セル act4
 ブラインドを開けて朝の空気を吸い込むと、三蔵は部下に3度も淹れ直させたコーヒーを啜った。
 眼下の猫の額ほどの運動場では、受刑者たちが嬉々としてバレーボールに熱中している。シャバではあんなものに見向きもしないだろうに。楽しくてたまらないのだ、自由に動き言葉を交わせることが。
 哀れだな。
 今朝も自分の立場を再確認して満ち足りたところで、いきなり部屋の戸が開いた。
 普段なら個室にノックもなしに飛び込まれたら相手が誰であろうが灰皿か万年筆か銃弾か火のついた煙草か、とにかくその瞬間手に持っていたものを投げつけるのだが、そこに息をきらせて立っていた八戒が八戒だったおかげで、彼は大やけどを免れた。
「…おまえか、珍しいな。下でボール遊びしてるのは5舎じゃねえのか?」
「彼は独房が好きなんですか?」
 三蔵は軽く眉間を揉んだ。
「…彼って誰だ」
「ですから1024番。基本的にうちは独房はできるだけ使用しない方針でしたよね。独房より雑居房にいてくれたほうが経費は浮くし看守も楽だし、そりゃ刑務官に暴行をくわえるもしくは暴言を吐くのは制裁を加えていい例ですけど即独房という判断は」
 そこまで言って、八戒は腕に抱えた管理課のマニュアルを捲った。
「1年で149日の独房なんて例がありません。他の受刑者とトラブったとか看守長が彼に何らかの悪意をもっているとか本人が独房が大好きとか」
「…どれでもいいじゃねえか」
「よくありません、おかしいじゃないですか」
「仕事熱心で結構なことだ」
 八戒はふっと黙った。
「おまえの所属は保安課だ、管理課の仕事に口出すな。文句があるなら書類を出せ」
「…知らないことを知らないままにしておくのは性に合わないだけです」
 面倒くさい男だ。
 好みも変わってる。
 三蔵がクルリと背中を向けると、小さな溜息とともに静かに扉が閉まった。流石に引き際はわきまえてる。
 看守のストレス解消の標的にされる奴は、外でも散々苛められてきた奴だ。おどおどと人の顔色を窺い、媚びへつらうタイプ。そのくせ要領が悪く、必ず集団生活の足を引っ張って目立ってしまう。
 確かに悟浄は入所してきたばかりの頃、目立つ容貌とストレートな物言いのせいであちこちで絡まれていた。だがそのうち、看守も囚人も悟浄をターゲットにするのはやめてしまった。
 というようなことを、八戒は5舎の監視を代わってくれていた三つ年下の後輩に聞いた。
「1024番…ああ、あいつね。気持ち悪いんですよ」
「気持ち悪い…ですか」
「痛覚がねえみたいで」
 空は真っ青で心地いい風が吹き抜けていたが、八戒の背筋にいきなり寒気がきた。
「痛覚がない?」
「ないわけはないですけど、殴っても殴っても一声も出さねぇし。いつだったか工場の連中がフクロにしてて、あんまり反応ねえもんだから加減が分かんなくなって殺しかけちゃって。額切って大出血したんで慌てて病院運んで、緊急だってんで麻酔無しで縫ったんだけど、その時もフツーの顔してましたね。見てるこっちが吐きそうだっつーのにフツーに帰ってきて、よおって。気持ち悪くて」
 痛みに鈍い人間は、確かにいる。
 八戒は頭の中で関連書籍をひっくり返した。
 遺伝子の関係で、生まれつき痛覚の鈍い人間がいて……サイコキラー。冷酷でIQが高く自己中心的で痛覚が極端に鈍く罪悪感もない。
 …そんな感じじゃないような。
 確かに人を小馬鹿にした得体のしれない男だったが、夜中に話した限りでは、どことなく人に関わりたがってるような気がした。でなきゃ好きこのんで担当看守に話しかける理由がない。義眼のことを指摘されて殴りはしたが、あれは揶揄じゃなかった。単に思ったことをそのまま言ったという感じだった。
 こんな場所で思ったままを言える時点で、変わってるといえば変わってるけど。
「八戒さん。俺、前から聞きたかったんですけど」
 空手6段だという後輩は、八戒の見える方の目を覗き込んだ。
「あいつ泣きも喚きもあやまりもしねえから、殴っても面白くないでしょう。何であいつなんです」
「泣いたり喚いたりさせたいなら暴力使う必要ないですよ」
 昼食15分前のサイレンが鳴った。
 八戒はまだ何か言いたそうな後輩に笑顔で礼を言い、食堂まで受刑者を誘導するために立ち上がった。
