電気 act5
「…何ですって?」
「聞こえたんだろ」
捲簾の手を振りほどく前に、いきなり手近の空き部屋に放り込まれた。
「なんなんですか!!」
「頭冷やせ」
捲簾は後ろ手で引いたドアを背中でドンと閉め、小さく舌打ちした。
「…だからやめとけっつったんだ」
部屋を出る前から、自分は「サカった犬」のような顔をしてたんだろうか。捲簾に揺さぶられるうちに妙に気持ちが逸ったのは覚えてる。早く金蝉と何とかならないと戻れない気がして。
…戻れない?
「ふられただろ」
捲簾が差し出した煙草を、天蓬はしばらく睨んだあと結局素直に受け取った。中途半端で放り出された気持ちが淀んで身体の中でグツグツ沸騰している真っ最中の自分には確かに必要なものだった。
「そんな取って食いそうな態度で迫られたら好きな相手でも逃げ腰になるっつの」
「…好きな相手じゃなかったらなおさらですね。金蝉は悟空のことで頭がいっぱいだそうですよ」
少し埃っぽい空き部屋は射し込む西日で眩むような異常な赤で、強烈に目を犯すその色彩がなかなか興奮を沈めてくれない。
生まれて初めてだ。
体の中から塊がせり上がる感じ。肉が勝手に骨を動かすような感じ。その何だか分からない衝動が考えるより先に自分を突き飛ばした。
「おまえ、バカだろ」
「…捲簾、例え本当のことでも僕が余計苛立つようなこと言わないでください。何かこう…誰でもいいから殴り倒したい気分なんです」
「後でいくらでもなぐられてやるから聞け!」
自分で怒鳴っておきながら、天蓬が黙ると居心地悪そうに逡巡した挙げ句、早口でまくしたてた。
「あんな遊び盛り暴れ盛りのぎゃーぎゃーうるさいガキが毎日毎日そばでウロチョロしてしててみろ、俺だって猿のことで頭いっぱいになるわ。だろ?」
「…そりゃ…そうかもしれませんけど」
「ガキ大将が何しでかすかドキドキハラハラで、毎日俺のことで頭いっぱいなおまえと一緒だ。そういうのは恋愛感情とはまったく別モンだ。一度迫ってひかれたからなかったことにすんのか。もう終われるのか?本当にいいのか?」
天蓬は怒るのも言い返すのも忘れて捲簾を眺めた。
なんだってこの人は、たった今、思い人から手を振り払われた自分より辛そうに話すんだろう。何の関係もないのに。
手の中でクルクルと巻き煙草を回し続ける捲簾の口調に少しでも軽蔑や憐憫の響きがあったら、返す弾などいくらでもあった。
そもそも新参の捲簾に分かるはずがない。
自分がどれほど長い間金蝉を思っていたか。
生き生きした顔がひとつひとつ増えることがどれほど嬉しいか。
振り払われた手がどんなに痛いか。
今度同じ目にあったら、笑ってあの人に会える自信がない。
「…諦めるなって言ってるように聞こえますけど」
……励まされてるように、聞こえるけど。
「別にんなこと言ってねえよ。てめえのことだろ、好きにすりゃいい。ただ諦めんなら、いつまでもんな顔してんじゃねえっての」
「…と言われましても自分では」
「女でも抱きゃ収まんだけどな。俺にも覚えあるから。今のおめえさんみたいな状態」
「状態…」
「体の状態」
かっと頬に血が昇った。
「どっか行ってヌいてくれば?」
「…じゃあ、ここから出してくださいよ。それとも貴方が金蝉の代わりでもしてくれるんですか」
言った端から手繰り寄せて呑み込みたかったが、捲簾は捲簾でほんの一瞬ではあったがさっと狼狽の色が走った。
「…悪い」
「…貴方は悪くないです。止めていただけて、ホント言うと助かっ…」
無理に微笑った声が途中で歪んだ。
まさか。
…まさか。
確かめる前に、捲簾の指が目尻を乱暴に、痕跡も残さず拭ってしまった。
