千年の居留守
act10
知ってて行かせたんですね。
僕は悟浄にちゃんと、全部話すつもりだったのに、何故ですか。
いつって…いつかですよ。話す時期がきたら。
…まだ早すぎます。
俺は本当に怒ったことがあるだろうか。
悲しみや後悔の入り込む余地のない完璧な怒りに遭遇した事があるだろうか。
悟能が振り向いた。
見てる途中で夢だと気がついた。
途中何度も扉が開く音で目を覚まし、そのたび誰かが覗き込んでいて、それは三蔵だったり悟空だったり八戒だったりした。話す気力もなくて目を閉じるのだが、きちんとすぐ続きが始まった。
悟能。
一度も名前では呼べなかった。
あいつは、俺の帰り道を御丁重に塞いでぶっ倒れていた。あいつの体は重くて冷たくて途中で何度も放り出そうと思ったが、何というか、あの時の俺は機嫌が悪かったのだ。機嫌が悪すぎて何も考えたくなかった。体使ってりゃ気がまぎれる。そもそも、さてこいつをどうしたものかなどと考えてる余裕もないほど緊急に死にかけていたのだ。
「ありがとうございました」
目を覚ましたあいつは、そう言った。
「…いえいえ」
ほんとにいえいえだ。
余計な事したとすぐに分かった。まるで手応えのない男だった。いつも微笑ってた。
ああ、死にに行くな。
こいつ死にたいんだ。
もう全部どうでもいいんだ。
俺にはここまで完璧に達観し開き直った奴と向かい合った経験がなかったので、まあ普通ないと思うが、何を言ったらよいか分からず、よって何も言わなかった。あいつはあいつで何ひとつ主張せず何ひとつ文句も言わず、メシを食えと言ったら素直に食ったし、寝ろと言ったら大人しく寝た。
不思議だ。
不思議としか言いようがない。
自分の家に恋人でも家族でも友達でも知り合いでもない奴がいて、しかもそいつは何週間後かにはこの世にいない。なのに俺はそいつの包帯を毎日換える。そういう状況。
不思議ではあるが無意味でもあり、かつ静かだった。
ひとりで暮らしてた時よりも、静かな1ヶ月だった。
俺が話しかけて、あいつが返事をし、笑いあっても静かだった。
掻き回しても結局何も起こらない水槽の水のように、静かに静かに一緒にいた。
もう半分彼岸へ行っちゃってるらしいあいつに対して俺には特に何の感慨もなかったが、ただこの不思議な感じを忘れないと思った。きっと一生忘れないだろう。俺の機嫌が適度に悪い雨の夜に、ちょうど俺が担げる程度の体格で死にかけてる奴が、わざわざ跨がないと家に帰れない位置に倒れてない限り。
「優しいって言われませんか」
あいつはカードがやたら強かった。
「女にはよく言われる。ベッドで」
山から一枚引き抜く手つきがよかった。
「そういう意味じゃなくて」
シャッフルする時の指がよかった。
「言われない」
カードを一瞥する時の目の動きがよかった。
「言わなくても、きっと思ってますよ」
伏せるときの手首がよかった。
「買いかぶられるのすっげー嫌い」
だからポーカーばっかしてた。
「僕もです」
その声の調子にはっとした。
あいつは俺の淹れたコーヒーをゆっくりと啜り、俺を見て微笑った。
「美味しいですねぇ、貴方のコーヒー」
間もなく傷は治って、あいつは出ていった。
また凄いタイミングで三蔵と悟空がやってきたのですったもんだはあったが、とにかく俺の前から消えた。
やれやれだ。
やたらキャラが立った坊主と、人体の神秘を目の前で体現する猿があいつの名前を教えてくれた。
悟能ね。悟能。ふーん。変な名前。
まあ何をしようといいけど俺の知らないとこで死んでくれよ、流石に気分悪いから。
走り回る猿を怒鳴りつけておいて、壁にもたれて煙草に火をつけた。
その時だ。
火が煙草の先に触れ、葉までは行き着かず、紙を焦がしはじめたその時だ。
多分その瞬間の指先の熱とか、ライターの感触とか、紙が焦げる微かな音とか、三蔵とか悟空とか、時間とか、照明の具合とか、そういう要素が一瞬あいつに向けて収束した。いろんな偶然が重なってあいつに会ったみたいに。理屈じゃない。座ろうとして背もたれに手をかけ、椅子の足が床に微かにひっかかるのを感じたその瞬間、母親のことを思い出す。枯れ葉がちょうど俺が次に足を置く予定の場所に落ちてきて、思わず宙で足を止めたその瞬間、兄貴のことを思い出す。不意に心に何かを過ぎらせる偶然というのがあって、それがたまたま、その時だった。
あいつは諦めていたんじゃない。
俺は煙草を口から落っことした。
あいつが静かだったのは、手応えがなかったのは、いつもただ微笑んでいたのは、やたら綺麗に見えたのは、あいつが生きることを諦めて、俺のことも何もかもどうでもよくなってたからじゃない。他のことで目が眩んでいたからだ。
