セル act11
「…寝ちゃいました?」
 流石に辺りを憚って躊躇いがちだ。それでも返事しないでいると、八戒がわざとらしく溜息をつくのが、薄い布団を通してはっきり聞こえた。
「今日はただのサービス残業です。すぐ帰りますから起こす前に起きてもらえませんか」
 そういう奴だった。
「…誰へのサービスよ」
「貴方と国家」
 八戒は鉄格子の向こうで片膝をつき、悟浄に向かって小さく手招きした。それでも反応しないと見るや、丸まっている布団の端を握ると、一気に悟浄ごと格子の傍まで引き寄せた。けたたましい金属音が景気よく耳元で鳴り響く。
「みんな起きちまうだろうが!」
「構やしません。貴方また独房行きですよ。明日」
 悟浄はしばらく鉄格子を握ったまま、八戒の光の反射具合が微妙に違う目を交互に眺めた。明日?
「…忘れたんならもう一回覚えろ。俺がいつ独房に入るか決めるのは俺だ」
「今まではそうだったんでしょうけど今回は特例です。三蔵直々のご命令ですから」
 しまった。
 悟浄ははっきり舌打ちした。
 あいつ、やっぱ馬鹿じゃなかった。
「怒らせるようなこと言ったかやったかしたんじゃないでしょうね。そりゃ僕は貴方が独房に入ってくれりゃ嬉しいですけど、確かにいくらなんでも急すぎます。他の誰に何しようと貴方の勝手ですけど、命がけの洒落じゃ洒落にならないですよ。面談で何かあったんですか?」
「…覚えねーけど。なんも聞いてねえの?」
「あの人がそう簡単に口を割るわけないでしょ。部屋に戻るなり僕を呼んで、明日の夜独房に貴方を移せって。それだけです」
 嘘をついてるようには見えない。
 掌に嫌な汗が滲んだ。どうする。明日じゃ、もう迷ってる暇もない。
 独房と、雑居房。
 こいつと、……。

 こいつ。

 大きく息を吸って吐き出す数秒の間に、悟浄はあっさり結論を出した。
 何かを心に決める人間に向かって「よく考えろ」というアドバイスは状況によっては間違ってる。答えなんか見るものでも聞くものでも探すものでもないのに。中にあるのに。
「八戒」
 珍しく一発目に名前で呼ばれた八戒は、何度か瞬きした。
「明後日になんねえかなそれ。何とかできねえ?」
「何故です」
「明後日の昼飯が炒飯だから」
 悟浄の後ろで誰かがぷっと噴きだした。
「…炒飯が好きなんですか?」
「…わりと」
「屑野菜整理に週イチで出るあれが?ここの不人気メニューベスト3に毎年ランクインしますよ」
「…俺の好みはマイナーだから」
 八戒はしばらく黙ってベルトに挟んだ手錠の鎖を弄んでいた。
「確かに独房では食事は朝晩二回ですけどね。…炒飯ねぇ」
 騙されてやるべきか、突っぱねてしばらく遊ぼうか迷っているだけだとは思うが、悟空の時は本当に突っぱねられて終わりだったから油断できない。悟浄が鉄格子に額をくっつけんばかりに乗り出すと、八戒は視線を落としたまま独り言のように呟いた。
「まあ…何とかしようと思えばできますが」
「が?」
「明日ならお迎えにあがれるんですけど、明後日は夜勤じゃないんですよ。送迎は他の方にお願いすることになるんで、それがちょっと」
 だから明後日っつってんじゃねえか馬鹿。おまえのためなんだよ、この俺の訳の分かんねぇ苦労は。
「八戒」
 八戒が顔を上げないので、悟浄はふっと息で八戒の前髪を揺らした。
「俺のこと嫌いだろ」
「は?」
「俺に炒飯も食わせたくないぐらい気にくわねえんだ、そうなんだ!」
 悟浄の声がいきなり大きくなった。あちこちで房の連中が聞き耳たててるはずだ。
「…何です悟浄、いきなり」
「俺が殴られて殴り返さなかった看守なんかあんただけなのに。あんたひとりなのに。俺はあんたに何ひとつ乱暴もしてねえし、暴言も吐いてねえし、迷惑もかけてねえのに。な?な?だな!?」
「そうでしたっけ」
「だから明後日、俺に炒飯食わせろっつんだ。いいじゃねえかそれぐらいしてくれたって!独房に入るのが一日遅れたって出るのも一日遅れるだけの話だろ!?なあ先生!!!」
 どうやら、うんと言うか殴るまで黙らない気だ。
 八戒がひさしぶりに警棒を抜くと、たちまち悟浄はふつっと黙った。
「…分かりました。一日延ばせばいいんですね」
 八戒は膝の埃をはらって立ち上がった。
「高くつきますよ」
 足音が遠ざかり、八戒が間違いなく房から出たのを確かめると、あちこちでタヌキ寝入りの同僚たちが起きあがった。
「何だよ悟浄、また独房?」
「先生まだ悟浄殴ったりすんのか?」
 悟浄はしばらく冷たい格子に熱い額を押しつけたまま、先刻まで八戒がいた床を眺めていたが、やがて刑務所歴も懲役も年齢も一番上の同僚に向き直り、姿勢を正した。第七房では父親のような存在で、物腰が柔らかく面倒見がいい。その彼が、今は笑顔もなしにボリボリ頭を掻いている。
「おやっさん。頼みがあんだけど」
「だろうね。発声練習したくて喚いてた訳じゃないだろうしね」
「…怒った?」
「いんや。強いて言えば何もそんな効率の悪いことしなくてもと思うけど。理屈じゃないからね、気持ちって」

