セル act8
 …俺、キスしたの5年ぶり。



『あいつらは可哀相だ。あの鬼部長ですら可哀相で可哀相で仕方がない』
 八戒は鉛筆で一文字一文字丁重に書かれた文章を目で辿った。
 可哀相で、仕方がない。
「…これを悟浄が?」
 三蔵は相も変わらず眉間に皺を刻んだまま、丁重に銃を磨き続けている。
「書いたのは部下だが。まあそういったようなことを1024番が喋ったっつー記録だ」
 異動になったとはいえ「あの三蔵の部下」との認識はなかなか拭われず、八戒は管理課では何となく遠巻きにされ静かに無視し続けられている。結局のところ、本人達の好き嫌いは別にして、八戒にとってはただひとりの頼れる上司、三蔵にとっては自分に真正面からものが言える唯一の部下だ。
「誰に喋ったんです」
「面会に来た自称兄貴。面会の身元なんかわざわざ調べん」
「お兄さんなんかいたんですか」
「そのへんの犬だって兄ぐらいいる」
 法務省所属の国家公務員の最下層にいて、拘束時間が長い激務に軍隊並みの階級制度。上には絶対服従。看守の早死にが多いのも当然だ。出世してもせいぜい刑務所長、そのストレスが受刑者にぶつけられるのは理不尽だが仕方ない。あいつらは本当に可哀相だ。
 要約するとそういう事がくだけた口調で延々綴られていたが、八戒は途中でパタンと面会記録を閉じた。日付は2年前で、それが悟浄の最後の面会になっている。ペナルティで面会を禁じられたせいだ。
「何故これを僕に見せてくださったんです」
「これから話す」
 八戒が悟浄に会うために異動願を出し、悟浄に会うために独房に足繁く通っていることについて、三蔵は今までひとことも意見しなかった。
 当然非難されるものと、八戒は姿勢を正した。
「俺はそれを読んで、1024番を一日でも早く出所させようと思った」
 想像と真逆の台詞が出た。同情されて頭に来たから何が何でも出さないというなら話は分かるが。
「自分で自分が可哀相になったことがあるか八戒」
 手の中の銃は既に一点の曇りも埃もなく艶々と光り輝いていたが、三蔵は手を止めず視線もあげない。
 終業間近の室内はあっと言う間に暗くなり、八戒は立ち上がって明かりをつけた。
「俺はそれを読んでそうなった。本当に本気で、自分が心底可哀相になった。書記してた部下もしばらく情緒不安定になった。1024番は口が巧い。本気でも本気でなくても喋ったことはあっと言う間に周囲に伝染る。囚人どもが徒党を組んで看守に一斉に同情してみろ、大抵の奴は気が狂う。これ以上の屈辱はねぇからな。だから出そうと思った。模範囚にしたてて何とか出所を早めようと思った。だがあいつはトラブルを起こし続けて意地でも出ない。出る気がねえんだ。一生ここにいる気だ。一生ここにいて俺らに同情し続ける。殴られても平気で笑える。俺たちは可哀相なんだからな」
 何か言いたかったが、何を言ったらいいのか分からなかったので、話を聞いていることを示すために八戒は小さく頷いた。
 三蔵は常に何かに怒っていて、その怒りが彼を支えているんだと思っていた。事実そうだった。だが淡々と喋り続ける三蔵に怒りの影も見えない。怒れないのだ。怒れなかったのだ。
「あれはおまえにやるから好きにしろ」
 布のほうがすり切れるのではないかと思い出した頃、三蔵はようやく銃を懐にしまった。
「期待してる。おまえなら向こうに哀れまれる以上にあいつを見下してやれるだろう。だから異動願も受け付けてやったし担当にもしてやった。俺はあの紅いのを金輪際見たくねぇし関わりたくねぇ。目の端にでも入ったら即射ち殺す」
 三蔵は白黒をはっきりつけたがる分かりやすい男だ。だから悟浄が怖いのだ。得体が知れなくて気味が悪いのだ。
 分かってたまるか。悟浄のことなど三蔵にも悟空にも刺青にも、兄とやらにも分からせてたまるか。
 自分だけだ。悟浄に何かを与えてもらえるのも与えられるのも自分だけ。
「僕が悟…1024番に丸め込まれたら?」
 八戒は三蔵に珍しく薦められた革張りのソファーから立ち上がった。
「的はてめえだ」
「なるほど」
 悟浄は自分を哀れんでいるのだろうか。
 八戒はとっぷり日の暮れた廊下を舎監に向かって歩き出した。

