haru
螺旋階段の設計を依頼されて、図面を描いていたら酔った。
「…任、天蓬主任?」
「ああ、すみません」
ご丁寧にも、僕のデスクの上に冷えたレモンジュースが置かれている。そっとグラスを掲げて、額に当ててみた。ひやりとした感覚が背骨まで伝わった。肩こりが酷いからだろうか。
「お疲れですか、主任」
レモンジュースを差入れてくれた部下の長い指が、首筋のツボを圧した。僕はすかさず、その指を払いのける。
「マッサージくらいしてさしあげますよ、遠慮なさらずに」
遠慮などしていない。腹の中が見えるから、嫌なのだ。
部下の名は猪八戒。建築学部を卒業し、今年入社したばかりの新人だ。白い肌に整った顔立ち。質の良いスーツを着こなして、いかにも育ちの良さそうな青年。
最初に会ったときから、悪い予感はしていた。目が合った瞬間、とって食われるかと思った。何と言えばいいのか、肉食獣のような目で見られたのをよく覚えている。僕は即座に過去に想いを馳せ、恨みを買うようなことをしでかしていないかを確認したが、記憶のメモに、猪八戒などという名前は存在していなかった。
数ヵ月後、その目の意味が、よくわかった。出来ることならば、関わりたくなかった。
「螺旋階段ですか?へえ、水族館の中に螺旋階段。素敵ですね」
こうやって話していると、悪い男ではないことはわかる。図面を覗くために、わざわざ僕の髪に触れる必要性があるかどうかが、わからないだけで。
「僕のアイディアじゃありませんよ。僕、水族館って嫌いですし」
「どうしてです?」
「酔いませんか。想像するだけで酔いました。昼休憩行って来ますね」
八戒の手を再び払いのけて、サイフをポケットにしまって立ち上がった。
「僕もご一緒して構いませんか」
言うと思った。
「あ、天蓬!昼メシ?」
事務所に入って来るなり、そう声をかけてきたのは同僚の捲簾だ。同期入社で、二人ともスピード出世組だということもあり、良きライバルでありパートナーでもある、と、思われてる。実際は、微妙なところだ。
とりあえず、助かった、と言うべきかここは。
「重役出勤ですね」
「クライアントに会ってたんだよ。今からメシ?」
「ええ。ああそう言えば、駿河不動産の件で2、3聞きたいことがあるんですよ。食事しながらでも構いませんか」
クリアファイルを戸棚から取り出しながら、八戒を視線で制した。
「お仕事なら、仕方ないですね」
残念そうな顔で、八戒は僕と捲簾を見送った。罪悪感はない。一々感じていられない。
「お前さあ、八戒のコト嫌いなワケ」
ウェイトレスにオーダーを頼み終わった瞬間、そう言われてしまった。
「どうしてそんなこと言うんです?」
とぼけたフリくらい、してもバチが当たらないはずだ。大体、この男にはいつだって気づいて欲しくないところにばかり気づかれてしまう。そっとしておいてくれ、と思っている部分ほど、見逃してくれない。
「何となく。態度的に。お前俺にも態度悪ィけど、八戒にはそれ以上」
「苦手なんですよ」
「向こうは大尊敬、ってカンジだけど?」
見抜かれている。捲簾の目は、探りにかかっているというよりも、楽しんでいる様子だった。嫌な男だ。僕に興味があるわけでもないくせに。いや、興味がないからこんなことを簡単に聞けてしまうのだ。
「愛されてるんですよ」
「お、いきなり本音が出た」
隠しても仕方ない。どうせこの男は気づいてる。
「噂にゃまだなってねぇけど、気ィつけろよ。主任と新人がデキてまーす、なんてコトになってみろ。社長パニクるぜ」
「ご安心を。ラインはちゃんと敷いてあります」
「強引に踏み込まれたら?」
「突き飛ばすだけです」
捲簾が、笑った。わかっている。この笑顔に、意味なんてないことくらい。
「おかえりなさいませ」
