日の光景が甦る。
"くれぐれも言っておくが本決まりではないからね"
 そして、次の瞬間……
「…ほ…本決まりになったんか?」
 有栖はドクンドクンと先ほどとは違う勢いで早まる鼓動を抑えながら、カマをかけるような言葉を口にしていた。
 卑怯だとはわかっていた。だが、どうしても気になって仕方がなかったのだ。そしてそれは見事に的中していた。
『ああ、ご存知だったんですね?って当たり前ですね。う〜んどうなんやろ。今その話をしに行ってるんですよ。本決まりなんかなぁ。その気にはなっている
感じはするんですけどね。でも先生がカナダに行っちゃうと俺は困るんやけどな〜』
「!!!」
 カナダ!と有栖は叫んでしまいそうになりながらもどうにか声を出す。
「……カナダは…遠いよなぁ…」
「そうですよねぇ。でも多分そう言うのも必要なんやろうし。世界的な学者への第一歩って感じですもんね」
『うん…。そうやな。ああ、じゃあ切るわ。ガタガタしてるようなところに電話して悪かったな。火村には俺からかかってきたことは言わんといてくれ。大事な
時やし。決まったらならまた改めて何か言うてくるやろう。それじゃ』
「はい、失礼します」
 普通に喋れたのが奇跡のようだと有栖は思った。
 震えてしまっている手で受話器を元に戻して、有栖は思わずその手で口を押さえた。
「…は…はは…」
 声が漏れる。
「なんやねん…それ…」
『何か大きな変化があって言おうと思った』
 つい先ほどそう言っていた片桐の言葉が頭の中に甦る。
「…その話がきたから言うたんか?」
 カナダに行ってしまうからその前に言っておこうと思った。
 そうしてもしも有栖がYESと応えたら火村はどうするつもりだったのか。カナダまで付いて来てくれとでも言うつもりだったのか。それとも好きだったら離れて
いても大丈夫だとでも言いたかったのか。
「順序が違うやろ?」
 とりあえずカナダに行くことを言うべきだろうと有栖は思った。そうしてその上で…
「その上でどないすんねん…」
 カナダに行ったら自分の気持ちは変わってしまったのか。カナダに行くと聞いていたら、自分はもっと違った答えを見つけられたのか。
「……でも…水臭いやないか…」
 そんなに遠くに行ってしまう事を他人から聞かされるなんて。もとい勝手にきいてしまったのは有栖自身だったのだけれど。それにしても
「……最悪や」
 遠くに行くから10年も隠してきた自分の気持ちを有栖に告げた。
 ずっと判らなかった火村の告白のわけが判った。
 でも判ったからと言ってどうにも出来ない。
 火村はきっと行ってしまう。
 有栖がYESと言おうと、NOと言おうと行ってしまうのだ。
「…悩んだだけアホみたいや…」
 もしかしたら変わらない火村の態度の理由は、言うだけ言って彼の気が済んでしまったからなのかもしれない。言った事で火村は満足してしまったのかもしれない。
 待っていると言ったくせに彼はカナダに行ってしまうのだ。
有栖を置いて。こんな気持ちにさせておいて。
「……こんな気持ちってどんな気持ちやねん」
 そう呟いた途端、電話のベルが鳴った。ビクリと震えた身体。
 【ヒムラ ケイタイ】
 画面には登録をした名前が表示されていた。その文字を泣きたくなるような気持ちで見つめて、有栖はゆっくりと受話器を取った。
「…はい」
『ああ、俺だ電話をくれただろう?悪かったな』
 いくら重本に電話をしたことを言うなと言っても自分はその前に携帯のほうにかけていたのだ。有栖は自分の間抜けさを笑いたくなってしまった。
『それでどうした?二日酔いは無事に治ったのか?』
「一週間も続く二日酔いがあるか」
 聞こえてきた軽口にクシャリと顔を歪めながら有栖は湧き上がってくる何かを堪えるように受話器を持つ手に力を入れた。
『アリス?』
「ああ、うん…あのな…誕生日のことで、忙しい准教授殿の予定を聞こうかと思うて」
『ああ、そうか。もうそんな時期だよな。お前の方はどうなんだ?』
「…俺は別に」
『おいおい、あれ以来仕事がないなんて言うんじゃないだろうな』
「あほか。今日も新作の打ち合わせをしたんや」
『へぇ、今度は長編か?』
