電気 act10
聞こえるよ。
聞きたくないことは聞かなかったことにして逃げる癖は天蓬や金蝉の十八番だが、捲簾はそんなことはしない。この数ヶ月捲簾を近くで見ていて、それがよく分かった。
彼は人の話をちゃんと聞く。聞いて、即座に答える。
まるで思ったことをそのまま言ってるみたいに。
「…驚かないんですね」
自分で自分の言ったことに驚いているのは天蓬だ。
「驚いて欲しいなら嫌いだって言え」
捲簾は、この時はまだ普通だった。声も顔も普通だった。
新しい煙草に火をつけて、ゆっくりと煙を吐きながら天蓬がソファーに座り直すのを待っていた。
「前に言ったよな。金蝉が悟空を好きなのは、あいつが手のかかるガキだからだって。そんなもんは恋愛感情とはまったく別モンだ。身内の情だ」
「…ええ」
「おまえの好きはそれだろ」
「…かもしれませんが」
「じゃあ今言うな。紛らわしい」
「……かもしれませんが」
ダメだ。話そうとすればするほど混乱する。
金蝉が好きだ。後ろ暗い欲望も当然抱く。だからといって無理強いしようとは思わない。金蝉が何か自分に隠している面があったとして、彼の意志を無視してまでそれを暴こうとは思わない。もし。もし本当に自分がいない方が金蝉が幸せになれるとしたら、喜んでいなくなる。
でも捲簾には嫌だ。離れたくない。
「かもしれませんが、違うかもしれませんってか?」
「…だから混乱してるって言ったじゃないですか」
「俺のことを、そーゆー意味で好きかもしれないって、そういうこと?」
「…そういうこと…なんですかね」
彼は周囲に誰がいようがどこにいようが関係なく「捲簾」のままでいられる。だから彼の幸福など祈ってやる義理もない。
ただ、知りたい。
一瞬でも勝ちたい。
彼の本音の一端にでも触れたい。
そのために、のべつまくなしそばにいたい。
金蝉に抱く穏やかで優しい感情じゃなくて、もっと自分本位で淀んでいて、不愉快で痛くて激しくて、しかも性質の悪いことに自分を食い尽くそうとしている。それでも、そんな気持ちでも素直に言葉にしたら「好き」になる。
金蝉より捲簾が好きになったんだろうか。
いや、全然違う。ふたりへの気持ちは全然違う。
「天蓬」
捲簾の声の調子が変わったのはその時だった。今から思えばだが。
「俺とヤりたい?」
一瞬頭の中が真っ白になった。そういう対象として捲簾を見たことがなかったとは言わないが、あまりにも近くにいすぎて、考えかけるたびにうち消していた。でないと歯止めがなくなりそうで。
「…考えたことがな」
「考えろ」
言ってる途中で遮るのもらしくなかったが、それより捲簾が自分の指先から流れる紫煙を目で追うばかりで、ちらともこっちを見ないのも、こういう話題なのにからかう調子でもないのもらしくなかった。天蓬が黙り込むと、捲簾は吸いかけの煙草を右手の指に挟んだまま、左手で天蓬の腕を掴んだ。
まったく容赦のない力。相手は片手一本なのに、あまりに唐突で抗う暇も状況を判断する暇も何もなかった。
「…捲」
条件反射であげかけた声ごと呑みこまれる。捲簾の長い指が髪に潜り込む。目を見開いたまま硬直した天蓬の、歯列の奥までいいように嬲って噛みつくように舌が絡んだ。
足下から背骨を走って突き抜けた痛いほどの電流。
捲簾の。
空気を媒介にするのがもどかしくて遠くて遠くて諦めていた捲簾の、体温と匂いとが血管に直接流れ込んで、心臓が悲鳴をあげた。
息ができない。
呼吸にまわす神経も惜しいのか、口の中の感覚以外は全部死んだ。夢中で捲簾の舌を吸い返したと思う。何も考えていなかった。理屈も抜きにキスだけだった。それがあまりにも乱暴で雑で一片の優しさもないことに唇が離れるまで気がつかないほど。いきなり支えを失って、床にペタンと座り込んだほど。