 いつもなら最後尾にいるはずの男は今頃どうしているだろう。独房に放り込まれると、24時間、立つにも座るにも声を出すにも看守の許可を得なければ制裁の対象になる。そんなところに好きこのんで入る馬鹿がいるだろうか。
 1024番を殴ったのは、そうしていないと自分がいないみたいだったからだ。
 義眼を見破られた時点で、既に自分にとって彼は特別だったのに、人なつっこくて同房の仲間ともうまくやっている彼が八戒を見えないもののように無視するから。だから。
 手をあげて、手応えがあるとほっとする。血が飛ぶと、ちゃんと温かくて、傷も痣もつく。
 建前では暴力厳禁の房内で、八戒はわざと目立つところばかり殴った。跡や痛みが残るうちは、無視できないはずだ。いくら目を合わせず言葉も交わさなくても、見るたび痛むたびに自分を思い出すはずだ。それしか。
 それが彼の思うつぼだったとしてもそうするしか。
 …彼の罪状と刑期を知りたい。
 管理室の責任者はノンキャリアで、八戒や三蔵らの保安課とはすこぶる仲が悪い。あんな卑屈な連中に貸しを作るのはまっぴらだ。三蔵も、いちいち一人一人の罪状など覚えちゃいないだろうし。
 本人に聞くしかない。
 八戒は何度か逡巡した挙げ句、食堂を出ようとした悟空の肩を掴んだ。軽く手を置いただけのつもりだったが、悟空は壁際まで飛びずさった。
「…1024番の名前、何でした?」



「来ると思った」
 悟浄の第一声がこれだった。
「嘘でしょう」
 独房内に照明はない。窓もない。鉄格子の代わりに鉄の扉と小窓だけ。
 八戒は窓にはまった透明なプラスチック板を跳ね上げて目をこらしたが、すぐそばにいるであろう悟浄の姿ははっきりとは見えなかった。
「独房の夜勤、今晩だけ変わっていただきました。お聞きしたいことがありまして」
 返事はなかった。
「工場担当を殴ったそうですね。何故です」
 不自然に長い間があいて、ようやく身動きする気配がした。
「…何故って?」
「あなたこの間、僕の気をひきたいから無視したって言いましたよね。本当だったとしたら結構な忍耐力じゃないですか。カッときて人を殴るような方とは思えませんが」
 また長い間、悟浄は黙っていた。
「話す気がないなら…」
「…口の中切れてて」
「痛いんですか?」
 今度は一瞬の間。
「…いてぇに決まってんじゃん」
 勝手に深く息が漏れた。
「…なら、いいんです」
 八戒はその言葉をほとんど口の中で呑み込んでしまったので、悟浄の耳には届かなかった。蛍光塗料を塗った時計の針は3時をさしている。あと1時間で朝番が交代に来てしまう。臨時配置でしかない保安課の職員が独房の夜勤をかってでること自体、不自然極まる。もうこの手は使えない。今晩で聞きたいことは全部聞いてしまわなければ。
 答えを急かそうかどうしようか迷い始めた途端、ようやっと返事が戻ってきた。
「もしかしたら先生が独房まで追っかけてくるかもなって思っただけだけど?」
「…来たら、なんなんです」
「ここ開けて」
 おやつでもねだるような、何の悪気もない言い方だった。あまりにさりげなさ過ぎて、一旦耳を通り抜けたほど。
「…何を言って」
「ちょっとだけ開けて。逃げねぇから」
「当たり前です」
 逃げるも何も、廊下に並んだカメラに受刑者が映った途端いたるところでシャッターが下りる。
 扉に、どんと悟浄が凭れる音がした。
「開けて。ここから出ねぇし、あんたにも何もしねえから。2センチだけ開けて」
「…まだ聞きたいことがあるんです。貴方の刑…」
「八戒」
 悟浄の声が不意に近くなる。
「…看守を名前で呼ぶのは規則違反ですよ」
「開けて」
「駄目です」
 言った途端、ぷっつり悟浄の声が途絶えた。
 冷たい扉に押しつけていた八戒の手の平に、じわりと汗が浮いてきた。
「……悟浄?」
 悟浄の独房入りが何日か何週間かしらないが、下手をすれば自分の研修期間が終わってしまう。ふたりで話せる機会は今晩きりかもしれない。まだ聞きたいことが山ほどあるのだ。こんなところで戦線離脱されたら、延々この得体のしれない男に取り憑かれる。
 八戒は唇を軽く噛むと、鍵を外して鉄扉を2センチ、押し開けた。


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