セル act6
 「悟空の出所がもうすぐじゃなかったっけ?」
 なかったっけと言ったところで壁は返事してくれない。
 よかった。まだ自分は正常だ。
 悟浄が壁に凭れて足を伸ばすと、狭い独房では向かい側の壁に余裕で届いてしまう。
 独房には壁しかない。色もないし音もない。この部屋にじっとしていると目も耳も舌もだんだん塞がって麻痺していくようで、ついつい独り言が増える。だからといってあまり壁に向かって熱く語りかけていると、ある日突然壁が返事を始めてしまう。先住者ものべつまくなし壁と議論していた。幻聴だ。それも勘弁して欲しいのでひとり言はできるだけ控えたいのだが、無理矢理舌を動かさないと本当に固まって動かなくなるのだ。他に独房で喋る手だては看守を捕まえるしかないが、たまたま相手の機嫌が悪かったりするともう最悪で、喋る前に喋れなくされる。そもそも声を出すのが規則違反なのだから、ぶん殴られても文句は言えない。受刑者と同じくらい看守も退屈なのだ。
 そろそろ時間の感覚がくるって独房に入って何日目だか分からなくなった。
 でも、多分、悟空がもうすぐ面談だとか言ってたのが先月だから、出所まで1ヶ月はきってるはずだ。
 それまでに会っときたい。顔が見たい。
「こういう時に限って八戒来ねーんだもんな…」
 悟浄は自分で選んでここに来た。だからここにいる事自体はたいした苦でもない。
 殴られても痛いのは体だけ。捕まってるのも体だけ。
 ここには色んな年齢の色んな奴がいて面白い。悟浄は人間が好きなのだ。悟空のような天真爛漫で素直な奴は眺めてるだけで楽しいし、ヤクザの親分の波瀾万丈の人生論を聞くのも楽しい。気が合わなくても啖呵や悪口だけは得意な奴はうじゃうじゃいるから口喧嘩も楽しいし、看守との攻防戦も楽しい。三蔵だけは攻防の余地もなくぶっ殺されそうなので近づいたこともないが。
 人というものは不自由だろうが物がなかろうが、次から次へと楽しみを考え出すものだ。
 初めて独房に入って雑居房に戻ったら、本職彫り師の同房仲間がインクの切れたボールペンの先でコツコツと壁に彫ってくれたそれはそれは見事な天女がいて、そりゃあもう感動した。もちろん1ヶ月に1度の房内点検の前に本人が上から削り取ってしまったが、その作業の間中、悟空が壁に貼り付いて看守に見つからないよう守ってくれたらしい。
 どこにいたって感動はできるし、会えてよかったと思える奴に会える。
 八戒には早々目をつけた。最初はやたら綺麗な顔だなと思っただけだが、初対面でぶん殴られた途端に興味が湧いた。
 初めて見るタイプだ。あいつは面白い。ここにいる連中の中では悟浄が見る限り一番頭がいいし、死ぬほど退屈してる。周囲から分かり切った反応しか返ってこないもんだから、人間そのものに飽き飽きしてる。微笑んではいるが目が笑ってない。腹の中では全然別のこと考えてるにきまってる。
 ああいうよくできすぎた人間は、限界まで膨れあがった水風船だ。ちょっと突くとすぐ割れて本音が噴き出す。
 この時はまだ、悟浄は八戒を面白いおもちゃとしか思っていなかった。
 自分の前であからさまに動揺する様が面白くて、混乱させて振り回して反応を楽しもうと思っただけだ。後で全部房の仲間にぶちまけて笑い者にしてやるつもりで。あの一見冷静沈着なおぼっちゃんが挑発にのって独房の鍵を外したなんて絶好のネタだ。どうせ牢番なんて受刑者を動物としか思っていない。あの三蔵直々に教育を受けた部下なら尚更だ。
 八戒は、あっさりおちた。管理課に異動願を出すだろうことも読めていた。
 今、八戒の頭の中は自分のことでいっぱいだ。
 ただひとつの誤算は、悟浄に飢えている自覚がなかったことだ。この場所ではどうしても味わえない感情があって、人間好きの悟浄は「それ」に猛烈に飢えていた。

