セル act9
 籍が雑居房にある囚人の独房連続拘留期間は最長でも30日。
 …いくら何でもそろそろ出してやらないと。
 八戒は夜の8時きっかりに鳴り響いた目覚ましを、布団の中から手を延ばして止めた。闇の中で何度か瞬きをするうち、窓を叩く雨音と通常勤務から戻ってきた同僚たちの騒々しい声が次第にはっきり聞こえてくる。
「八戒さ〜ん、夜勤でしょう!?起きました!?」
 はい起きました。
「食事、下で食うんだったら急がないと定食品切れますよ!」
 はい急ぎます。
 返事したつもりだが、どうやら口には出していなかったらしい。
「八戒さんてば!」
「…起きましたってば」
 世の中にはなんてあの人以外の奴が多いんだ。
 八戒が何とか制服をひっかけて部屋の外に出てくるまで、後輩は廊下で待っていた。
「はい、今日の日誌」
 どうせあの人すぐ誰か殴るかどうするかして独房に戻ってくれるでしょうし、しばらくふたりきりになれないという障害もまた恋には必要ですしね。
 通常勤務と夜勤の間の申し送りは職場でやるのが決まりだが、刑務官のほとんどは寮住まいなので、こんなふうになし崩し的に済ませてしまうことが多い。目を擦りながら日誌をパラパラ繰る八戒を、後輩はまじまじと眺めた。最近の八戒は隙だらけだ。以前は絶対にやらかさなかったミスもちょこちょこやらかす。単に悟浄のことで頭がいっぱいで上の空なだけなのだが、何かの機械みたいに同じ顔で微笑ってばかりの八戒よりとっつきやすい。
「男に言うのも変ですが、八戒さん、なんか綺麗になりましたね」
「…あの人以外に言われても仕方ないんですよね…」
 日誌をパタンと閉じた途端、八戒はようやく失敗に気がついた。
 後輩はニヤニヤ笑って胸を突いた。
「ボタン。ずれてますよ」


 扉を挟んで外と内側とで凭れあって煙草を吸いながら何時間も喋って、顔を見るのは最後の最後。
「怖いね先生は。それも手なの?」
「見えないと見たくなるでしょう」
「そんな倦怠期夫婦のマンネリ打破作戦じゃあるまいしさ〜そういう焦らしはね、これからおとす相手にやるの。おとした相手にもったいぶってると、もういいわよ!でふられるぜ?」
 掌に握り続けた鍵の跡が食い込んでいる。
「…おちてないじゃないですか」
「え〜?おちてるおちてる。八戒おいでよ。キスしよ。キス」
 気が向いた時はこうやってしばらく騒いでくれるが、眠くなると八戒が居ようが居まいが勝手に返事をしなくなる。鍵を持ってるのはどっちなんだか。
 何度か呼んで反応がなくなっても、八戒は結局夜明けまでそこで座り込んで小さな窓から空の色が変わるのをぼんやり眺める。
「悟浄。綺麗ですよ、空」
 秋がくるのに背中が熱い。このまま貼り付いて剥がれなくなればいい。
 いつもいつも絶妙のタイミングで「先生」から「八戒」に切り替わるその瞬間、結局鍵を開けてさんざからかわれるその瞬間、焦らされて焦らされてようやっと背中に触れてくれるその瞬間、体いっぱいに詰まっていたものが中から押し出されて勢いよく噴き出すような快感で膝が崩れそうになる。
 そのままを以前悟浄に言ったら、やっぱり笑い飛ばされた。
「噴き出すって何が」
「何か分かりませんけど。こう…体って水でできてるんだなって感じがして」
「やらしいなあ先生」
「訳わかりませんよ」
「わかってる」
 これ以上近寄れないくらい、睫が触れるくらい近くで、悟浄は八戒の右目を覗きこむ。
「こっちの目って、今どこにあんの?」
 まさか義眼の原因じゃなく眼球の場所を聞かれるとは思わなかった。
「…さぁ。もう捨てちゃったんじゃないですか?」
「誰が」
「彼女にあげたんです。別れるときに寄こせってしつこいから」
 悟浄は義眼じゃないほうの目に舌を当てた。背筋からふっと上がってくる波を唇を噛んでやり過ごす。
「マジかよ」
「さぁ。忘れました」
 本当に忘れた。たいしたことじゃない。悟浄に会う前の事なんか全部たいしたことじゃない。
「八戒。おまえやっぱこえーわ」
「そうですか?」
「おまえみてーに人生諦めちゃった人間嫌いがうっかり本当に本当に本気で人を好きになっちゃったら半端ないね。この世の希望全部そいつに託すくらいの勢いで極端から極端に走ってこれ以上ないってくらいべったり好きになる」
「…そうですかね」
「好きで好きで好きで好きで逃がすぐらいなら殺すってくらいいくね。絶対」
 悟浄が耳元で喋りながら八戒のベルトを片手で外す。囚人服にベルトがついてる訳はないから、少なくとも5年はそんなことしたことがないくせに、その器用さ。
「…貴方はどうなんです」
「俺は何でも半端なのが好きだから」
 悟浄が受刑者じゃなくて、自分も看守じゃなくて、同じ地面に立って空の下で会っていたら。学校や職場で出会っていたら。
 きっと悟浄は今と同じだ。まったく同じによく笑って人なつっこく話しかけてくる。
 違うのは自分だ。きっと逃げる。
 好きになる前に、きっと逃げる。