 だったらどうなの
 そうですね。のりますよ

 それだけだ。昨晩八戒は迷わず鍵を開けて、ひさしぶりのニコチン摂取で何となくぼんやりしている悟浄の唇から煙草を抜き、軽く口づけてまた煙草を押し戻した。
「…びっくりした」
 自分の所業にじゃない。思い出しただけだ。
「俺、キスしたの5年ぶり」
 なんて台詞。
 抑えても抑えても沸き上がる優越感で、体が浮き上がりそうだ。
 初めてのキスには追いつかないにしても、忘れないはず。あの感じ。体中が神経剥き出しになるようなあの感じ。世界が一点に集中するあの感じ。
「…そうだ、俺、すっげ好きだった、これ」
 哀れまれようがバカにされようが全部口から出任せだろうがかまわない。同情でも人の体温が恋しいだけでも手を延ばしてくれるなら、いくら不幸を払ってもお釣りがくる。自分だって悟浄につけこんだ。人の気持ちを推し量りながら、うまい理屈も思い浮かばないまま近づいて掴んで引き寄せて抱き締める、あの感じに飢えに飢えてる悟浄につけこんだ。
 外が見渡せる渡り廊下から、高い塀の向こうに広がる高速と渋滞のブレーキランプが連なって動くのが見えた。その向こうには果てしなく続く街の灯りと沈んだばかりの太陽の残光。
 広い。こんなに広い。それでもあの男の底のほうがどれだけ遠いか。
 この先、新しいものを何ひとつ見られなくていい。
 どこにも行けなくていい。
 誰にも会えなくていい。
 彼ひとりで十分だ。

「僕、彼女いますから」
 悟浄は床にゴロンと寝っ転がっていて、ようやく顔だけこちらに向けた。
「…どういう反応を期待されてんの俺」
「彼女って誰、どんな奴、美人?可愛い?俺より?」
 当たり前だが少し痩せた。よっこいせ、と口に出して起きあがった悟浄の服の裾が、雑居房に居た時より多めに泳いでる。肌の色もぬけてますます髪と目が目立つ。体がどろどろに朽ちてもそこだけ残りそうな。
「いくら暇つぶしでも、遊びなら遊びで真面目にやりましょうよ」
「まだ俺、やるって言ってないけど」
 言いながらちゃんと扉のそばまで来てくれたので、八戒はプラスチック板を限界まで押し開けた。
「意地はらなくてもいいじゃないですか。気持ちよかったでしょう」
「よかったよ」
 真顔だ。
「またしたくないですか」
「したい」
 悟浄の指が窓枠に載った。長い指の第一関節だけがようやく外気に触れる扉の厚さ。八戒は右手の手袋を引き抜いて人指し指にそっと触れ、撫で上げた。悟浄が軽く、唇を噛んだ。遠い昔にこんな想いで触れた手があった。傍にいるだけで心臓が暴れたことがあった。だんだんと傍にいることに慣れて望みは高くなり贅沢になり、好かれても触れてもキスしても抱きあっても物足りなくなる。
「してよ」
 好きとか嫌いとか、そんな単純な執着じゃないように思う。ただ問答無用に声は好きだ。するっと入り込まれる快とも不快ともつかない甘ったるい声。
 鍵を外す自分の手つきも錠の重さももどかしい。
 扉がようやく軋んだ途端、中から凄い力で両腕を掴んで引っ張り込まれた。文字通りぶつかるようなキスと、浅ましいくらい勝手に這い回るお互いの手がお互いの髪に引っかかるその痛み。
 気持ちいい。
 …気持ちいい。とびそうだ。
「八戒、彼女って誰、どんな奴、美人?可愛い?俺より?」

 心臓が止まる。


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