セル act2
「ご・帰・還」
 耳元で懐かしい悟浄の声。
「待ったぁ?小猿ちゃん」
「待っ」
 叫びかけた悟空の口を、息を殺して悟浄の帰りを待っていた同房の連中が寄ってたかって塞いだ。囚人の移動は、騒ぎにならないよう、大抵深夜だ。悟浄をここまで送ってきた夜勤看守が手にしたライトを軽く振り、靴音を響かせて遠去かった。
「…おんやぁ?おやっさん、やけにあっさり引き下が」
 悟浄と目が合った殺人犯は、慌てて続きを呑み込んだ。こいつと深く関わるとろくな事がない。暴言や暴力だけが、のべつまくなし独房に放り込まれる理由じゃない。
「今晩は大目にみてくれるってことじゃねぇ?それより、おかえりは?」
 あちこちで毛布が跳ね上がった。
「お帰りぃ悟浄」
「舌まわってねーじゃん」
「喋ったのひさしぶりだかんなぁ」
 煙草調達係は木工工場勤務と相場が決まってる。元受刑者が廃材の隙間に挟んで差しいれてくれるのだ。前居住者が開けた壁の穴から、悟空は昨日くすねた煙草と看守が捨てた百円ライターを抜き出した。
「はい。煙吐かないでよ悟浄」
「吐く訳ねえだろ貴重な煙を」
「担当変わったって聞いた?」
「知らない」
「無茶苦茶もしねぇし、すげまともだよ。はっかい、だっけ」
 はっかい。悟浄は絡まった髪を解きながら復唱し、少し笑った。
「まともな奴は牢番なんかしねぇよ」
 

 朝の工場送迎には看守がふたりで当たる。
 翌朝八戒は、舎房区長が点呼をとる脇でそっと欠伸を噛み殺した。昨日は読書に夢中になりすぎた。
「何ぼーっとしてる。後ろ行け」
 腕をつつかれて、八戒はこめかみを軽く揉みながら整列した受刑者の横を歩いて最後尾に向かった。保安課のエリートコースにいる八戒と、留置管理課で最後まで看守確定の区長とは絶対的に溝がある。なので、総じて看守たちは八戒ら出向組に冷たかった。勿論八戒には、そんなことは明日の天気より今日の献立より更にどうでもいいことだ。
 何年たっても変わり映えしない看守と囚人のいがみ合い、出所したと思ったら戻ってくる懲りない面々、それに比べて1冊の本から噴きだしてくるあの世界の広さ深さはどうだろう。こんなくだらない仕事はさくっと流して早くあの続きを。
 上の空の八戒は、担当受刑者の面子がひとり増えたことになど当然気付かなかった。
 目の端に赤いものが散らつく、とぼんやり思った時。
 耳元で低い声がした。



「            」



 ガァン!

 金属が肉を潰す独特の音が、吹き抜けの通路を挟んだ向かいの棟まで響きわたった。
 残響が収まるまで、その場にいた全員が身じろぎひとつしなかった。
「…なんだ、どうした」
「…先生が」
 悟空の掠れた声と足下に飛んできた血の混じった唾を見て、八戒は初めて自分の右手を冷静に見下ろした。力任せに振り下ろした警棒を握った手が痺れている。
 初めて人を殴った。
「おい、どこやった!腹と頭はやんなっつったろ!」
「…さぁ」
 気がついたら振り下ろしていたのだ。区長に揺さぶられても、八戒の視線は自分が殴り倒した男から離れなかった。どれが血だか髪だか分からない。何でこんなところに、こんな男が。
 どこに当たった?
 しかも何だって?
 何て言った?
 八戒の鈍い反応に苛立って舌打ちした区長は、無造作に悟浄を引きずり起こした。
「またおまえかよ。生きてるか?」
「…何とか」
 いっそう回らなくなった舌で悟浄は口の端に滲んだ赤を擦い、ペコリと頭を下げた。
「お騒がせしました」
「まったくだ。戻ってきたその日くれえ大人しくしてろ。…おまえらも見物してんな、前向け前!」
 悟浄は微かに眉を顰めてはいたが、もう何事もなかったように列の後ろにつき、固まった悟空に片目を瞑ってみせた。
 工場に向かう3階の渡り廊下は、唯一鉄格子のない広い窓から日光が降り注ぎ、外の緑が見える。この場所でだけは、囚人が一斉にするよそ見を黙認し、看守もなんとなく窓の外を眺めるのが通例だったが、最後尾の八戒は今日はすぐ目の前の赤から目を離せなかった。
 こんなものをこんなところで見るなんて。
 どす黒い赤でも腕章の薄っぺらな朱色でもない、こんな色を見るなんて。
 工場の喧しい機械音に紛れる位置で、思わず口をついた。
「名前は?」
 悟浄は振り返りもしなかった。
「1024番」


