千年の居留守
act1
支離滅裂に聞こえるかもしれない。
多分聞こえるだろう。三蔵も悟空も、八戒もそう言った。でもそれは俺が支離滅裂な目にあったということであって、俺が支離滅裂な訳じゃない。
信じてもらおうとは思わないけど。
そう思うまでに随分の時間を費やしたけど。
俺は自分の家にいた。
で、目の前には3人の男。
俺は3人に凝視されて、夢なら早く覚めてくれと頭の中で何十回も唱えていた。だが一向に世界は暗転も好転もしないまま、代わりに三蔵が「…もう一回言ってみろ」と呟いた。
従って俺は、一番右にいる男を指して、もう一回言った。
「こいつ、誰」
三蔵と悟空の顔に、今度こそはっきりと恐怖と憐れみの色が浮かんだ。いやこいつの名前が八戒なのは知ってる。ていうか、ついさっき知った。自分でそう名乗ったからだ。だから俺がこいつに会ったのはついさっきだ。俺が昼過ぎに起きて居間で煙草吸ってたらこいつが買い物袋を抱えて扉をあけて、そうまるで自分の家のようにだ、「ただいま。やっと起きたんですか悟浄」と、そう言ったのだ。
やっと起きたんですか悟浄。
「誰、あんた」
俺はそう言った。
普通だ。俺じゃなくてもそう言う。母親が死んで兄貴が飛び出した10歳かそこらの頃から今の今までひとりで生きてきて、まかり間違っても他人が、男が、自分の家にただいまと言って帰ってくるような、そんな生活スタイルを確立した覚えはまるでない。八戒は(その時は名前も知らなかったが)ちょっと驚いたように眼を丸くして「何、寝惚けてんです」と微笑った。わ〜綺麗な男だなとは思ったが、そう思ったということは初対面だ。前に会ってたら絶対覚えてる。
八戒は荷物を取り落とした。
俺は新たに煙草に火をつけて、八戒を頭のてっぺんから足の先まで眺めた。
「…まずは落ち着きましょう」
おまえが落ち着け。俺はまったくもって冷静だ。
「僕が分からないんですか?」
「あんたは誰かって聞いたんだけど」
八戒は俺を、どこかで頭を打って記憶喪失になったと断定した。断定しながらもそれを必死で自分に言い聞かせているようで、その様子はとても俺をからかっているようには見えなかったが、残念ながら俺には昨日ベッドに入るまでの記憶が鮮明にある。酔ってはいたが一秒も途切れていない。
昨日まで、俺は一人暮らしだった。
昨日までだ。
いや今もだ。
八戒とやらが特に腕っぷしが強そうでも性質が悪そうでもなかったので、俺はのんびりあくびした。
妙な日だな。
「…あのさ〜もう人をからかうのもいい加減にしようぜ。つまりあんた、何。押し掛け女房かなんか?」
「だから貴方の同居人だって言ってるじゃないですか!」
「今日から?」
「前から!」
「ドッキリにしてもちょっと無理あるな〜。記憶喪失にしたいんなら食器ふたりぶんとか揃えとけよ」
八戒が食器棚をバンと開けた。
「ふたりぶんあるでしょう?」
確かに見覚えのないマグカップや茶碗が増えていた。
「…手がこんでんな。でもほら、ペアのもんとかないじゃん」
「貴方がペアは嫌いだっていうからバラなんじゃないですか」
俺はまだ事態の重大さが分かっていなかった。
こいつがどこまで頑張るかとちょっと面白くもなっていた。
「あ、もしかして歯ブラシとかも二本あるわけ?」
「ありますよ、ほら」
「ほーらボロが出た。俺のは使い古しでおまえのは新品。おかしーじゃん、普通一緒に新調するっしょ?こっちのは今朝いれたと」
「それは貴方が交換しろっていうのにこれがいいっていうから」
「ほ〜そうきたか。じゃあ部屋とかどうなって…」
その時、八戒が凄い力で俺を掴んだ。
「…悟浄。本気ですか」
この時点でも、俺はまだ少し不安になっただけだった。ただし、こいつは頭のねじが飛んでいて真剣に俺とずっと住んでたと信じ込んでいるのかもしれない、という不安だ。
こういう場合、警察か?病院か?
