千年の居留守
act6




 貴方ともう少し、もっと早くこうやって話せていたら、あんなことしなかったかもしれない。
 貴方の手を煩わせることもなかった。
 後悔ですか。してます。後悔ばかりです。でももう後悔はいいんです。どうせずっとずっと死ぬまでするに決まっ…死んでからもするに決まってます。
 みんなそうだって…そうですか?貴方も後悔することあるんですか。
 そりゃありますよね。ごめんなさい、貴方って何だか人間離れしてて。
 後悔って、時間がたって後悔じゃなくなること無いから厄介ですよね。忘れるしかない。
 …じゃあ行きますね。
 悟浄に会います。
 今日も昨日もその前もずっと一緒にいたみたいな顔で。悟浄が忘れてても。悟浄はほんとに忘れるのがうまいから。
 はい?料理ですか?料理は何とか大丈夫。厨房借りて特訓しました。
でもカードはまだ無理ですね…。



 
 予想に反して、三蔵はまだ家にいた。ただし俺を見るなり「じゃあ」と席をたったが。
 そのまま無言で出ていくかと思ったら、戸口で俺を振り返った。
「仲良くやってんのか?」
 その声がこれまた予想に反してえらく優しかったので、俺は父親の期待に応えねばと張り切る子供のような心持ちになり、一生懸命頷いた。
「やってる。うん」
「そうか」
 これまた予想に反して、三蔵は微笑んだように見えないこともない顔をして出ていった。
 俺は予想に反したことが起こると楽しいタチだがこれは過剰だ。
「…わわわ!」
「何です」
「三蔵、笑わなかったか今!ああっ!うわ!気持ちわる!」
 八戒は肯定も否定もせず、俺が律儀に購入してきた醤油のボトルを袋ごと台所の一番上の棚に放り込んだ。その様子を見るともなしに眺めていたら、うっかり台所の壁にかけてある時計が視界に入ってしまった。
 思わず舌打ちしたが、幸い八戒には聞こえなかった。
 午後6時40分。
 部屋が、どんどん暗くなっていく。
「どうかしました?悟浄」
「いーや」
 どっちにしろこれから三蔵から受けた仕事依頼の内容を俺に話す気だろうから、俺は言われないうちにソファーに腰掛け、八戒が茶をふたりぶん淹れて隣に座るのを待った。人との間にこういうテンポができていく過程って面白い。お互い何も言わないのに、洗面所を同時に使う時の複雑な工程まで勝手に決まってる。八戒が歯を磨きだして1回外に出て、次に俺が歯を磨きながら部屋を歩き回っているうちに八戒がうがいまですませて蛇口をあけ、俺が口を濯いで顔を洗ってタオルで拭いて、そのタオルを洗濯機に放り込むのを最後に八戒が洗濯開始。とか。
「それは貴方が強いからです」
 洗面所の狭さとは勿論、他のナニとも関係ない台詞が飛んできた。
「おまえ霊感あるだろ」
「三蔵が笑った理由ですよ。貴方が強いから今まで笑わずに貴方と付き合ってこれたんです。あの人、僕には終始笑いますよ。…笑うって爆笑じゃなく」
 そんなの見たら俺の心臓は止まる。
「本人認めないでしょうけど、人を落ち着かせる時とか励ます時には微笑うみたいですよ。僧侶らしく」
「つまり、おまえはいつも落ち着きなく落ち込んでる訳だ」
「ヤですねそれ」
「おまえは弱い訳だ」
「でしょうね」
「強ぇよ」
 八戒は俺の隣でしばらく考え込み、ようやく思い出して俺に湯呑みを手渡した。
「何でですかって聞けよ」
「…何でですか」
「俺はおまえのこと実はわりと好きで」
 湯呑みが落っこちた。
「あっち!何、ちょっと、布巾!」
「何でですか」
「零れたからだ!」
「何で好きなんですか」
 俺はとりあえずソファーの上の八戒をそのままに、布巾を掴んで戻ってきた。床に膝をついた途端、手元に影がさした。
 日が沈む。
 やべ。どうしよ。頭痛い。
 八戒は突然飛び上がるように立ち上がり、慌てて俺の腕を掴んでソファーに引っ張り上げて布巾を奪い取った。時計の秒針がえらくうるさい。いや秒針じゃない。頭ん中で鳴ってる。
「酷いんですか頭痛」
「…ああ…平気」
「魔の刻ですもんね」
 …おい。こいつにそんな話してねえぞ。