「…ほんとに好きだったんです」
「うん」
「あの人、悟空が来る前は死にそうに無愛想で偏屈で、それでも我慢してあの人の話し相手になるのは僕ぐらいだった」
「うん」
閉まった扉にほとんど額を押しつけるように話す天蓬に、頑なに窓の外に眼をやったまま気のない返事を寄越す。
「金蝉、綺麗でしょう?」
「見た目はな」
「あなたも絶対好きになりますよ。中身は脆くて危うくて綺麗で真っ直ぐで、貴方とは正反対です」
「おめー、それノロケ」
捲簾の手の平がポンと肩を叩いた。金蝉とまったく違う熱い熱い手と深い声。
「次の手考えよーぜ。言ったろ?諦め悪い奴、俺、結構好き」
今まで誰も天蓬の中まで入ってこなかった。
昔から人気はあったが友達はいない。大方の人間は自分と同じぐらい不完全で補い合う必要性から相手を選ぶのだ。勿論天蓬は完全ではないし完全だとも思っていなかったが、次々に先が読めてしまう手近の人付き合いより、歴史が育んだ人智の結晶(要するに本だ)と向き合う方がプラスになる、数少ない秀才だったから。
捲簾のことが、好きになりかけてる。
金蝉とはまったく別の、もっともっと雑で楽な感情で。
「…次の手ですか」
捲簾はようやく体をずらして、扉を開けてくれた。
「おめえは遠征の布陣でも組んでろよ。こっちは俺が考えてやっから。得意分野は分担して効率よく、な」
「…貴方に任せると何やらかすか」
眉を顰めた天蓬に、捲簾はニヤリと笑った。
「俺に惚れろ」
「またですか」
「惚れたふりでいいんだよ。いいか、ほとぼりが醒めたら金蝉のとこ行ってこう言え。この間はすみませんでした、もう貴方のことは諦めましたから、これからも今まで通りいい友人でいてください」
「嘘じゃないですか」
「嘘でいい。したら金蝉はほっとすると同時に拍子抜けする訳よ。今まで自分を好き好き言ってた奴にあっさり身をひかれると、それはそれで寂しいのが人情でな」
「……そんなもんですか?」
「で、少なくとも1,2ヶ月は絶対金蝉の部屋には行くな」
「え!?」
ドンと背中を叩かれた。
「え!?じゃねえ、我慢しろ!駆け引きの基本中の基本だ、絶対行くな。ここで我慢できなきゃ元の木阿弥だぞ、いいのかよ」
よもや軍大将と副官の両巨頭が肩を並べて真剣に恋愛談義をしているとは思わないらしく、すれ違う部下たちは妙に神妙な顔で頭を下げていく。
「そうこうする間に俺とおまえの仲は仕事を通して親密になっていく訳だが」
「勝手に決めないで下さいよ」
「うるせえな。なっていく訳だよ。その間、俺が悟空を手なづけとく。これで勝ちだ。金蝉の方から、おまえのとこに来る。必ず」
金蝉が、自分に会いに来る。
「そこで押し倒したいのを我慢して、も少し焦らす。嬉しそうな顔すんな。さも意外そうに、どうしたんですか?とか何とか聞き返してつれなく追い返せ。その時には西方軍の大将と副官は息もバッチリ一心同体の最強コンビだという噂が乱れ飛んでるから金蝉は気が気じゃない訳だ、悟空もおまえも俺にとられて」
「…誰が乱れ飛ばすんですか」
「いちいちうるせえな、俺だ俺。オーソドックスな手だがあの坊ちゃんなら確実にころっといく」
天蓬の部屋の前で、捲簾はくるりと振り返った。
「やる?」
天蓬は少し躊躇った。
「貴方、何で協力してくれるんですか、こんなことに」
「おもしれーじゃん」
捲簾は、またにっこり笑った。こういう子供のような笑い方ができる男もそういない。
「何度も言うけど、俺、おめえさんのこと気に入ってんのよ。好きな奴が幸せになるのはいいことだ」
捲簾がひょいっと上げた手のひらに、天蓬は苦笑して手のひらを合わせた。
パチン。