「うん…そうかな」
『そうかなって何だよ。大丈夫なのか?先生』
 受話器から聞こえてくる火村の声。
 火村は変わらない。
 何も変わらない。
 変わらないままきっと旅立っていくのだろう。
 自分の気持ちだけ有栖に言って、こんなにも悩ませておいて、行ってしまうのだ。
 その瞬間、チリリと胸の奥で何かが痛んだ。
『アリス?おい、まさか電話をしながら寝ているんじゃないだろうな』
「そんなん…そんなんある筈ないやろ。で?どないする?」
 その痛みは話をしている間にもどんどんひどくなって、苦しくなってくる。
『そうだな…ちょっと手帳を見てみないとはっきりしないから後でまたかけ直すよ』
「そうか…そうやな。騒がせてすまん。で、君はいつカナダに行くんや?」
『…アリス?』
 火村が息を呑んだのがわかった。
「知らんと思うてたんやろ?そりゃそうや言うてへんもんな」
『……重本か』
「ちゃうで。彼やない。隠しておこうと思ったことは大抵バレてしまうもんなんやで?」
『別に隠しておこうと思ったわけじゃない。決まったらきちんと』
「へぇ…きちんと言ってさっさと行こうと思うてたんや。ともかくおめでとうって言えばええんかな?客員教授とかそういうことなんやろ?頑張ってきてください。
日にちが決まったら餞別くらい送るわ、じゃあな」
 こんなことを言うつもりはなかったのだが、口が止まらなかった。だからせめてこれ以上彼にあたるような事はやめようと電話を切ろうとするが、受話器の中から
は聞いたことのないような火村の慌てた声がする。
『!ちょっと待てアリス。ちゃんと話を』
「…もうええわ」
 そう。それもまた火村の仕事だ。自分にそれをとやかく言う権利はないのだ。
『アリス!』
 それなのにどうして火村はこんなに必死になっているのか。
 胸が痛い。それに輪をかけるように、あの日の、まるで逃げるようにして大学を出て電話をかけた時のような切なさが有栖の胸の中に押し寄せてくる。
 どうしてこんなに苦しいのか、どうしてこんなに切ないのかが判らない。
 でも間違いなく自分をこんな気持ちにさせているのは火村なのだ。
「…なぁ…何で言うたん?」
『え…』
「行ってしまうなら言わんでも良かったやないか」
『俺は別に』
「言ったって言う自己満足なら」
『自己満足で言えるか!ふざけるな!』
「!!だって!君がそんなん言わんかったらこんな気持ちにはならんかった!こんなん嫌や!最悪や!自分がものすごく嫌な人間になっているのが判る!こんなん俺やない!」
 火村の怒鳴り声に何かが切れてしまったかのように有栖もまた叫びだしていた。
『…お前…』
「…いつでも君を応援しとるよ。君が居てくれて良かったと思っている。君が大切だと思うとる」
『………』
「でも俺にはそれが君と同じものなのか。好きって言葉がなんなのか。友情と、愛情の違いが判れへんねん。どうしても…どうしても判らんのや」
『……』
 涙が零れていた。
 でも受話器からは火村の声は聞こえなかった。
 多分…彼は呆れているのだ。
 3ヶ月もかかってこんな答えしか出せなかった有栖に呆れて、やっぱりこんなもんだったかと自分の中で折り合いをつけ始めている。
 そして旅立って行くのだ。
「…出発日。決まったら教えてくれ」
 それだけ言って電話を切った。
 切った途端、ヒュッと喉が鳴って嗚咽が漏れた。
「ふ…ぅ…」
 後から後から熱い涙が頬を伝って落ちる。
 どうして泣いているのか、何がそんなに悲しいのか有栖には判らなかった。
 その夜は雨が降った。
 花冷えと呼ばれるような気温の中で降り続く細かい雨は、盛りを過ぎていた桜の花を一気に散らしてしまうに違いない。
 思い出す、火村と見上げた8分咲きの公園の桜。
 来年はその薄紅色のそれを一緒に見ることはないだろう。
 もしかしたら再来年も、その次も…彼と桜を見上げることはないかもしれない。
 有栖はパソコンに向かって原稿を打っていた。
 苦い思い出となったあの日のようにただひたすらに繭を紡いでいた。
 進歩がないなと思いながらも、そうすることしか出来なかった。


急展開、そしてまだ終わらない。