一々出迎えてくれなくてもいい。僕が戻したクリアファイルを取り出して、中身を確認するなんてことさえナチュラルにやってのけられてしまった。仕事の話なんてしてないことくらい、わかっているくせに。わざわざ僕の目の前で確認するところも、この男を好きになれない理由の一つだ。
僕は八戒を無視して、コーヒーを入れに給油室へ向かった。案の定、追いかけてこられた。狭い部屋で二人きり。
「正直に言います。迷惑なんですけど」
大真面目な顔でそう言ってやった。フライングしたとは思わない。八戒は、何も感じてないような顔で、コーヒーをいれていた。この余裕は一体どこから出てくるのだろうか。
「僕、まだ何も言ってないんですけど」
「言わなくても態度でわかります。視線でもわかります」
八戒の顔はまだ余裕だ。奥の手が100も1000も残ってるんですよ、という顔だ。ぞっとする。別に襲われたりだの無理矢理押し倒されたりだの、そういう行為に出られたこともなければ、何かを無理強いされたこともない。
だけど、あの目が忘れられない。だから、早いうちに芽を摘んでおかなければいけないと思った。取り返しのつかないことになる前に。そうなる予感が、あの目を見たときに確かにしたんだから。
「確かに、僕は貴方のことが好きです。だけどこの気持ちを否定する権利は貴方にもありません」
何てありきたりなことを言うんだ。違うはずだ。この男の腹の中は、もっと違うことで埋められているはずなんだ。根拠なんてない。予感だ。それだけで十分だ。
八戒が、コーヒーをサイドボードの上に置いた瞬間、危ないと思った。だから、とっとと部屋を出ようとした。ドアノブに手をかけた瞬間、背後から覆い被さるように強く抱き締められた。
悪いのは、僕だ。こうして下さい、と言っているような切り出し方だった。もう少し計画を練って、やんわりと、それとな〜く拒絶すれば、何かある前にすべてを終わらせることができたかもしれないのに。
「離れて下さい」
「嫌です。貴方は声を出せない。職場ですからね」
「もう一度言います。離れて下さい」
「僕ももう一度言います。嫌です」
どうすべきだろうか。勿論、八戒の言う通りここで大声なんて出してしまったら、それこそ終わりだ。肘鉄を食らわせることも考えたが、抱き締められているだけなら、大人しくされるがままになっているのが一番だという、何とも消極的な結論が出た。
何分、経っただろうか。時計を見たら5秒しか経っていなかった。気が遠くなるほど長い。男に抱き締められるなんて経験、滅多にできないことだから、状況を楽しもうかとさえ思った。現実逃避はよせ、僕。
「毎日、貴方の夢を見る。僕は病気かもしれません」
病気ですよ、と言ってやりたかったが、できなかった。まずい。この男はもしかして、真剣かもしれない。
「貴方が捲簾主任のことが好きなことくらい、知ってます」
ちょっと、待ってくれ。
「お似合い…だとも思います」
だから、待ってくれ。
「だけど僕は、」
「何の話してるんですか」
やっと、声が出た。冗談じゃない。この男が、僕に真剣に恋愛感情を抱いていること以上に、冗談じゃない展開だ。八戒の気が緩んだ瞬間、隙を見て勢い良く八戒から離れた。
八戒が、ひどく切なそうな顔で笑った。
「ああ、やっぱり。ヤマ張ってみたんですけど、当たってしまいましたか」
「は…?」
「捲簾、という名前出しただけで、主任の顔色変わるんですもん。まいったなぁ」
頭をガシガシと掻きながら、八戒はまた眉を下げて笑った。ハメられたのか、僕は。
「僕たち、二人とも一方通行ですね」
知ってる。よくわかってる。だから言わなくてもいい。
「捲簾主任も、好きな人いますもんね」
頭の中に、水族館の螺旋階段が浮かんで消えた。
戻|進