 悟浄が1ヶ月ぶりに雑居房に戻った。
「もう夜中にふたりっきりになれねーな」
「貴方がその気になればすぐにでもなれますよ」
 ここまでくると流石に八戒にも見当がつく。本来の刑期に、独房に入るたびに加算される数字と、真面目に勤め上げるたびに差し引かれる数字を調整しているのだ。出所しなくて済むように。
「へー、ならなかったらどうすんの。また俺をぶん殴って1024番が暴言を吐きましたって言うわけ?」
「ならなかったらね」
 昼間に工場で悟浄がせっせと働く現場や、同僚たちの輪の真ん中で笑うのを見ても、前のように心臓がチリチリいうこともない。優越感が八戒に余裕を持たせ、言動はますます穏やかに柔らかくなった。管理課の連中もようやく警戒心をといて、八戒に普通に接するようになった、その時。
 廊下ですれ違った三蔵がいきなり八戒の腕を掴んだ。
「匂う」
「…何がです」
「ハイライト」
 一瞬返事に詰まった。
 あの煙草は残香が強い。独房に匂いが残らないよう注意を払ったつもりだが、自分の服にまで気が回らなかった。もっとも煙草の匂いだけで夜中のあれに三蔵が気付く訳がないのだが、不意を突かれて舌が縺れた。
「ええ、あの、たまにですけど」
「吸ってんのか?」
「駄目ですか?」
 三蔵はようやく腕を放すと、無言で八戒を保安課のほうに促した。嫌な予感はやましいことがあるからだ。深呼吸をひとつして執務室に入ると、三蔵は引き出しから半分捻れたソフトケースを放って寄越した。中に、2本だけ残ったハイライト。
「…これがなんです」
「2043番から没収した」
 2043番。…悟空。悟空?
「あいつは木工工場の調達係だった。煙草に関してはよほど目に余らなきゃ俺も見逃してる。外の連中が廃材に突っこんでくるのは止めようがねえし」
 三蔵は八戒の手から煙草を取り上げると、一本引き抜いて火をつけた。嗅ぎ慣れた香り。
「ぶん殴って吐かせたら、ハイライトは悟浄用、だってな」
「…だから何です」
「何だろうなあ。ハイライトってな、あんま人気ねえんだよ。味も香りもきついしうちの自販機に入れても全然減らねえしな。マイルドセブンスーパーライト、キャスターマイルド、マイルドセブンライト、マルボロ、ラーク、セブンスター、キャスター、マルボロメンソール、その次ぐらいか、いやその前にピーススーパー…」
「だから何なんです」
「別に。まずいなコレ」
 三蔵は灰皿に葉が飛び散るほどきつく吸い殻をねじ込んで、ふいと部屋を出ていった。
 悟浄。
 悟浄。
 悟浄。
 八戒がそっと吸い殻を摘み上げると、宙に浮かせた瞬間ぼろっと崩れた。
 貴方に本気になったとしても、貴方のためには何もしない。だって貴方は強いから。
 でも、もし三蔵が。いや他の誰であれ、貴方をこんなふうに傷つけたら許さない。自分以外の誰も。こんなのは、好きとかじゃない。

 悟浄に面会の申し入れがあったのは、その翌日だった。


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