セル act5
何の音もしない。気配も動かない。
管が汚れたままの蛍光灯の黄色い光が、独房の床に一筋線を描いただけ。奥へ、奥へ。
2センチ程度の隙間じゃ、闇になれない目で中の様子など分からない。
「…悟浄」
危うく足を踏み入れそうになって喉が鳴った。大丈夫。不意をついて内側から押し開かれる事態を考えられないほどの動揺じゃない。囚人の手口ぐらい、こいつらが足りない頭で考えることぐらい、知り尽くしてる。
八戒は後ろ手で警棒を引き抜いた。
ここは拘置所で自分は看守で、中にいるのは、少なくとも自分と対等の人間ではない。遥か下の暗い世界の住人だ。自分は違う。
「悟浄?」
随分、随分その間は長かった。こちらからは見えなくても向こうにはきっと見られてる。もどかしい。不公平だ。…不公平?当たり前だ。ここは拘置所で中にいるのは遥か下の。
「もういいよ」
突然、ぽんと投げつけられた。
「はい?」
「閉めていいって」
ジジッ。頭上で蛍光灯が点滅した。独房担当に言ってきちんと埃をはらわせないと。監査が入らない箇所の清掃にはすぐ手を抜きたがる。
「早く閉めろ」
子供に噛んで含めるようにゆっくり繰り返す悟浄の声が湿ったコンクリートに反響して、近いのか遠いのか分からない。
「なんです貴方、今」
「閉めろっつってんじゃん」
「だから何で」
「開けるのも嫌なら閉めるのも嫌なのかよ」
「嫌ですよ!」
気がついたら、決して広くない独房の天井から床一面を、隅々まで光が照らし出していた。
悟浄は八戒のすぐそばにいて、驚きもせず八戒を見上げ、目だけで笑った。
「…わっかりやすいなぁ、先生」
誰でもない。自分でひっくり返した。
八戒が自分の手で限界まで開け放った火葬場のような黒い鉄扉が、壁に当たって鈍い音を立てた。
「正気の沙汰じゃねえ」
それから2日後の朝。八戒はきちんとノックしたうえで、三蔵と向かい合っていた。
「…お言葉ですが、午前中から既に2回目の弾込めなさってる貴方の方が正気の沙汰では」
シリンダーの回る音で、またもや八戒はぱっと黙った。
「その引き際の良さも俺は大層気にくわねえが、それより」
三蔵は手の中で銃を弄びながらも、視線を正面に立つ八戒の顔から外さない。机の上には丁重な文字で埋められ芸術的なまでに綺麗に判が押された異動願。
「何だこれは」
「見ての通りです。読めませんか」
喧嘩を売ってるとしか思えないこの八戒の物言いは、悪意からではない。微笑を貼り付けたままロボットのように、言われたことや起きたことに反応しているだけだ。初対面から八戒に付きまとう「空っぽ」のイメージは、何年付き合おうが変わらない。三蔵は紙切れを摘み上げ、目の前に翳して読み上げた。
「飼育係希望…」
「管理課異動願」
「アホか」
刑務官は刑務官、何課にいようと一生刑務所から離れられはしない。
それでも管理課から現場を離れて上司クラスに上がるためには数々の難関を突破しなければならず、保安課は最初から一流大学出の肩書きや国家公務員試験の成績をもって出世コースにのったエリートと決まっている。保安課から管理課への異動願など前代未聞だ。
「こんなもの承認したら俺の名誉に関わるわ!」
「一応、他部署長の推薦印をすべて揃えましたが」
ああ、こいつの眉間を撃ち抜いてしまいたい。出世したくてひーひー言ってる連中が、役職枠をひとつ空けると自ら申し出た馬鹿に協力しない訳がない。
脱力しきった三蔵の手から銃と書類がまとめて机の上に落ちた。
「机に傷がつきます」
「机の傷より俺の経歴につく傷を気にしろ。どうせ寸分の隙もないご大層な理由があるんだろ。ちっとも聞きたかないが、聞かねぇ訳にもいかねえな」
「現場を離れたくないんです」
「いつまで」
「僕の気がすむまで。という訳にもいかないでしょうから永久勤続で構いません」
「それで説明してるつもりか。牢番で一生を終えたいと願うその理由を単刀直入に言え。そのまま書類に書くから」
即座に戻ってくるかと思われた返答は何故か間があいた。
三蔵はペンを構えたまま辛抱強く待った。
「…悟浄を見ていたいので」
とても書類に記すべき言葉とは思えない。
「…まあ待て。順番にいこう。悟浄ってなんだ」
「1024番です」
「見ていたいってのはなんだ」
「言葉どおりです」
「見てて楽しいのか?」
八戒の顔から微笑が消えた。
「…楽しくはないですが」
なんで開けたの?
