千年の居留守
act5
心配してくれてんだ。はは。ありがとな。でも余計なお世話。
俺は期待すんの、とっくにやめたの。
人に期待するのも世の中に期待するのも俺に期待するのも全部ガキの頃にやめた。
だから平気。
「いらっしゃい三蔵」
「よぉ。ひさしぶり」
三蔵はまず八戒を見て、次に俺を見た。そしてゆっくり八戒に視線を戻した。
「…頼みたいことがあるんだが」
それは俺に言ってたセリフだ。俺だけに向かって言ってたセリフだ。
頼みたいことがあるんだが。どうせおまえ暇だろ。三仏神がまた面倒を。
俺はいつも否応もなく承諾し、というかさせられ、ひとりで依頼を片づけて、決して近くはない慶雲院に報告に行った。そして家までの長い長い道をひとりで戻ってきた。一本道を、色が変わっていく空だけを眺めて、適当に疲れて黙々と歩くその時間が、俺は好きだった。
そうか。これからは八戒とあの道を歩くのか。
ふたりで歩くのか。
「煙草買ってくる」
俺は居間の戸棚の一番上にカートンが入ってるのを重々承知で上着を掴んだ。
「悟浄」
「ん?」
もう玄関から外に半分出ていた俺が振り返ると、八戒はぎこちなく微笑んだ。
「ついでにお醤油も」
三蔵がうちに来たのは俺の「記憶喪失」事件以来だ。
普通、まずは俺の記憶が戻ったかどうかを尋ねるものじゃねえのか。いくら俺が三蔵にとって生きようが死のうがしったこっちゃねえ存在だとしても、身近で知人の記憶が喪失するなどという大事件が起こったのだから。それをしなかったということは、やっぱり、あれだ。
八戒と三蔵はグルだ。
でなきゃ坊主の周囲ではしょっちゅう誰かが風邪と同じ頻度で記憶喪失になってるかだ。
俺はまだ10本以上残ったハイライトを引っ張り出し、上着のポケットを裏返して中に落ちてた葉を道端に払い落とした。
勿論尋ねられなくてよかった。喪失もしてないものが戻るわけねえだろ、と嫌味のひとつも飛ばすとこだった。
「悟浄、あんたどうしたの」
あっても腐るもんじゃねえしと自販機に小銭を突っこんでいたら、脇のガラスがいきなり開いて煙草屋のばーちゃんが顔を出した。
「…ひさしぶりばーちゃん。どうしたのって何が」
「ひさしぶりだからだよ。煙草、減らしたのかい?」
近頃は昼間に食材のついでに八戒が買ってきてくれるんだった。
「まさかぁ。ちゃんと売り上げに貢献してるぜ?最近人に頼んでっからさ」
このばーちゃんは俺が煙草を吸い始めた時から既にばーちゃんで、既にここに座っていた。思えば15やそこらの俺にほいほい煙草を売っていたわけで、まあ、適当なばーちゃんだ。そのばーちゃんは白髪頭を手にした耳かきでかきながら、盛大に眉を顰めた。
「自分で食うヤニぐらい自分で買いにこんかね」
「なんでよ」
「そうしてたからだよ」
俺はその場で煙草に火をつけた。
「小便くさい若造が人にパシらせるなんざ50年早い」
「男前に会いたいなら素直にそう言やいいのによ〜」
「見飽きたわ」
ばーちゃんは俺の鼻先でガラス戸を閉め、また開けた。
「悟浄。そういうことから人は堕落するんだ」
「だ、だらく?」
八戒に煙草を買いに行かせるのが堕落か?
「日々の習慣っつーものをなめんじゃないってんだよ。習慣を変えるってことはあんたが丸ごと変わるってことだ」
「んな大げさな…」
ばーちゃんは言うだけ言うとまた戸を閉め、今度はいつまでたっても出てこなかった。
大げさな。大げさだが煙草は自分で買いにこよう。でないとばーちゃんいつ死ぬか分かんねぇし。
八戒が来てから、俺は何か変わっただろうか。
自分では同居人ができただけで、それだけのつもりだったが、現にほとんど毎日のように顔を見ていたばーちゃんに会わなくなった。朝起きたときの腹の鈍痛が、夜中の暴飲暴食を止められるせいで消えてなくなった。交代で使ってるベッドは、ほとんど毎日シーツを換えているのにあいつの匂いが残ってて、もうそれがないと落ち着かない。
体が変わってる。
でもなくしてない。
張本人である八戒がはっきりと、貴方は記憶喪失じゃないと言ったからには、俺は記憶喪失じゃないわけだ。何もなくしてないわけだ。
じゃあこの、なんというか、喪失感はなんだろう。
三蔵と八戒に、俺がいないほうが都合がいい話があるんじゃないかと踏んで煙草を口実に出てきたが、八戒がこれまたとっくに買い置いてるはずの醤油を所望したところを見ると、当たりだ。
俺が何となく割り切れないのは、不思議なことに俺の記憶喪失の真相じゃない。
ふたりに何やら隠し事をされている事でもない。
非常に不可解ではあるが、あいつらのことだから何か真っ当な理由があるんだろう。少なくとも俺を苦しめたい訳じゃないだろう。いつか話してくれるだろう。まだ聞きたくない。まだ、もっと、もっと八戒を気に入ってからだ。八戒がたとえ何を言いだしても許せるようになってからだ。
俺は八戒を好きになる。
きっともっと好きになれる。
あんな短時間で俺に馴染むぐらいだから、多分相性がいいのだ。こんなことは珍しい。滅多にない。俺の生涯において、二度しかない。あいつとふたりで歩くというのも、まったくもって悪くない。
ただ、今までひとりだったから。
その時間がもう戻ってこないから。
家の前まで戻ってきたら、八戒が俺より先に戸を開けた。
「お帰りなさい」
そう言って微笑った。
まだ。もう少し。もっと。
この喪失感が埋まるまで、そうやって戸を開けてくれれば、きっと。
誰かと会って何かを無くすことがあるなんて知らなかった。
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