千年の居留守
act7
あいつは俺のこと、何だと思ってたんだろ。
なあ。おまえ分かる。何とも思ってなかったから死んだんだよな。
…じゃあさ。
花喃は悟能のこと何だと思ってたんだろ。
翌朝6時前に、俺たちは軍資金を手に家を出た。
八戒は日の出前でまだ青く見える地面に靴の爪先をトントン打ち付けながら、俺が鍵を閉めるのを待っている。吐く息はもう真っ白だ。
「…えらい張り切りようですね」
まだ眠そうな八戒を俺が叩き起こすのは初めてのパターンだ。
いや初めてかどうか知らないが俺には初めてだ。
「だって旅行だぜ。お泊まりだぜ」
「はぁ」
「ドキドキしねえ?」
「そうですか?」
俺が振り返ると、八戒はちょうど欠伸している最中だった。稜線のあたりがようやく微かに光り出す。
「もしかして、ふたりで遠出って初めてじゃねえの?」
八戒はしばらくぼんやりしていたが、俺が何を言ったのか了解するとその場で飛び上がった。
「初めてですよ!…初めてです」
「ふーん。また俺が忘れてんのかと思った」
「悟浄」
八戒はそれ以上は言わず、溜息をつくと俺のすぐ真横に並んで歩き出した。
僕が覚えてて貴方が忘れてることは確かにありますが。
まあ、そういうことは確かにある。同じ日同じ時間を共有した奴と記憶がくい違う。俺には感動的な台詞でも相手の頭の中から抜け落ちてる。そういうすれ違いはわりと切ないが、逆もまたしょっちゅうだ。だから耐えられる。じゃあ俺が覚えてて八戒が忘れてることが何かあるのか。こういうの、フェアじゃない。
そもそもほんとに俺は忘れたのか。八戒と住んでいたことが、同じベッドでくっついて寝てたことがほんとにあるのか。そんな凄いことを俺が忘れるだろうか。
確かに嫌なことは忘れるタチだ。忘れたふりをするタチだ。
でも俺が俺で八戒が八戒だったんなら忘れる訳ない。
嫌な訳ない。
木立が切れた。
「悟浄!」
八戒が俺の上着を掴んで立ち止まった。
ここでだけ、ここでだけ誰よりも早く朝日が見える。俺はそれこそ15の頃から何度も何度も眺めてきた光景だが、八戒は目を見開いたまま力も緩めない。
「知らねぇ?日の出ポイント」
「知らなかった。…綺麗ですねえ」
八戒が動かないので、俺は今日初めての煙草に火をつけた。煙が赤やら青やら黄色やらに色を変えながら、真っ直ぐ上に昇ってく。
「もしかして僕に見せようと思ったとか」
「冗談」
「またまた。実は時間計ったでしょ」
八戒と約束した。一からやり直そうって。俺が何を忘れてるんだとしても、一から作り直そうって。それでもずっとずっと、八戒がぎこちなく微笑むたびに、小さく肩を揺らすたびに、もしかしたら俺には初めての会話でも八戒には繰り返しなんじゃないかって、俺には新品でも八戒には手垢がついてるんじゃないかって、そればかり。
「あー…いいもの見ました」
「それはよかった」
本当によかった。
「なんで三蔵、いきなりこんな仕事ふったの」
俺が次に口を開いたのは、家を出てから1時間はたった頃だった。
「なんでって」
八戒はコロンと口の中で飴を転がした。俺にもさっきくれたが、抹茶と薄荷と咳止めシロップが混じったみたいな妙な味で、こいつは俺が口に入れた途端秒速で吐き出した飴を「勿体ない」と掌から摘み上げぽんと口に入れてしまった。止める間もなく。
俺が「あ」と言ったまま固まってると「ビールの缶回し呑むのとどっか違うんですか」と返してきた。いやそれは違うだろう。説明するのも恥ずかしいぐらい違うことだそれは。
…なあ。こんな奴といて何を忘れる。
「遠いから自分で行くのめんどくさいんでしょ」
「いーや。あいつ斜陽殿嫌いだしお勤めとやらも嫌いだから遠出のチャンスは逃がさねえもん。猿の散歩にもちょうどいいしよ。俺にふるのはいーっつも力仕事ばっか。これはさては力仕事か」
「話聞いた限りじゃ妖怪騒ぎみたいですけど。退治しなきゃとなったら力仕事の部類ですかね」
まさかあの鬼畜が、俺を気遣ってまっさらな想い出作りに手を貸してくれようとかいう訳でもねえだろう。
なんとなく、なんとなくだけど、この旅行で俺は分かってしまいそうな気がする。
何かが。
俺にはまだ覚悟ができてない。
「八戒、飴まだある」
「ありますけど嫌いなんでしょ」
「今度は美味いかもしんないからくれ」
八戒はちょっと微笑って、商店街のお菓子屋が開店祝いに配っていたという(大丈夫かその店)クソ不味い飴を掴み出し俺に押しつけた。
微笑って。