夜勤を終えて家に戻った後も、延々悟浄の声が頭を回った。眠っても、眠ってからも、ずっとずっとそこにあった。
なあ、なんで開けたの。
毎日毎日変わり映えのしない面白くもなんともない仕事。要領さえ覚えれば勝手に体がこなす仕事。考える必要も想像の余地も、本の中にしかない。決まり切ったパターンでしか動けず考えない自分にも、無難に過ぎていく生活にも飽きて、退屈で退屈で死にそうだったのが、いきなりぶち壊れた。
悟浄。
本人が何をやらかすか分からないだけならともかく、八戒自身を何をしでかすか分からない目にあわせる。質問を投げても投げても質問で戻ってきて、しかも答えられない。自分のことなのに分からない。
今までなかった。こんなこと一度もなかった。
何かや誰かのことで頭がいっぱいになることなんてなかった。
不快じゃない。面白い。もう認めざるを得ない。訳が分からなくてドキドキする。分からないことを知りたいもどかしさが面白い。体と心が別々に動く自分が面白い。扉を開けた途端のあの破れかぶれな爽快感。何故、今までこんな毎日に疑問も持たずに暮らしてこれたんだろう。何故、もっと楽しもうと思わなかったんだろう。何を守ろうとしていたんだろう。
ふたりきりで向かい合ったのは、ほんの一瞬だ。
やべーよ先生。
突っ立ったままの八戒の手を、悟浄が掴んだ。手袋越しに飛び上がるほどの熱。
そんな全開にしたら、まるで先生が開けたくて開けたみてえじゃん。カメラに映ってんぜ?
悟浄がいきなり八戒を突き飛ばして中からバンと鉄扉を閉めた途端、交代の刑務官が飛んできた。体調不良を訴えたので様子を見るために、と淀みなく言い訳する八戒の耳に、悟浄がクスクス笑う声がはっきり聞こえた。腹は立たなかった。
悟浄を包む違和感の正体はこれだ。
楽しんでる。拘置所にいて、受刑者の身分で、看守を相手に楽しんでる。
何故自分を選んだのかは分からない。でも向こうが自分をおもちゃにする気なら、自分にだってその権利はある。暇つぶしにする気なら自分にだって権利はある。悟浄は自分より一枚も二枚も上手だろう。向かい合うと訳の分からないうちにずるずる引っ張られる。でも悟浄には自由がない。自分から逃げられない。24時間あの男を管理できる。
誰があの男から離れるものか。誰が独房に放り込んだまま現場を離れたりするものか。
八戒の管理課異動願は、すんなり通った。
どの房にも早耳で重宝がられる受刑者はいるもので、情報はたちまち房全体に広まった。
「先生みたいなのがずっと看守やってくれたら、周りがつられてこう、みんな優しくなったりしねぇかなぁ」
「そりゃ無理にしても、ずっと看守ってことはまた担当に先生が回ってくる確率があがるってことだよな」
おおむね好評だった。悟空と、工場仲間の刺青男を除いては。
「どう思うよ猿」
「猿って言うな」
「先生の異動が悟浄と関係ねえほうに賭けろ」
「負けるじゃん」
背後を工場担当が行き過ぎるまで、ふたりは息をとめて待った。
「…先生は悟浄のことが嫌いなんだよ、何でだか知らないけど。初対面からいきなり殴ったんだぜ。悟浄は俺には何も言わねーけど、きっと外で知り合いだったとかゆーインネンがあるんだ」
