セル act1
 だいたい3ヶ月に1度、担当刑務官の総入れ替えがある。
 泣いたり喚いたり暴れたり孤独に耐えかねておかしくなったり自殺するようなのはぶち込まれて2週間程度の新参で、慣れてしまえば平穏で規則正しく退屈極まりない拘置所生活の中、それは結構な大イベントだ。
「牢番が変わんのは嬉しいけど、工場担当も変わんのかね」
「あのオヤジ、すげ点検甘いから助かってたんだけどな〜」
 刑務所にもオフはある。悟空は中身など1文字も読んでいない文庫本をパンと閉じて、また開けた。
「76!はい俺の勝ち〜」
「食い物賭けると強ぇな、おまえ」
 遥か年上の同僚が舌打ちして、悟空から本を受け取った。将棋盤がひとつしかないので、順番待ちの間は他にやることがない。
 あとは明日の昼飯時に紹介されるであろう新担当の噂話。
 第1種既決区5舎1階第7房。というのが悟空の現在の住処で、同僚は6人部屋に5人。あとひとりは訳あって留守だ。年齢もここにいる理由も様々で、最年少で器物破損+窃盗という馬鹿にされる罪状第一位の悟空は最初は相当いびられたが、一度看守を殴って懲罰房に入り、戻ってきたら仲間に格上げされていた。そんなもんだ。
 いくら穏やかで人当たりのいい看守でも(そんなのがいたとしてだが)檻の外側にいる立場の人間として「内側」から多少の恨みは抱かれるものだ。たまに執念深くて頭もまわる元担当受刑者に報復されるなんて事がないでもないから、刑務官異動はその予防かもしれない。どっちにしろ内側の方にとっては、看守がどこから来てどこに行こうが知った事じゃない。
「噂だけどな。今度の舎監担当って全員上司クラスの試験通ってっか、もう役職付きだとよ。経験のために研修で回ってるだけなんだと、けんしゅ〜」
「うっわムカつく!」
「下っ端役人万年牢番なら同情もするけどな。…悟空、すまん。今度俺の勝ち」
 本当にすまなそうに言う目の前の人のよさそうな男は人を殺しているそうだ。十年もここにいるせいなのか何なのか、すっかり人間が丸くなった。
「ま、牢番はしょせん牢番だ。あの鬼より酷いのはいねえだろうよ」



 そんな訳で、最初っから顔も知らない新担当に反感を抱いていた受刑者一行は、昼食時の食堂で挨拶にたった新顔看守に呆然とした。
「明日から既決区5舎6舎の舎監担当をさせていただきます。所属は保安部一課ですので、そちらの方でもお世話になるかと思いますが」
 久しく耳にしない礼儀正しく尊大さの欠片もない涼しげな声音。拘置所監査の会計士か誰かの弁護士か、はたまた法務省の役人か栄養管理士か。ナニにしろ看守には見えない。
「…え?何、アレ」
「次のがアレ?」
 舎監担当は、ある程度ガタイがよく強面が通例だったが、現れた男は背こそ高いが線は細く、男にしておくには惜しいほど端正な容貌で、これは実に驚愕すべき事だが、微笑を浮かべていた。眼鏡を軽く押し上げて食堂を見渡すと、彼は更に驚愕すべき事に頭を下げた。
「よろしくお願い致します」
 彼の後ろでは「鬼」で通った保安部長の三蔵が控えており、あろうことか携帯を堅く禁じられている銃を弄んでいたが、にも関わらず食堂は一気にどよめいた。立ち上がるのも大声を出すのも規則違反なので、実にささやかではあったが。違反があろうとなかろうと、三蔵は殴りたい時には殴り発砲したい時には発砲するのだ。
「美人さ〜ん、こっち向いて!」
「年いくつ?」
「幹部候補ってほんとですか〜?」
「せんせ〜、名前なんてゆーの?」
 三蔵が何か言う前に、彼は最後の質問を発した悟空に目をやった。
「八戒です」