「あの赤いの殴ったって?」
「ええ、まあ」
「これで先生の権威も失墜だな」
 三蔵は気のせいか楽しそうに窓辺で煙草をふかしている。
「気に入らねぇか」
「何故です」
「別に。何となくただ気にくわねえ奴っているだろ。どの看守にもいんだよ、専用のサンドバッグが。あいつは近々永久独房住まいになるから雑居房にいるうちに好きなだけ殴っとけ。できれば他の連中が見てるとこでな」
 保安課に受刑者の資料はない。他の囚人の見ている前での暴力を推奨されるということは、彼にはそれなりの人望があるということだ、多分。そいつを中心に徒党を組んで刃向かわれる前に、見せしめに叩きのめす。それで無理なら独房に隔離して、他の誰とも会わせない。
「…名前は」
「何の」
「1024番のです」
 三蔵は八戒がトイレの使い方でも聞いたように、心底怪訝そうに八戒を見た。
「おまえはゴミに名前をつけるのか?」


 1ヶ月ぶりの工場作業で、隣の作業台の、左腕に目を奪われるような見事な刺青がある男が眉を顰めた。
「新しいタトゥかなんかか」
 悟浄の耳の下から鎖骨の辺りまで、警棒の跡が赤紫の内出血になっている。
「独房担当じゃねえだろ?あそこはジジイばっかだし」
「初対面のせんせ〜に挨拶したら朝からぶん殴られた」
「ほぉお?あの可愛い坊ちゃんに?ははっおまえもう終わりだな」
「…誰も信用しねえし」
 悟浄は軍手のまま、傷を撫でた。さっき工場担当に打撲のせいで頭痛が酷いと訴えたのだが、犯人が八戒というその1点で、即、虚偽の申請であると断定され、同じところを嫌というほど殴られた。おかげでバーナーが震えて何度も指を焦がしかけている。
「まあしばらくしたら、いい色になるだろ」
「あんたの刺青にはかなわねえけど。その桜のせいだもんな〜俺の最初の独房…」
「しつけーな」
 新人研修なるものを終えて工場に最初に配属された時、この刺青男はいわゆる主みたいなものだった。本物の刺青を見るのが初めてだったので、悟浄は思わず「うっわ何それ綺麗ちょっと触らせて」などと腕を掴んでしまい、その場で袋だたきにあった。囚人たちのストレス発散だと分かっているから、看守なんか見て見ぬ振りだ。
「1回きりだろ?だからその後、ちゃんと色々便宜はかってやったろ?てめえも要領悪ぃんだよ、さっさと泣きゃやめるっつーにいつまでも頑張るからやめるタイミングが」
「そりゃ…」
 悟浄は目を見開いた。
 見開いたにもかかわらず視界が狭まる。
 同じ位置に容赦なく振り下ろされた警棒。激痛に今度こそ悟浄の膝が崩れて、煤と鉄粉の散らばる床に掌をついた。
「…工場内は私語厳禁」
 制裁を受けた仲間を助け起こすと規則違反になる。
「先生、俺も喋ってたんだけど…」
「ひとりなら喋らないでしょう、貴方も。袖を下ろして刺青を隠しなさい」
 八戒はそのまま工場を突っ切り、廊下を歩きながら灰燼で曇った眼鏡を拭いた。いくらなんでも三蔵のように何の理由もなく受刑者を殴ったりできるものか。人間のやることじゃない。作業中の私語は規則違反。看守への暴言も規則違反。
 これで落ち着いてゆっくり本が読める。


 いったいあの温厚な先生に何を言って怒らせたのかと同房の連中にいくら聞かれても、悟浄は頑として口を割らなかったので、どうせ卑猥な冗談でもとばしたんだろうということに落ち着いた。
 相変わらず毎朝八戒は区長とふたりで5舎の点呼をし、最後尾の悟浄のまた後ろについて、工場までの道を無言で歩く。何度規則違反を口実に警棒を抜こうが文句も言わず反抗もせず、それどころか目も合わせない。
 悟浄は淡々と八戒を無視し続けた。
 自分がいつも受刑者たちにしてきたことだ。動揺するのもおかしな話だ。
 だが、檻の中にいる側にとって担当看守の存在ほど大きいものはないはずだ。担当替えに沸き返るのはそのせいだ。問題を起こしても一番近くにいる担当が間に入ってくれれば事が済む。担当に嫌われたら最後、嬲られ続ける地獄の日々だ。担当の証言で刑期が変わる場合だってある。
 その自分を、無視。
 その日、いつものように列の後ろについた八戒は、警棒の柄を軽く握った。
「何故、皆に言わないんです。最初に僕に殴られた理由」
 日の当たる廊下にさしかかる。
 光を浴びて髪が揺れる。
 皆の視線が窓の外を向く。
「だって秘密なんだろ」

 誰にも気付かれたことがなかったのに。
 右目がないこと。

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