「返事は?」
荒い息で視界が滲む。
返事。なんの返事だっけ。…ああ、捲簾とやりたいかどうか。
「……りた、い」
近づきたい。
「へー…金蝉ともヤりたいけど俺ともヤりたいってか」
天蓬はぼんやりと視線を上げた。
「節操ねえな」
捲簾の口元にうっすら昇った笑い。普段は子供のように無邪気に笑う男が初めてみせた、その微笑。
「俺、降りるわ。なんかバカバカしくなってきた」
今にも崩れそうになっていた灰を危ういところで灰皿に落とすと、捲簾は小さくあくびを噛み殺した。
「純情一途ですげえと思ったけど、別の意味ですげえわ、おまえ。騙された」
靴音が、天蓬の脇をすり抜ける。
「まぁ仕事は別だ。明日一日ゆっくり休んで体調整えろ。言ったとおり、総指揮はおまえに執らせるからな。…どうせ次は金蝉に泣きつくんだろーが」
最後の捨てぜりふは扉が閉まると同時だった。
部屋がゆっくり暗くなっていく。
震えが止まらない指先を、床から這い上がって体を冷やしていく冷気を、だんだん傾いていく太陽を、天蓬は床に座り込んだまま全部見ていた。見ていたが、意味が分からなかった。
あの人が出ていって、何時間もたったのか、数秒しかたっていないのかも。
あの人が現れる前は、自分を取り巻く何もかもが空気のように手応えがなかったが、自分を傷つけはしなかった。いつの間にこんな。
「………」
思い浮かべることさえ、呟くことさえ頭が拒否している。あの人の名前。
「聞こえねーのか?」
不意にすぐそばで舌打ち混じりの声がした。
ノックの音は聞こえたが、どうすればいいのか分からなかった。
「…金蝉」
「真っ暗な部屋で床にへたり込むような不気味な真似はやめろ、心臓に悪い。灯りつけるぞ」
「だっ……」
天蓬の声は乾いた喉にひっかかったが、スイッチに手を延ばそうとした金蝉を止めるのには成功した。今、顔をまともに見られたくない。
金蝉は大きく溜息をつくと、ソファーにどかっと腰を下ろした。
「で?」
「…え?」
「え?じゃねえよ。いつまでそーやってる気だ、うざってえ」
「…貴方、なんでここにいるんです」
面白いくらい声が掠れている。
「なんでって、あいつが行けって言うから」
「…あいつ?」
宙に浮いたような天蓬の態度に盛大に舌打ちして、金蝉は身を乗り出した。
「捲・簾・大・将!凄い勢いで俺の部屋に突っ込んできて、頼むからすぐ天蓬の部屋に行ってくれとか訳の分からんこと喚くから来てやったんだろうが、こうして!何があったか知らねえが痴話喧嘩に俺を巻き込むな!」
そんなんじゃないと言い返す気力もなかったが、固まりかけていた脳がようやく動きだした。
「…頼むから…って言ったんですか、あの人」
「頭下げたな」
「…そうですか。分かんない人ですね」
「どこが分かんねえんだ?」
急に堰をきったように涙がこぼれた。あの人の言ったとおり。
「金蝉。僕は…貴方が好きでした」
金蝉はしばらく黙って金髪を弄んでいたが、やがて吐きだした息のついでのように呟いた。
「そうだな。そうだったな」
「…今は、僕らは…友人ですか」
「もういいっていうほど長い付き合いのな。今更、遠慮のしがいもねえくらいの友人だな」
ありがとうございます、と唇は動いたが、声は出せなかった。きっと声にならない。
捲簾。
どんなに軽蔑されても、この先どんな言葉を投げられても、もうダメだ。
例えひとつもいい想いができなくても、毎日毎日辛いだけでも、もうダメだ。
貴方から心が離れない。
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