電話が鳴った。
八戒がそちらに行きかけたが、押し退けた。当たり前だ、俺んちの電話なんだから。特にこれといって抗議もなかったので、俺は受話器を取り上げた。
三蔵だ。
助かった。警察でも病院でもない、こういう時は坊主だ。八戒が病気にしろただのタチの悪いストーカーにしろ坊主が一番角が立たない。
「あのよ〜三蔵。今…」
次のひと言で俺の理性は崩壊した。
「珍しいな、おまえが出るなんて」
どうなってんだ。
どうなってんだ。
どうなってんだ。
昨日も一昨日もその前もその前も何年もおれんちの電話には俺が出てたろうが。
八戒が俺の手から受話器をひったくり、すぐに家にきてくれと早口でまくしたてる間、俺の頭の中はそこから一歩も動かなかった。
「…悟浄。とりあえず三蔵に相談しましょう」
何を。
おい、そもそもここは俺んちか?
「今日、何日」
「え?」
「今日、何月何日」
寝てる間に時空を飛んだかと思ったのだ。今思えば無茶苦茶な発想だが、俺が正しくてこいつも正しいとしたらそれしか考えようがない。
「…11月21日。金曜日です」
今日だ。
三蔵と悟空は八戒から事の次第を…あくまで八戒にとっての事の次第だが、聞き終わると、俺の事の次第を聞く前にまたもや有無を言わさず断定した。
「記憶喪失だ」
だ。
じゃねえ。
「違うっつに!昨日だって起きて木曜の新聞読んで、毎週木曜連載のコラムも読んでだな、鍵かけて賭場いって帰ってきてまた鍵あけて寝たんだ、てめえらこそこいつとグルか!?」
「特定の人物のことだけ忘れるっていうタイプもあるらしいぞ」
八戒が不本意そうに眉を顰めた。
「何でよりによって僕を」
「タイプってなんだタイプって!おまえら何度もひとんちメシ食いにきたじゃん。3人でスキヤキ食ったろ?こいつ、いたか?3人だったろうが!」
「…いたよ、八戒。いないわけないじゃん」
悟空は気味悪そうだ。何で俺が猿にそんな眼で見られなきゃいかん。
「3人だった!間違いねえ、3人だ!俺が豆腐も白菜も切ってだしとってこのクソ坊主が昆布じゃねえとやだとかぬかして、ほらこないだ俺の誕生日にもおまえら来たろ?ケーキ食ったじゃん、ちっこいホールのやつ!そんときどうやってみっつに切ろう、よっつだったら簡単だったのにって話したろ!」
悟空と三蔵は不意に視線を泳がせた。
「…あれ?…そーだったよね」
「それは、僕がいらないって言ったからです」
八戒が口を挟んだ。盗人猛々しいとはこのことだ。
「てめえいい加減にしろ!いっつも机のここと、ここと、ここに座ってたんだよ3人で!」
三蔵がふと俺を目で遮った。
八戒がふっと席を立って居間を出ていった。
「…悟浄、おまえがふざけてねえことは分かった。だからおまえも分かれ」
あいつが真剣だとしたら、俺は無茶苦茶あいつを傷つけた。
でもどうしろっつの。俺は記憶喪失でも時空を飛び越えたんでもなんでもなく、あいつを知らない。その証拠にあいつの年も血液型も誕生日も、なんで片目が義眼で、なんで一緒に住んでるかも知らない。
「ああ、簡単じゃねえか。俺らが何で知り合いだか思い出せ」
三蔵は悟空を八戒のところへ走らせると、まさに光明が見えたといわんばかりに身を乗り出した。
「…俺と三蔵?」
「そう。覚えてんだろ」
「俺が拾った大量殺人犯を、おまえと猿が探しにきたんじゃん」
三蔵は妙な目で俺を見た。今にも告白でもしてきそうな意味深な沈黙だ。早い話が気持ち悪い。
「…その大量殺人犯が八戒だ」
「ははは」
笑うぜ、おい。何を言ってんだこいつは。
あいつは死んだ。俺の目の前で。
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