嫌いな時間ってない?その時間になると憂鬱になるとか体調悪くなるとか。煙草屋のばあちゃんは昔っから午後3時代がだめなんだっつってた。空気が一日中で一番汚れてて、淀んで生暖かいんだと。んで、一日の疲れがその時間にどっと出るんだって。俺、昔っから夕方の6時7時が駄目。夕暮れは綺麗でいいんだけど、日がだんだん沈んでいきなり暗くなる時間がすっげ駄目。もの凄く不安になんの。夕飯にも早いし酒呑むにも早いし中途半端で。ガキの頃には今日は夕飯作ってもらえるかどうか心配してて、今でも賭場に行くかさぼるか決めなきゃいけねえ時間だしで、嫌な想い出しかねえからかな。
 おまえ、ない?そういうの。

…夜中の2時ぐらいですかね。必ずふっと目が覚めるんです。
 夢の中で雨の音がして。

あいつは笑わなかったな。暗くなっちゃえば平気だけど暗くなっていくのが怖いって、いい歳した男が言うのにも笑わなかった。

 僕だって怖いものいっぱいありますよ。まず雨が怖いでしょう。家に帰ってくる側になるのも怖いですよ。「ただいま」って言って扉を開けて、あるはずのものがなかったりいるはずの人がいなかったらどうしようかって考えちゃうんです。
 だから必ず僕は、中から先に扉を開けて。
…あれ?

「悟浄」
 俺の足下に正座して布巾を畳んでいる八戒の横顔が、俺の目の高さにある。部屋の中がじりじり暗くなって、影がのびる音まで聞こえる。
 必ず、中から、扉を開けて。
「僕が貴方の好きだった人に似てるからでしょう?」
 八戒は必ず、中から。
 俺はぐちゃぐちゃになってきた頭を軽く振った。
 俺が好きだった人?あいつのことか。なんで八戒が、んなこと知ってんだ。ああ三蔵に聞いたのか。口軽いな坊主。いやそもそも好きとかじゃねぇってあれほど言ったのに。縁だっつったじゃん。縁だ。会っちゃったって、それだけだ。想い出が強烈すぎて、うまく忘れられないだけだ。八戒とあいつがかぶるのもそのせいだ。
「その人と僕が似てるから、好きなんでしょう」
「似てねえよ」
 いきなり八戒は弾かれたようにこちらを見た。
「最初はちょっと感じが似てると思ったけど、やっぱ似てねぇよ」
 あいつはいつもどこか一心に見詰めてるような、行かなきゃいけないところや、やるべきことを心に決めていて、思い詰めてる頑ななところがあった。
 どこか別の世界に片足突っこんでいて、それはもう、俺なんかが引っ張り上げられる余地もない確固たるものだった。あいつは俺なんかどうでもよかった。他の誰も必要じゃなかった。この世の何も見てなかったし、誰の声も聞いていなかった。
 もう半分死んでた。
 でなきゃあんな酷ぇ事するもんか。何もかも全部放り出してこの世から逃げたするもんか。
 あいつは弱かった。それだけだ。
 八戒を見たときはぎょっとした。あいつと同じで気迫が漲るというか、俺や俺の周囲の連中みたいに、目の前にあるものを漫然と映してるだけの目じゃなかった。
 でもちゃんと俺を見てる。あいつと違って俺を見て、俺と同じ世界のものを見て、不可抗力ではなく自分の意志で俺のそばにいる。感情があるのかないのか、何を言っても反論するでもなく微笑ってたあいつとは全然違う。ちゃんと俺と向き合って、ちゃんと生きてる。
 何となく確かめたくなって、俺は手を延ばして八戒の髪に触れた。
「おまえは誰とも似てねぇよ」