日が西に傾き出したころ、ようやく三蔵の言ってた遼願寺とかいうところについた。正確には遼願寺に続く石段の前だ。
「げ!この上!?何千段!?」
何で寺とか神社ってのはこうなんだ。敷居が高けりゃいいってもんじゃねえだろう。
「もう疲れましたか?」
「なんの上まで元気に競争したい気持ちでいっぱいだ!」
「残念ながら、僕、走れないんで」
八戒が懐から書状を引っ張り出した途端、俺がひと舐めしては八戒に押しつけていた飴の包み紙がバラバラ落ちた。
「確かこの紹介状を見せるとご住職が事情説明をしてくれるはずです」
「今、おまえ何て?」
律儀にしゃがんでゴミを拾おうとした八戒は怪訝そうに俺を見上げた。
「走れない?」
「…走れますよ」
「走れないって言ったじゃん」
八戒は明らかに失言したらしい。俺の心臓が妙な音を立てた。
石段を登り始めると、八戒は3段ほど後ろを同じ速度でついてくる。200段ほど行ったところで向こうが根負けした。
「…全力疾走とかは、ちょっと」
「運動神経ねえのか」
「最近走ってないから走り方忘れたんです」
俺も忘れたことがある。ガキの頃外に閉め出されて肺炎になって1ヶ月寝たきりだった時。
どうしてこいつは思い出させる。
違うのに。悟能じゃないのに。
顔も性格も全然違うのに。
もっともっとこいつのこと好きになってからと思ったけど、もしかしたらそこまで行く前に、終わるなら終わらせたほうがいいんじゃないか。こいつが俺のこと同じように気に入ってくれるかどうか分からない。
もうすぐ俺は八戒に期待しはじめる。いなくなった時に、きっと恨む。
振り返ったら八戒が俺の胸のあたりにドンとぶつかった。
「いきなり立ち止まんないでくださいよ!」
八戒の右手に掴まれた膨大な包み紙の数。
「あのな」
「はい?」
悟能のことを全部話したら。
こいつも全部、話すだろう、か。
「俺、な。ほんとは」
突如背後からゴーンと間抜けな鐘の音が響いた。辺りの木々が鳴ったと思ったら一斉にざざっと鳥が飛び立った。
「うっわ!」
「凄い…」
夕焼け空を背景に、鐘に追われるように膨大な数の鳥が後から後から継ぎ目なく上空に舞い上がった。俺たちはその凄まじい轟音と景色に圧倒されて、最後の一羽が消えるまで空を見上げ続けた。
「…カメラ持ってればよかったな」
「悟浄、写真嫌いなのに」
うん。でも。…ああでも。
何でこんなものを見るんだろ。こいつとふたりで何で初めて見るものを見るんだろ。
「雁ですよ」
齢50かそこらと思われる坊さんが石段の上から顔を出した。
「もしや、玄奘三蔵様のお使いの方で?」
「あ、はい」
八戒は俺の脇を抜けて、三蔵の1億倍ご利益がありそうな坊さんに近づいた。
「お勤めご苦労様です。遅くなりまして」
「いえいえご足労様です。三蔵様から信心の欠片もない二人組が行くからと連絡を受けておりましたので」
組かよ。
「どうぞ奥へ」
この坊さんは見かけに寄らない力強さでずかずかと先を歩き、俺たちを座敷へ通した。
「足はえーな、じーさん」
「僧侶は健脚と相場が決まっておりますよ」
だろうな。
「んで、力仕事になりそう?」
俺がさくさく仕事を片づけようとしているのに、隣の八戒は眼下に広がる景色を誉め床の間の花を誉め茶を誉め茶菓子を誉め座布団を誉め、しまいには「いい仕事してますね〜」と床の継ぎ目まで誉めだしたので、本題に入るまで30分はかかった。
「力は…どうでしょうか」
「妖怪じゃねえの?」
「妖であることは間違いありません。町で幽霊が出ると噂が」
「冗談じゃねえ!」
自慢じゃねえがホラー映画もひとりじゃ観られない俺は、足が痺れたうえ八戒にひっつかまえられ逃亡に失敗した。
「幽霊なんていませんよ悟浄」
「いるんだろ!?」
「別のものです、きっと。幽霊退治なら僕らなんか呼びません。怖いなら犬でも連れていきましょう。幽霊は犬を怖がるってテレビで霊能者の先生が言ってました」
その幽霊は人を殺す。
確かに死んだはずの人間を複数の人間が目撃し、その近くで村人がひとり外傷もなく冷たくなっている。しかも幽霊(仮)は一種類じゃなく、数年前に死んだ子供から十何年前の町長まで出たそうだ。
「なあ、それ、昼は出ないの」
「昼にも出ます」
「じゃあ昼行こう」
八戒は俺を無視して坊さんに真顔でこう言った。
「この寺で犬は飼われてませんか」
「おりますよ。2歳のパグが」
オオカミぐらい飼え。
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