あいつは怒ってた。
怒ってたんだ。
「…止めないと」
三蔵は疑惑に充ち満ちた声で「あ?」と聞き返した。
さっき自分で逃がしたあいつを、今は止めないと。
どうやったら止まるのか分からねぇが、とにかく止めないと。
俺はあいつがもう平安の境地にいると思ったから黙って見送ったのだ。
怒りのまっただ中にいる奴をそのまま死なせる訳にはいかない。
そんな不幸な、そんな悲惨な死に方させる訳にいかない。
合図はあった。俺の真っ赤な髪を、一瞬掴んだあいつのあの目。カードを伏せた時のあの目。
例えば姉貴が地震で家屋の下敷きになったんだとしたら、あいつは地球でも割るだろう。他の女なら哀しくても運命だと諦めもしたろうが、生憎あいつの運命は姉貴と生きることだった。運命を失うのはおかしい。何をどう考えてもおかしい。勿論、いつかは怒りも薄れる。諦めや悲しみやいろんなものを経て乗り切れば「ああ、生きててよかった」と思う瞬間がくる。あいつだってそんな事は分かってる。でも、今、今のこの瞬間、大事なものを奪った奴らへの怒り、救えなかった自分への怒り、いりもしない命を気まぐれだか何だか知らないが掬い上げた俺への怒り、いわれもない傷の痛みへの怒り、姉を失った途端、悲しみより寂しさより強く強くあいつを支配し続けここまで生かし続けたのは怒りだ。あいつのすべてを総動員して抑えつけていたであろう怒りだ。
だからあんなに静かだったんだ。
異様に静かだったんだ。
あいつは許していない。世の中は不公平で理不尽で、その世の中を許せていない。
嵐の前兆みたいなあいつを前に、生きることを舐めて馬鹿にして諦めていたのは俺のほうだ。
今死んだら、あのまま死んだら、あいつは迷う。
そして間に合わなかった。
あいつは俺らの目の前で崖から飛んだ。
あいつの死体を見ていない。三蔵が見に行った。ぐちゃぐちゃだったらしい。三蔵がそう言ったのだ、「ぐちゃぐちゃだ」と。坊主がなんて言い草だ。まあ俺に気をつかったのかもしれない。物のように言ってくれて助かった。悟空は三蔵が戻ってくるまで、何故だか隣で俺の服の裾をずっと握ってた。震えでもしていたのだろうか。まさか泣きはしなかったはずだが。
だってしょうがない。
結局、あの雨の夜に見殺したも同じ結果になってしまったが、世の中ってだいたいこういうもんだ。
残念だな。綺麗だったのに。あの凄まじさが、あの一途さが、怒りじゃなくて他のものに向いていたらどんなふうだっただろう。それが恋とか仕事とか夢とか、そういうものだったらどんなふうなあいつだっただろう。俺がもっと早く気づいていたとしても、俺如きにあいつを止められはしなかっただろうが、少なくともちょっとは、ほんの少しは、何か、あいつに何か起こったかもしれないのに。水槽にヒビぐらい入ったかもしれないのに。
なあ悟能。
「…起きました?」
目を開けた時に俺を覗きこんでいたのは、たまたま何巡目かの八戒だった。
「………おはよう」
「夜中です」
そりゃそうだ。夜中に起きて俺の様子を見にくるといったような事を坊主や猿がする訳なかった。
というような事を考えられるほど冷静になってきたので、俺は冷静ついでに頭が重いし寒気がするし、体の節々が痛いなどの諸症状により高熱でぶっ倒れたことを思い出した。
「…どれくらい」
「一日半。戻ってから倒れてくれて助かりました。山の中だったらどうなってたか」
「おまえ平気なの」
「鼻風邪ひいてます」
起きあがろうとしたが八戒に決然と押し戻された。
しばらく沈黙が続いたが、騒がしかった。
もう不思議なことなんて何もない。あの時のような静けさはもうない。
俺には俺の言いたいことが山ほどあるし、八戒には八戒の言いたいことが山ほどある。空気は突いたらすぐ木っ端微塵になりそうなほど張りつめていて、ビリビリいう音が聞こえそうだった。
俺は怒ってる。冷静に、俺は判断した。
本気で怒ったことがなかったから、自分がいったい何をどうしてしまうのか分からない。
悟能はこの何倍も何倍も凄まじい怒りと生きていたのか。
怖かっただろう。
自分が怖かっただろう。
俺はシーツを握りしめた。
「話せ全部」
八戒の喉が鳴った。
「次第によっちゃぶっ殺す」
僕が分からないんですか?だと?
分からないんですか、だと?
体が変わったくらいで貴方は僕のことが分からないんですか、だと?
信じがたい馬鹿だ。
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