 不思議なことが起こった。

 俺は、誰かに似てるからなんて失敬な理由で八戒のことが気に入ってるんじゃない。
 今、そう言ったのに。
 そこ、喜ぶとこだろう。
 なのに。
八戒は、いきなりぼろっと涙を零した。男に目の前で泣かれたのなんか兄貴以来だ。
 女が泣くのも嫌いだが男に泣かれるのは更に衝撃だ。どうしたらいいのかまったく分からん。
 何なんだ今日は三蔵といいこいつといい、よってたかって俺をどうにかする気か。いや今日に限らず俺をどうする気だ。
「何!何、俺、なんか変なこと言った!?」
「…え?」
 八戒はしばらく俺を眺めてから、ゆっくり瞬きした。
 それでようやく、自分が泣いたことに気がついた。
「…あれ?」
「なんか泣かすような事言ったんなら悪かった!」
「…いえ。あの…なんかびっくりして。すいません」
 とても俺よりびっくりしているようには見えない落ち着いた態度で八戒は布巾をひっくり返し、床に触れていない方で瞼を拭った。
「気にしないでください」
 するわ。

 八戒は茶を淹れ直し、ようやく「できるだけ早く遼頑寺という寺に行ってそこで起こってるトラブルを解決してこい」という三蔵の漠然極まる依頼内容を俺に話した。
「どこよそれ」
「地図で言うと、ここ」
 八戒は、三蔵の手書きと思われる地図を広げて指で指した。
「俺んちはどこ」
 指はつつっと右下に滑って紙からはみ出した机の上で止まった。
「この辺り」
「まるで遠いようだ」
「まるで遠いです。行くだけで1日かかります」
「嫌だ」
「はい」
 八戒は地図を丁重に畳み、俺の胸ポケットに押し込んだ。
「明日から出られますか」
「何を言う。すぐ行こう」
「賭場に出たくないんですね」
 俺が実は賭場嫌いなことが、もうばれたのだろうか。そんな素振り見せたつもりはなかったのに。嫌いというのとはちょっと違う。カードは好きだし駆け引きも好きだ。その日払いのギャンブルは俺の性に合ってる。ただ、あの仕事場は、他に思うことがありすぎる時に出向くと辛い。だからといってあれ以上に楽で簡単で儲かる仕事なんてちょっと思い当たらない。だいたい仕事なんて、どれもこれも辛いもんだし。したことないから分かんねえけど。
「…悟浄。嫌なら仕事辞めてもいいですよ。僕、一応教員できますし。貴方と違ってこの通り人当たりもいいことだし」
「お、食わせてくれんの?ラッキー」
「貴方が我慢できませんよ」
 八戒は机の上に置いてある小物入れと化した灰皿の中からコインを1枚摘み上げて跳ね上げ、宙で掴んだ。
「裏」
「ほら。この感じ。この快感がもうなくなっちゃうんですよ?貴方が今まで何年もかかってつかみ取った勝負師の名声を他の方に譲っていいんですか?堪えられないでしょう。ナシで生きていけます?」
 八戒は俺に手を差し出した。手の甲に載った裏向きのコインを見た途端、背筋を「この感じ」が突き上げた。
「…行ってくる」
「ご武運を」

 八戒が開けてくれた扉から、俺は一歩外に出た。
「…早めに帰るわ」
 こいつがまだ起きてる時間に。
「悟浄」
 部屋からの明かりで逆光になった八戒は、それでもはっきり分かるほどにっこり笑った。
「会えてよかった」
 何じゃそら。
「…何で今言うのよ。こえーじゃん。やだぜ俺、ひとりであんな遠いとこ出張すんの」
「あ、そうですね。すいません。出張費は後日精算ですからたっぷり稼いできてくださいね、貧乏旅行になるか豪遊できるかは今日の貴方にかかってますから」

女だったら理想的なアゲマンであろう八戒に手を上げて、俺はゆっくり坂を下った。
 男でよかった。
 八戒が女で、あまつさえ奥さんだったりしたら、今俺が頭ん中でしてるのは浮気だ。
 もしもっと俺に力があったら。
 俺に三蔵みたいに人を掬い上げる力があったら。
 俺がこんなに捻くれてなければ。
 もっと我が儘で、エゴの塊で、恥も外聞もない素直なガキだったら。
 こうして見送ってくれたのは八戒じゃなくあいつだったかもしれない。
 あいつを見捨てたのは俺かもしれない。


 嘘ついた。


 好きだった。



 俺はあいつが好きだった。
 弱くて冷たいあいつのことが、俺は本当に好きだった。
 
 

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