 八戒が、先に気付いた。

「悟浄〜。お待たせしました」
 そろそろ夜が明ける頃、鉄扉の向こうで場に似つかわしくないのんびりとした声がした。
 雑居房と違って24時間ここから動けず、昼も夜もなく半分寝ている状態なので、悟浄はすぐに浅い眠りから目を覚ました。
「…お待たせしました?」
「来ると思った、はどうしたんです。ご期待に応えて朝の点呼の前にわざわざ寄ったのに」
 やけに爽やかだ。この間まで隠そうとしても滲み出ていた悟浄への警戒心がまるでない。からかわれてると悟って開き直ったんだろうか。
「…何か用?」
「とりあえず時間がないんで用件だけ」
 ごそごそと紙擦れの音がした。
「えーと…あ、これですね。2043番の仮出所が決まりました。特別問題を起こさない限り日程は動かないと思いますよ。まだ若いし、貴方と違って模範囚ですから」
「悟空?」
「そんな名前でしたっけ。目のクリクリっとした可愛い子」
「いつよ」
「知りたいですか?」
 あ。悟浄はそっと舌打ちした。強気に出やがった。
 悟浄は動くたびにバキバキ音がなる関節を宥めすかして扉に近づいた。
「先生、人が悪ぃなぁ。俺に何か恨みでもあんの?」
「別に。知りたいですかってお聞きしてるだけです。貴方のこと随分気になさってましたよ。仲がいいんですね」
 自分が殴られでもしたように、いつまでも自分の痣を気にかけてくれていた悟空。あんなまっすぐな奴なかなかいない。最後にひと言、おめでとうを言ってやりたい。世話になった礼も。
「あの子のこと、好きですか」
「そりゃあ好きだけど」
「最後のお別れくらいしたいですよね」
「そりゃあしたいね」
「させません」
「は!?」
 思わず素が出た。
「おい待て、なんだそりゃ!」
 言い終わる前に八戒が警棒で扉を叩き、鉄扉のすぐそばにいた悟浄は思わず体をひいた。頭の中を直接揺さぶるような残響が収まると、八戒はさっきまでの歌うような口調を一変させた。
「やっぱり貴方、僕に甘えりゃなんとかなると思ってたんですか」
「…何、先生。今日おっかねーな。こないだはあんなに可愛かったのに」
「立場を確認しましょうね悟浄。僕は看守で、貴方は囚人」
 魔法が切れたか。
 悟浄は2,3度深呼吸すると立ち上がって、唯一の窓を塞いでいるプラスチック板をノックした。この板は外からでないと開けられない。
「せんせ、顔見せてよ」
 外から何の躊躇いもなく板が跳ね上げられた。八戒が自分に向かって微笑うのを初めて見た。悟浄は負けじとにっこり微笑んだ。
「で?どうしたら会わせてくれんのかな?」
「貴方、さぞや女性にもてるんでしょうね。その甘ったるい声で頼まれると何でもしたくなっちゃいますよ」
「そりゃどうも」
「でもダメです」
 目の前で、開いたときと同じくらい勢いよく板が閉まった。
 もろに目に風圧をくらった悟浄が2,3度瞬きを繰り返す間に、八戒はさっさと背を向けて4,5メートル先の廊下を歩いていた。
「ちょ…おいこら!八戒!」
 余裕たっぷりの口調も外見に合ってていいが、やっぱり切羽詰まった声のほうが耳に心地いい。
 八戒は愛用の腕時計に目をやり、始業まであと20分しかないことに気付いて早足で階段を駆け下りた。今日はあいにく曇り空だが午前中の運動時間まではもちそうだ。悟空とふたりになるチャンスもあるだろう。
 実を言うと、会わせてやるつもりだった。体調不良か何かを理由に医務室で一緒にしてやってもいいし、夜中に独房の前まで悟空を連れて行くぐらいは簡単だ。だが悟空が出所すると言った時の、嬉しそうに跳ね上がる声を聞いたら急に気が変わった。
「…なーにが、好きだけど、ですか」
「おはよう八戒」
 いきなり三蔵が出現した。
 彼は気圧が下がると頭痛がするらしく、天気が悪い日はもれなく機嫌が悪い。いつもは部下に買いに走らせる煙草の自販機に自ら小銭を投入しているところをみると、その部下が出社する間も大人しく待てないほど苛ついているらしい。
「おはようございます」
 八戒は神妙に頭を下げた。
「楽しそうだな」
「…貴方に比べれば」
「いやーほんとーに楽しそうだな」
 からまれそうだ。
「失礼します」
 ドリフトの勢いでターンした肩をがしっと掴まれた。
「ちょっと付き合え、煙草の1本や2本。たまに吸ってんだろ?」
 八戒が煙草を吸うのは余程腹に据えかねたストレスが溜まっている時限定だが、今日は悟浄をやりこめられて気分爽快なので結構ですなどと言う訳にもいかないので、大人しく差し出された煙草に火をつけた。
「マルボロで平気か」
「そんなにこだわりないんです。大概もらい煙草ですから、マイセン…」
 八戒の視線がなんとか自然に三蔵を避けようとした結果、自販機にぶち当たった。
「あ、これか」
「あ?」
「いえ何でも」
 普段積極的に買わないからピンと来なかったが、そうか、あの青いやつか。マイナーな外国煙草でも吸ってるかと思ったら意外と普通だ。
 何故かほっとした。意外と普通だ。
 上司が垂れ流す愚痴を右から左へ聞き流しているうちに、始業のベルが鳴った。
 言いたい放題言ったあともちっとも不機嫌がマシになったとは思えない三蔵を見送って、八戒はハイライトを一箱買った。




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