セル act7
「悟浄なんですが、やっぱり無理そうですね」
 どんより曇った空の下、大の大人たちがバレーボールに興じる声が響く。
 八戒は悟空を手招きし、官舎の壁を背に煙草を一本抜き出した。悟空が目を丸くして八戒の口元を眺めている。言うまでもなく受刑者の前での喫煙は御法度だ。
 悟空の八戒への認識は「いい先生」から180度ひっくり返った。
 不思議だ。同じ顔なのに天使のように見えたりとんでもない悪魔に見えたりする。
「…そんなにビクビクしないでくださいよ。何もしませんよ、貴方には」
 その台詞が既にただ事ではない。八戒は気をつけの姿勢を崩さない悟空に向かって微笑んだ。
 確かに可愛い子だ。出所が近くなると周囲からやっかみを受け、抵抗できないのを良い事に最後の制裁とばかりにいたぶられるのが常だが、彼の周囲の連中は本当に純粋に祝福しているように見える。好かれているのだ、こんなところで。きっと外に出てもうまくやっていく。みんなに愛されてあっと言う間に塀の中の事など人生から抹消されてしまう。
 それでいい。全部忘れてしまえばいい。
 そういう場所だ。
「貴方の出所までに悟浄が独房から出るのは無理です。会わせてあげたいのは山々なんですけど」
「先生」
「はい?」
 悟空はしばし俯いた後、八戒をひたと見据えた。
「悟浄が俺に会いたがってるから会わせてくれないの?」
「はい」
 足下に転がってきたボールを、八戒がぽんとコートに投げ返した。
「…先生」
「はい?」
「変だよ」
「そうですね」
 悟空は担当看守の自分と保安課の三蔵が送り出すことになるだろう。三蔵は仏頂面で事務上の手続きを終えた後「二度と戻ってくんじゃねえぞ」とお決まりの台詞を口にする。
 二度と戻ってくるな。
 そういう場所だ。
「…変ですよね」

 悟浄もいつか出ていく。きっと二度と戻ってこない。
 逃げられないのは自分のほうだ。

 1週間後、八戒の休暇中に、悟浄は独房から更に上をいく通称・自殺房に放り込まれ、拘束されたまま4日間一滴の水もなしに放置された。独房の担当看守に鍵を開けさせた挙げ句に大怪我させ、雑居房に遠征した罰で。
 まだ軽いほうだ。看守にも明らかに非があった。
 悟浄は転げ回る看守をそのままにして警棒で独房の監視カメラを叩き割り、誰にも邪魔されることなく鼻歌交じりに階段を降り、両側から拍手喝采を受けながら雑居房を堂々と進んで第7房までやってきた。格子越しにではあるが悟空と別れの言葉を交わした後、仲間たちが必死で止めたにも関わらず、廊下の内線電話で管理課の夜勤に自分の所業を報告した。
  …らしい。
 八戒は事の顛末を刺青に聞いた。
「先生、あいつ怖いもんなしでしょう」
 金属屑を払いながら、彼は我が子の成績を誇る父親のように目の奥で笑った。
 薄暗く、味も素っ気もないコンクリートの回廊を、悟浄が、たった数時間とはいえひとりで自由に、胸元に血を飛ばしたまま好きに闊歩した図を想像すると、それまでの「自分のいない間に何勝手な事をしてくれる」という理不尽な憤りがいきなり覆った。
「…見たかったですね」
 刺青はぎょっとしたように八戒を見た。
「見たかった」