悟空にしてみれば、そうでも思わないと混乱して収拾がつかないのだ。
「そうかもな」
そうかもな、なんてこれっぽっちも思っていなかったが、悟空の倍以上生きている刺青は軽く流した。好き嫌いとか、そういう明快な感情で動くには捻くれすぎてるような気がした。八戒も、悟浄も。どっちも人当たりがよくて、よく笑って、何を言っても本心から言ってるように聞こえない。因縁が生まれる時には、目があった瞬間にだって生まれるもんだ。
きっと俺や悟空は知らない方がいい。
ただの勘だけど。
「悟浄!!」
管理課に異動さえしてしまえば簡単に独房担当にとってかわれると思っていたらとんでもなかった。
雑居房なら囚人と同じくあちこち出向く機会もあるが、独房看守は人と話す機会すらあまりない、それこそ独房業務だ。大喜びで申し出を受けるだろうと思った独房担当が、八戒のとびきり人の良い笑みにも関わらず頑として交代を拒否した。
「悟浄、起きてるんでしょう!?」
八戒は鉄扉に警棒を叩きつけた。
「…先生、やってること無茶苦茶。だいたいあんた今日ここの夜勤じゃねえじゃん…」
「夜勤は今未決区の巡回中です。それより人が親切にも厄介な貴方を引き受けようと言ってやってるのに何ですあのオヤジは!」
悟浄へのあからさまな執着を隠すなどという無駄な努力は放棄して、八戒は扉越しに事の次第をぶちまけた。
「ああ、そりゃそうだろーね」
「まさか貴方、僕だけじゃなくとっかえひっかえ看守にちょっかい出してるんじゃないでしょうね。あんな中年オヤジにまで」
「何言ってんの先生」
本当に何を言ってるんだ。
「俺がいつあんたにちょっかい出した?あんたが俺を追っかけまわしてるだけ」
「あーそうですか。初対面で言ったあの台詞もう一度言ってくださいよ。僕の何が綺麗ですって?」
悟浄はいつもそうするように扉の向こうでひとしきり笑った。
「俺があのオヤジのをよくしゃぶってやってっから、味しめてんだろ。俺、うまいし」
意味が分かるまで、しばらくかかった。悟浄が何を言おうがもう驚かないと思ったが、悔しいことに驚いた。かなり。
「…それは…えー…貴方の趣味ですか」
「んな訳ねえだろ。煙草と引き替え」
「…ああ」
独房担当は八戒より一回り年上で、無口で地味で別れた途端顔も思い出せないような男だ。
…気持ち悪い。
「酷ぇんだぜ。最近、煙草はくれても火くれなくて、火もらうためにまた口で」
靴の先で扉を蹴って黙らせると、八戒はできる限り感情が出ないように慎重に声を絞り出した。
「煙草なら僕が差し上げます」
「代わりに先生の銜えろって?」
「そこまで不自由してません。僕の聞きたいことと引き替えで、一本ずつ」
「それでいいの?」
軽口で返せばいいものを、悟浄が急に真面目な声を出したのに動揺して八戒は前触れもなく踵を返し、後ろから追いかけてくる「あの〜できればハイライトでお願いします」の声は無視して宿直室に直行した。念のため録画映像に切り替えていた監視カメラを繋ぎ直す。
今晩は運が良かったが、これじゃ3日に2時間会えるか会えないか。何とかしてあのオヤジを追い出さなければ。
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