 俺は幸せだ。

 初めてそれに思い当たって、悟浄は自分に驚いた。
 毎日楽しくはあったが、幸せとかそんな大げさなものじゃないと思ってた。妙な冗談みたいだ、生まれて初めてこんなことを思ったのが刑務所の中だなんて。
 昔から無性に人が好きだった。友人も家族もみんな好きだった。たまに気に食わない奴がいても、見てるとどこか愛嬌があった。
 あの男が現れるまでは知らなかった。この世に生きる価値もないと思えるほど酷い人間がいるなんて。
 表向きは悟浄が殺したことになっている母親の何人目かの愛人を、実際にマンションの踊り場から突き落としたのは母親だ。同じことだ。どうせ母親がやらなきゃ自分がやってた。それでも彼女は悟浄が自分を恨んでると信じこみ、息子の出所を酷く酷く怖がった。
 じゃあずっとここにいるよ。
 ここで生きてここで死ぬ。
 自分の存在が誰かの負担になる苦痛に比べたら、多少不自由なだけの暮らし、何でもない。みんな俺が好きで、俺もみんなが好きで、変わり者の看守が本気で俺に惚れてくれて、人の体温やら匂いやら思い出させてくれて、探しても探しても不満なんかどこにもない。
 八戒。
 俺、おまえが本気で嫌がるような事してねえよな。最初会ったときから、何ひとつしてねえよな。本当にして欲しいことはしてやれなかったかもしれないけど、でも少なくとも、苦しめてはいないよな。
 だから、いいよな。



 翌日、八戒は三蔵の出社前に保安課に出向き、丁重にコーヒーを淹れた。三蔵に直接言葉で誉められたことはないが、保安課時代に自分の淹れたものが一番お気に入りであることは見ていれば分かった。
 案の定、いきなりの八戒のもてなしに面食らいながらも、三蔵は窓際で3杯立て続けにおかわりしてくれた。穏やかな顔になったのを見計らって、八戒はさり気なく切り出した。
「ときに悟浄の独房行きなんですけど、明後日にずらしてもいいですよね」
「駄目だ。急げ」
 にべもない。予想どおりの反応だったので、八戒はとりあえず怪訝そうに首を捻っておいた。
「どうしてです?」
「おまえこそ何だ。赤いのに喋ったんじゃねえだろうな」
「まさか。工場担当が、悟浄がすぐさま独房にUターンするとは思わず新しい工程のリーダー任せてたらしくて、1日余裕があればスムーズに引き継げるっていうもんですから。貴方が工場なんかどうでもいいって仰るなら別ですけど、大変ですよ。説明しますと、あそこは流れ作業になってまして悟浄の担当してる工程をAとしてそこから」
 三蔵は手を振ってうちきった。
「されても分からん。1日で支障なく動く話なのか?」
「だ、そうです」
 服が汚れるという理由で工場内には立ち入らない三蔵は、工場担当とも滅多に顔を合わさない。この場に担当を呼び出されたらすぐばれる嘘だが、そこまではしないはずだ。
 三蔵は4杯目のコーヒーを注ぎながら、視線をふと宙に浮かせた。
「…明後日だと、送迎は誰がやる」
「夜勤のどなたかに」
「じゃあしょうがねえか。手練れに任せろよ」
 八戒はふっと肩から力を抜いた。雑居房のほぼ全員が耳にしたであろう約束は果たした訳だ。後は楽しんでればいい。

 さて。
 何を企んでるんでしょうね悟浄は。
 八戒は癖になりつつある朝の煙草の煙を、深く深く肺まで吸い込んだ。
 

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