セル act3
泣き声が聞こえる。
八戒は5舎の蛍光灯をひとつつけると、溜息をついて、できる限りゆっくりと廊下を歩いた。
夜中の雑居房からは、それは色々な音が聞こえる。いびきや歯ぎしりの酷いのもいれば、薬物摂取の後遺症で騒ぐのも、たまにおかしな関係になって縺れ合ってるのもいる。
その中でも一番八戒が嫌悪するのは、ただすすり泣く奴だ。
何故泣く。何故怯える。自分で引き寄せた当然の結果だろうに。
相手を心底馬鹿にしつくすと、人はとてつもなく優しくなれる。子供や小動物に対するそれと同じだ。八戒は格子をそっと握ると、壁に体を押しつけて蹲る囚人に穏やかに声をかけた。
「どうしました」
返事の代わりに652番は頭を抱え込んだまま小さく首を振った。だが夜勤が八戒と知って安心した証拠に、僅かに嗚咽が大きくなる。
慰めるのは簡単だが。
「夢ですか?」
「……」
「貴方が殺した女が出た?」
男の肩が跳ね上がり、震えだした。
「前担当に聞いてます。何年もそうして魘されてるそうですね。1度の浮気でかっとなって奥様を殴り殺した。本当は愛してたのに。毎晩彼女は夢で恨み辛みを?それでご自分を責めてらっしゃる?」
八戒は微笑んだ。
「後でも追ったらいかがです」
652番は顔をあげた。見開いた目からボタボタと涙が落ちる。
「愛した相手がいつまでも自分に執着してくれてると信じられるなんて、本当に幸せな方ですね。奥様は貴方のことなんか、もうとっくにお忘れですよ」
八戒は立ち上がって膝の埃を払うと、来たときと同じ歩調で歩き出した。
自分の感情のコントロールができないような弱い人間が外に出たところで、ほんの少しの自由とひきかえに、猛スピードで動く世界でつまはじきにされて落ちぶれて、誰にも相手にされずのたれ死ぬだけだ。
そう思っていた。なのに、我を忘れた。
綺麗な目なのに、いっこっきゃねーのな。
何故。
軽く眼鏡を押し上げると、右目の奥で自分にしか分からない乾いた音がした。
決して多くはない友人も、職場の連中も、三蔵すら気がついていない事を、何故あの男が。
八戒は人付き合いが苦手だ。周囲の人間をつい見下してしまう。だから要領を覚えたのだ。
微笑んでいればいい。
内心どんなに馬鹿にしていようが、上っ面だけでも繕っておけば問題は起こらない。
八戒が卒業したのは世間で言う「ランクの高い」大学で、成績も外面もよかった八戒には他にいくらでも選ぶべき道があった。だが、どんなに世間で言う「レベルの高い」人間でも、一から十まで尊敬できる人間などいない。どうせうわべを繕うなら、ご立派な肩書きのついた、プライドの高い、自分とよく似た人間がうじゃうじゃいるところより、世間から烙印を押された連中相手ならまだ気楽だろうと。
誰もが面白いくらい騙された。穏やかで優しくて親切で人当たりがよく礼儀正しい男だと誉めた。
なのに、初対面でいきなり何年も隠し通してきたことを見破られ、しかもその相手が檻に放り込まれている罪人だった事が、八戒のプライドをいたく傷つけた。
秘密なんだろ。
あの派手な髪が目の端に映るたびに、脅迫でもされているような気がする。恩でもうったつもりか。
だから殴った。自分は殴っていい立場にいる。当然の権利だ。怯えたらしめたものだし、殴り返してきたらすぐさま独房に突っこんで目の前から消してやろうと思った。なのに何の権利があって、担当看守である自分を平気で無視できる。暴力をふるったこちらが哀れまれているようでますます怒りが増長し、余計プライドがズタズタになる。これ以上彼に目の前をうろうろされたら、苦労して得た「いい人」の仮面が完璧に剥がれてしまう。
どっちにしろ担当替えまで3ヶ月の我慢だ。
だができればその前に。
「こんばんは、先生」
いきなり足下ではっきりと声がした。
誰の声だか分かり切ってはいたが念のため、八戒は天井のプレートを見上げた。
第7房。
「…就寝時間ですが」
悟浄が中からガシャンと鉄格子を掴んだ。
「先生にこないだ殴られたとこが疼いて眠れないんですけど」
どういう風の吹き回しだ。
ろくに顔も見ずに気晴らしに殴っている相手に初めて真正面から話しかけられて、反応が遅れた。動揺したとは思いたくなかった。驚いただけだ。今もあの時も、不意をつかれて驚いただけ。
「…なんですか?」
途端に悟浄の声は、囁くような小声になった。
「あんたに、殴られた傷が、いてえっつの」
声はますます小さくなる。聞き取ろうとするうち、八戒は知らず知らず膝をついた。
「2043番が、先生なら優しいから夜中でもクスリくれるって言ってたぜ」
ちなみに2043番は悟空の番号だが、八戒にはどこの誰だか見当がつかなかった。いずれにせよ、そんなことは今問題ではない。問題なのはこの男だ。
「格子から手を離して。規則違反です」
「2043番にはくれて俺にはくれねえの?」
「手を離しなさい」
「俺にだけ、くれねえの?」
八戒は警棒を引き抜いて、悟浄の手首にピタリと当てた。
「離しなさい」
「俺だけ殴って、俺だけクスリもらえねえの?」
…だけ?