「…あいつらには名乗るなと言わなかったか、俺は」
 三蔵はコツコツと手にした出納帳で窓枠を叩きながら低い声で呟いた。
「お聞きしましたが」
「俺が名乗るなと言ったら名乗るな!!」
 出納帳が机に叩きつけられたちょっと凄い音がしたが、八戒は身動ぎもしなかった。その落ち着きっぷりが、ますます三蔵を苛立たせる。
 こいつは、いつもこうだ。
「檻の中の奴らを人間だと思うな。半端に馴れ合おうなんて思うな。でなきゃおまえの方がおかしくなる。連中も混乱する。立場ははっきりさせとけと何度言ったら分かる!」
「馴れ合うつもりは」
「元がろくな奴らじゃねえ、甘やかすとつけあがる。反抗したら即ぶん殴れ。怪我しようが死のうが俺が責任とる」
「はい」
 素直すぎる返事は甚だ心もとなかったが、三蔵はそれ以上突っこまなかった。八戒は一から心得を教えなければならないような新米ではない。これでも未決区政治犯傷害犯相手に何ひとつトラブルも起こさず何年も勤めてきた男だ。何故連中相手に憂さ晴らしもせず、国家公務員最下層の不当な激務に耐えられるのかさっぱり分からない。
 三蔵は囚人を体力の限界まで殴りつけて何度も医療刑務所に「異動」させることで恐れられていたが、彼にとっては囚人への暴力に何ひとつ不当なものはない。どころか暴力ではなく必要不可欠な制圧だと心の底から信じていた。
 囚人は刑期を終えたら出所できるが、刑務官は刑務官である限り一生刑務所で過ごすのだ。あんな人間のクズの吹きだまりを相手に。
 時々、八戒が気味悪くなる。
 何があっても昨日と寸分変わらない笑顔で微笑んでいられる八戒が、鬼とか殺人ロボとか称される自分よりも遥かに空っぽなんじゃないか、こいつのほうが余程機械じみてるじゃないかと。
 
 当然というか何というか、たちまち八戒は囚人たちに一目置かれる存在になった。
 見た目に反して度胸はすわっているし、腕力もある。事ある毎に担当囚人を蹴ったり小突いたりして暇つぶししていた今までの看守と違って、滅多な事では声を荒げない。警棒も振るわない。規則違反者が出ると、如何にも仕方なくといった調子で張本人の腕を折れる直前まで一気にねじり上げる。骨の軋む音と絶叫にギャラリーのほうが悲鳴をあげだすと、あっさり離した。
「お大事に」
 それ以上の制裁が続くことは絶対になかった。
 食事や運動時間の監視に当たる時も、悠々と受刑者たちから目を離し、本のページを捲っていた。バレーボールの合間に日陰にたまって雑談していても見逃してくれた。というより、そんなことはどうでもいいようだった。運良く八戒を捕まえられれば、深夜でも薬を都合してくれたし、書籍であれば規定日でなくても差しいれてくれた。要するに彼は囚人にも看守という仕事にも興味がないのだ。暴行を働いたり喧嘩を売るような関心が。
 規則を犯さず如何にして看守の気分を害し日頃の鬱憤をはらすか、に頭を捻っていた囚人たちも、挑発にのらないどころか哀れみの視線を投げられて毒気を抜かれ、しまいには馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。
 少年院でしか使わないような「先生」という呼び名が、なんとなく広まった。八戒からは、大方の予想通り特に異議はでなかったので、いつの間にか八戒は先生ということになってしまった。
 5舎・6舎の囚人たちは、八戒が担当看守であることはラッキーな出来事だと信じていた。
 あの男が戻って来るまでは。


「戻ってくる、今夜」
 工場内で作業中は私語絶対厳禁だ。別の島でカンナを扱ってたいたはずの先輩が、悟空の後ろを通りすがりに囁いていった。
「うっそ!」
「こらクソガキ!」
 工場担当の罵声が飛んだが、舞い上がった悟空の前の廃材の山が音を立てて雪崩落ちた。
 1ヶ月ぶり。もっとか。
 同房の中では一番仲が良かった。
 いや、悟浄は誰とでも仲が良かった。
 悟空が懲罰房にいたのは1週間だったが、それでも死んだに等しい苦痛だった。窓は開かない。声も出せない。動くものが何ひとつ見られない。体罰がないのが、かえって辛い。時間の感覚も手足の感覚も狂っていき、正気を保つ術が自分しかない。
 最初から最後まであの中で過ごす囚人もいるにはいるが、大概どこかの組の親分で、一般囚人と並べては扱いづらいとか、シャブ中でおかしくなって同房の仲間に危害を及ぼすとかいう連中ばかりだ。組長クラスの大物になると落ち着いたものだし、後者は訳が分かってない。
 更にその上をいくと自殺房。24時間監視カメラに拘束具がつくというが、そこまでいった奴はなかなかいない。
 木屑を撒き散らした罰に工場担当に2,3発顔を殴られたが、悟空は平気だった。
 悟浄の被った苦痛に比べたらこれくらい。
 工場から舎房への送迎にきた八戒は、整列した受刑者を点呼し、悟空の青痣を見て微かに眉を顰めた。
「食堂の前を通りますから氷を持っていきなさい。周りが動揺します」
「ありがとうございます!」
 
 この穏やかな「先生」に初めて警棒を抜かせた男が、まさか悟浄になるなんて。
 
 

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