友情と愛情の境で 7
時間がひどく遅く、そして時にひどく早く流れていた。 明日は火村の誕生日だった。
でもあの日以来火村からの連絡はない。そして有栖もまた連絡をすることはなかった。
10年以上にもなると言う思いも、それ以上の長さの付き合いも、終る時はあっけないものなのかもしれない。
出会ってから14年。
とすると火村が有栖を好きなのだと自覚をしたのは院生の頃だったのか。もっとも以上と言っていたから大学を卒業する頃だったのかもしれない。
「…気が長くて、その割に割り切りやすい男だったんやな」
苦笑を滲ませながら落ちた言葉。 淹れたコーヒーを口にして、トーストを齧りながら有栖はベランダに続く窓から外を見た。
広がる柔らかな青。 夏とは違う薄い雲のベールをかけているような白っぽい青空。この空は当たり前だが京都にも繋がっている。
ソメイヨシノは終ってしまったけれどこれからはふっくらとした八重桜が咲き始める。特に仁和寺は遅咲きのサトザクラ、通称御室桜が有名だ。
かの地はまだまだ観光客で溢れていて、忙しい准教授を相変わらずうんざりとさせているに違いない。
「…そういえば御室桜はまだ見たことないなぁ」
今までだったらここでじゃあ火村に…となるのだがこれからはそうは行かなくなる。それを淋しいと思う気持ちもきっと少しずつ、少しずつ薄れていくのだ。
「…見ごろを調べて一人で行くかな」
何だか友達のいない淋しい人みたいやなと自分で自分にツッコミを入れて有栖は再びコーヒーを口にした。
その途端鳴った電話。
瞬間ドクンと鼓動が跳ねた。
出発日を知らせる電話だろうか。律儀な男だからきちんを連絡はしてくるはずだ。
「…はい」
『あ、有栖川さんですか!森下です!あの…火村先生がカナダに行かれたってほんまですか?』
「…え…行かれた…?」
ガンと何かで頭を殴られたような気がした。
『あ…あれ?有栖川さん知らんかったんですか?嘘やろ?』
「…い…いや…行くようなことは知ってたけど日にちはまだはっきりしないみたいやったから」
足元がグラグラとする気がした。
『じゃあ、急やったんかな。いつまで行くとか聞いてますか?』
「…いや…それも…そちらにも連絡は何もなかったんですか?」
『ええ。ですから今連絡をしてビックリして。もう一度研究室にかけなおしてみるか。あの、騒がせてすみませんでした』
「いえ…お役に立てずにこちらこそすみません。多分きちんと決まったら連絡をしてくると思うんです」
『ええ、そう思います。それにしてもカナダは遠いですよねぇ…。参ったなぁ。あ、失礼しました』
切れた電話。 ツーツーという音の鳴るそれをゆっくりと元に戻して有栖はヘタリと床の上に座り込んでしまった。
多分森下は火村の携帯に連絡をして繋がらなかったので、研究室にかけなおしたのだろう。先日を有栖と同じパターンだ。そうして重本からカナダに行ったと告げられた。
更に自分はそれを聞いた森下から教えられたのだ。
「……なんやねん…一体」
出発する日が決まったら知らせてくれと言ったではないか。それなのにどうしていつもいつも自分は他の人間からこんな大切な事を知らされなければならないのか。
どうして火村は有栖に連絡をしてこないのか。
「…言ったくせに」
好きだと言ったくせに!10年以上も思い続けてきたのだと言ったくせに!自己満足で告白が出来るかと怒鳴ったくせに!それなのに!!
「肝心なことは何も知らせてこないで何が好きや!あほんだら!!」
好きだと判らないと言った自分を棚に上げて有栖は怒鳴っていた。
「………好きなら全部隠さず知らせろや」
『相手のことがもっと知りたくて、相手のそばにいたいと思って、相手にも自分を見て欲しいなんて思ったらそれはやっぱり恋なんじゃないのかなぁ』
瞬間片桐の言葉が甦った。
「…恋…?」
だってそれは別に…でも…だけど…。
「だって…そんなん…」
火村は大切な友人だった。
何かを抱えている彼の隣にいて、自分が支えになれる日が来ればいいと願っていた。
好きだと言われて驚いたけれど嫌だとも気持ちが悪いとも思わなかった。
いつだって隣にいることがきっとお互いに当たり前になっていた。
「そんな…の…だって今更…」
不意に気づいてしまった自分の気持ち。そう、自分は火村のことを一番知っていたかったのだ。自分が知らずに他人が知っていることがあったのが悲しかった。
勿論相手のことを全て知るなどと言うことは無理なことだ。有栖だって火村の知らない自分がいる筈だ。
でも、それでも知りたいと思う。全てが自分の中にあればいいと馬鹿みたいなことを思う。他の人間よりも第一に考えて欲しいなどとふざけた事だって思いたくなる。
これが恋だろうか。
これが友情と愛情の境なのだろうか。
でももう遅い。火村は行ってしまった。有栖に黙って。
それを告げるべき人間ではないのだと思って何も言わないまま言ってしまったのだ。
有栖の恋は気づいた時には終っていた。
「……あほや…俺…ほんまにあほ…」
笑いと一緒に涙が零れた。
自分の気持ちさえ気づけなかったなんて本当に笑うしかない。
多分、森下のように重本に問い合わせたら、あるいは火村の下宿先の大家に連絡をすれば火村がいつ頃戻ってくるのか。またはあちらでの連絡先や住所が判るだろう。
でも判らないと言った後でやっぱり好きだったとはとても言えなかった。
勿論追いかけて、訪ねて行くことなど出来る筈もない。10年経ってその気持ちを言えたのとは反対に、10年前だったら出来たかもしれない事だってある。
今の自分にはそんな風に後先考えず、自分の気持ちだけを抱えて飛んでいくようなことは出来ない。
「……10年前でも出来んかったかな」
『応援してます』
「応援されてもやっぱ俺には無理やったわ、片桐さん」
止まった涙を手で拭ってもう一度小さく笑うと有栖はゆっくりと床の上から立ち上がった。
気づいて終る恋なんて何だか自分らしいなと有栖は思った。これでは本当に鈍感だと言われても仕方がない。
もっとも有栖のことを正面切って鈍いなどという人間は火村以外にはあまりいなかったが。
「………朝井さんも言うか」
京都にいる先輩推理小説家の顔が浮かんで有栖はまた笑った。
大丈夫。自分は笑える。
恋に気づいて、それが終っても変わりなく生きている。
火村が居なくても、きっと変わりなく自分は小説を書き続けていくのだ。
「……ほんまに…ええ天気やなぁ」
カナダも今頃は晴れているのだろうか。京都よりは遥かに遠いが、それでもこの空はカナダにも続いている。
「時差はあるけどな」
そう言って有栖はダイニングに戻った。テーブルの上には食べかけのトーストと飲みかけのコーヒー。どちらもすっかり冷め切っている。
「……捨てたらもったいないよな…少し温めなおすか」
独り言のように呟いたその途端インターフォンが鳴る。
「宅配かな?」
もしかするとこの間話していた資料を片桐が気を利かせて送ってくれたのかもしれない。
「はいはい。ただいま。…はい!」
パタパタと小走りで有栖はインターフォンの受話器を取った。
『俺だ。開けてくれ』
「!!!」
だが、聞こえてきたのはここに居るはずのない男の声だった。
ふっふっふ……