 帝国。
 夜中の。




「お帰りなさい」
 5日後、元の独房に戻ってきた悟浄は、体力の消耗を差し引くにしても随分長い間返事をしなかった。
「悟浄。死んだんですか?」
「あんたじゃなくていい」
「はい?」
「もーあんたじゃなくていい。役に立たねぇ奴に愛想ふりまくほど暇じゃねえ」
 八戒は知らず知らずのうちに微笑んだ。
 確かに悟浄には自分でなくてもいい。自分でなくても看守を良いように動かせる。
 刺青に聞かされた、悟浄が他の受刑者からしょっちゅう隔離される理由。三蔵の「他の連中が見てる前で殴れ」の意味。
 ここ数年で平均すると半年に一度、受刑者が脱獄に成功している。外に出てもすぐさま金が調達でき、刑法を振り切って生き延びる自信と覚悟があり、刑期や罪状に不当ありと悟浄に納得させられれば…それは相当の難関だが、突破できれば、悟浄が逃がしてくれる。必ず逃がしてくれる。
 それが受刑者の間の公然の秘密だった。
 食事の塩分で格子を錆びさせ叩き折る。金属片を集めて焼き直し手錠を外す。針金を自分の皮膚の下に埋め込んで持ち出す。一度成功させた後は次から次へと賛同者があらわれ、ありとあらゆる房に味方ができた。道具はどこからでも調達する。監視をつけようが拘束しようが、独房に放り込んで完全に隔離しない限り悟浄を止められない。何せ本人自身が逃げようとしたことは一度もないのだ。
 いつでも逃げられるのに、悟浄は自分でここにいる。悟浄が誰を逃がそうとしたのかは、実際に受刑者が消えてからでないと分からない。防ぎようがないのだ。
「あなたに怪我させられた担当さん、懲戒免職になりましたよ」
「男も免職だろーな。噛みちぎる手前でやめてやったけど、もう勃たねえなありゃ」
「後任が僕なんです」
「あ、そう。よかったな。ちぎられねえよう気をつけな」
 自分が思い通りに動かなかったのが面白くないのだろうが、だからこそ悟浄は自分を選んだはずだ。いいように使いたいだけなら、もっと頭の悪い奴のほうが都合がいい。気の毒にも下半身を血まみれにしたまま解雇されたあのバカのように。
 自分じゃなきゃ駄目だ。駄目なことがあるはずだ。
 この場所で、悟浄が、いくら英雄であっても味わえないことがある。
 最初は無視して、次に挑発して、悟浄が自分に構いたがったわけはそれだ。
 八戒は大きく息を吸って、吐いた。
「後悔しますよ」
「何が」
「あんたじゃなくていいってやつですよ。まだ途中でしょう、貴方の恋愛ごっこ」
 今日は正々堂々の夜勤だから時間はたっぷりある。扉に寄りかかって懐を探った途端、中からガンと蹴るか殴るかする音がした。
「なんです騒々しい。ちゃんといますよ、ここにずっと」
「何つった?俺の何だって?」
 やっぱり自覚がなかったのか。
「だから恋愛ごっこ。学校でもなんでも、共通の目的もなく人が寄り集まったようなところで暇つぶしにやることといったらイジメごっこか恋愛ごっこしかないでしょうが。貴方ぐらい頭がよければ分かるでしょう。恋愛で語弊があるなら禁断の友情ごっこでも共犯者ごっこでもなんでもいいですけど、要するに僕をおとしたいんでしょう」
 返事がないので、八戒は仕方なく喋り続けた。
「工場仲間に聞きましたけど、貴方随分人気者なんですね。子分も友達もいっぱいいて熱い友情はある、支配欲は満たされる、看守との攻防戦で退屈は紛れる、スリルもある、でも恋愛はできませんもんね。物足りないんでしょう。それともただの欲求不満ですか。あの可哀相な看守さんは、銜えさせてはくれたけど銜えちゃくれなかったでしょうし?」
「うるせぇよ」
 悟浄の声は恐ろしく低くてたまらなかった。
 やっと本気で怒らせた。この男を。自分がだ。
「俺の前で好き放題ぬかすな。しゃぶってほしいならそう言え不良看守」
「貴方が口寂しくてたまらないっていうなら考えますが、とりあえずそれで間に合わせてください」
 八戒は昼間に1本ぬいたハイライトとライターをまとめて窓からねじ込んだ。
「先日の脱走劇に敬意を表して進呈します」
 一本一本餌に使うつもりだったが気が変わった。そんなちまちました手は悟浄に似つかわしくない。
「貴方は人と関わりたくて関心持って欲しくてわざと滅茶苦茶なことして追っかけてきてもらって喜んで、好かれたと思ったら僕があの子に会わせてくれなかったんで怒ってるだけ。ただのガキですよ。損得勘定差し引いて好かれたいんですよ。人恋しいんです」
 言葉の途中で、煙草が勢いよく引き抜かれた。オイルとハイライトの強い香り。
「…だったら?」
 ひさしぶりの煙草のせいか会話の内容のせいか、悟浄の声音はとろんと溶けた。
「だったら、どうなの」
 廊下を突き当たった天井の角にあるカメラは壊れたままだ。
 
 ここは帝国。
 悟浄の。そして自分の。




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