千年の居留守
act3
もう覚えてない。
嫌なことってすぐ忘れるタチなの。
あ、違う。嫌なことっていうか思い出してもどうにもなんないことは思い出さないようにしてるから。
…うーわーうわ。何。あんたがそういうこと聞く?びっくりしたあ。
あんたからそういう質問くると思わなかった。
いや馬鹿にしてんじゃなくて。あんたでもそういう発想あるんだ。
好きっていうか、縁。そうそう、縁ってあんじゃん。会っちゃった〜って、それだけ。
あんたと俺だってそうじゃん。会っちゃったって、そんだけ。以上も以下もねえよ。
俺、特別好きなやつなんて誰もいねえから。
…でもなあ。会っちゃったら、なかったことにはなんねえよなあ…。
「悟浄、起きてください」
俺は見ず知らずの同居人に朝9時に揺り起こされた。
「…何」
「起きてくださいって」
「何で」
「朝だからです」
だから何で朝だから起きてくださいなのかと続けるのも聞かず、八戒はエプロンで手を拭きながらさっさと流しに向き直ってしまった。
…エプロン。何それ。
「…まさか朝飯食えって言うんじゃ…」
「わざわざ言いません。朝は朝食を食べるものです。ついでに食事は服を着てするものです」
椅子の背にかけたままのシャツがまっすぐ俺の顔に飛んできた。
…朝起きて服着て食事。
異星に着陸した宇宙人の気分。
結局昨晩は八戒にベッドを使わせてソファーで寝た。寝たといっても慣れない生き物の存在感は寝息が壁を突き破って聞こえてきそうなほどで、睡眠自体は浅くはあったが。
勿論八戒は猛反発した。
「変じゃないですか、それ」
「じゃあ一緒に寝るか?寝てたんだろ?俺、別に隣に人いても平気だけど」
「…たまにそういうこともありましたけど今の貴方と同衾する理由ありません。それはそうなる過程があってそうしてたんです」
「どんな過程だ」
「知りませんよ」
埒があかない。しまいにはいちいち過去形で話されると腹が立つから前のことは全部なかったことにして一からやり直せばいいではないかと論破され、言われなくてもそうせざるを得ないがそれならそれでおまえは客らしくベッドで寝ろということで落ち着いた。
…ベッド、買ってやるか。人が良すぎるか俺。
でもこれといって出てって欲しい理由もねえし。
「はい、コーヒー」
あった。
食卓に並んだ朝食は蜂蜜色に光ったトーストといい艶々した目玉焼きといいみずみずしいサラダといいそれはそれは美しかったが、俺は思わず後ずさった。もう何年も朝食なんか食ってない俺の胃は油の匂いだけででんぐりがえる。
「…悟浄?」
ああ、なんか、やだ。またあんな顔見るのやだ。
でも正直に言わないと余計気まずい。
「…悪い」
「え?」
「今、ちょっと…食えない」
きっと八戒は少し驚いた後ちょっと困ったように笑って「そうですか」と口に出す。もしくは未練がましく血糖値がどうしたと蘊蓄をたれる。一晩いればそれくらい分かる。八戒はその両方をしたが、その、驚いたのと笑うのとの間に一瞬浮かんだそれを、俺は見てしまった。
「…コーヒーはもらう。牛乳入れて」
「はい」
失望でも怒りでもない。
狼狽だ。
「変なこと聞くけど、俺ってひとり暮らしだった?」
1日おいて出向いた賭場で顔見知りに聞きまくったが、男も女もまさに変なことを聞かれてしまった顔の見本みたいな顔をして口をそろえた。
「おまえプライベートな話なんか一度もしたことねーじゃん」
「血液型も誕生日も教えてくれたことないじゃない。呪われたらやだとか言って」
八戒どころか俺を知ってる奴すらいやしねえ。
収穫はあった。俺の記憶はやっぱり途切れておらず、空白の1日もなく、そのことが2日前にこてんぱにした相手が「一昨日の借りを返すぜ兄ちゃん!」と分かりやすく説明してくださったことにより証明された。
三蔵と悟空はまるで昔から八戒がいたかのように振る舞っているし、坊主にいたっては悟能が八戒だとか訳わかんねえことぬかす。記憶は当てにならない。俺の記憶も人の記憶も最早疑わしい。
だけど。
だけど体は。
考え事をしていたものだから、ついうっかりこてんぱにした相手をまたこてんぱにしてしまい、逆ギレしたそいつに頭から氷つきでウィスキーをぶっかけられた。
よくあることだ。ここで即座に奴にボトル1本ぶんお返しした挙げ句火をつけてやったり、叩きのめして表に蹴り出すというようなことをしてはいけない。マスターの立つ瀬がないし場の空気も悪くなる。下手すると今日のアガリがパーだ。15の俺ならやったけど。
俺は腰抜け呼ばわりされながらも表面上は冷静に洗面所で水をかぶった。
こういう時が一番やりきれない。
俺だって売られた喧嘩は買いてえよ。男だもん。でもこんな仕事でも仕事は仕事。
排水溝に吸い込まれそうになった毛先を慌てて捕まえて黴だらけのシンクに渦をまく水を眺めていたら、安っぽい香水とか体中にしみついた酒と煙草の匂いとか床に散ったピーナツの殻とか果てのない喧噪と怒号とアンモニア臭、そんなものとここでこうして何年も何年もガキの頃からうんざりするほど長く付き合ってきたことを、そしてその全部が反吐がでるほど嫌いなことを、体で思い出した。
何年もこうして生きてきた体だ。
何年も朝飯なんか食ってない体だ。
体がそう言ってる。俺が八戒と住んでたはずがない。あんな健康的な生活してたはずがない。
嘘つき。
俺は日付が変わる前に早々と帰宅した。
扉を開ける前に内側から開いた。
「おかえりなさい悟浄」
「…ただいま」
媚びも愛想も何もない自然な態度。俺のほうが妙な芝居でもやってるみたいだ。
八戒はお茶を淹れてくれ、俺がそれを啜る間に上着に飛ばした醤油の染みをぽんぽん抜いてくれている。
「八戒」
「やっと名前で呼んでくれましたねー」
八戒は真剣な眼差しで染みを電灯に翳している。
「俺の血液型知ってる?」
「B。三蔵とは相性最悪、悟空とはまあまあ、僕とは最高。…もしやこれは醤油じゃなくて餃子のタレではないですか。厄介な」
「誕生日は?」
「11月9日。痛むから漂白剤使いたくないんだけど油染みは仕方ないですね」
「家族構成は?」
「僕ひとり。ちょっと漬け置きしますね」
「今日ソファーで寝る気?」
上着を片手に洗面所に向かいつつあった八戒は、その場でクルリと振り返った。
「悪いですか。僕はずっとそこで寝てたんですから」
「嘘つき」
上着のシミより厄介なことに、俺は八戒が嫌いじゃない。
第一印象があいつと似てた。
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