警棒が僅かに動いた途端、悟浄はすっと手をひいた。
振り上げた拳をかわされた苛立ちは、しかしどうしようもない。檻の内側からこちらには何の手出しもできないように、こちらからも、もう何もできない。
何度か唾液を飲み込んで、ようやく八戒は警棒をベルトに突っこんだ。
「……今、鎮痛剤を」
「いい。痛くねぇから」
悟浄は八戒の凄まじい視線をそのまま押し返して、追い討ちのように笑った。
「先生がそろそろ俺と喋りたくなる頃かなあって、声かけてみただけ。聞きたいことあんだろ?何で大人しく殴られてんだとか?何で目のこと分かったのかとか?」
どこまで人を馬鹿にしたら気がすむ。
「教えようか」
声が、また聞き取れないくらい小さくなる。
八戒は一瞬身を屈めようかどうしようか迷い、迷った自分にまた腹が立ち、その場でUターンした。追ってきた悟浄の声に、振り向かずにいるのは至難の業だった。
「こっちをとことん見下したプライドたっけぇ女の気ぃひく時は、最初に徹底的に無視って相場決まってんだろうが。ちっとは駆け引きの基本覚えねぇと彼女もできねえよ、先生!」
「悟浄、あぶねえよ。あのへん」
刺青の男が僅かに視線を動かした。悟浄が追った視線の先には、よく休み時間につるんでいる4,5人のグループ。外にいる頃から仲間だったんだろう。
「何が?」
「おまえさんを独房に送る算段してる。気をつけろ」
「何で?」
しばらく返事に間があいた。
「…何だか知らんが、おまえがいると先生の機嫌が悪い」
「あ、成る程」
悟浄は手にしたボルトで頭を掻いた。
自分が戻ってくる前に、いかに「先生」が穏やかで監視が甘くて助かったか、同房の連中に何度も聞かされた。看守たちでさえ「おまえが戻ってからあいつは看守らしくなった」と感謝なのか愚痴なのか分からない事を言って寄越した。
特に悟空の動揺は酷かった。元々素直で単純な奴だ。初めて出会った優しい看守が、兄貴分である悟浄を眉一つ動かさず殴り倒す現場を目の当たりにするのは耐え難い苦痛だったようだ。
「…そうだな。じゃあリンチにあう前に大人しく独房行ってみようか」
「行ってみようかっておい」
「別にそんな大層なとこじゃねえよ。お隣さんなんか周りに気ぃ使わなくて天国だっつってたぜ。毎晩毎晩壁に向かって」
「そりゃぶっ飛んでほんとに天国にいるんだろーが」
ちょっと勿体ねえけどな。
悟浄は汗が乾いてパラパラと落ちてきた髪を、軍手をしたままの手で掻き上げた。
殴られるぐらいどってことない。あの先生の綺麗な外面、全部剥いでやりたかったのに。
昨日の八戒の驚きようを思い出すだけで、自然に頬が緩んだ。
無視の次は挑発。
「そこ!作業中は喋るなというのが分かんねぇのか!」
こいつ木工場にいた時にさんざ悟空をいびり倒したらしいし、先生の面殴るのはちょっと気がひけるし。
「…制裁!」
高らかに宣言すると、悟浄は振り向きざま工場担当の腹に肘を入れた。
→novels top
→act4