千年の居留守
act9
生きてる間に誰にも迷惑もかけたくねえし誰も泣かせたくねぇけど、死んだ時にも誰にも迷惑かけたくねえし誰も泣かせたくねぇな。
いて良かったと思われて、いなくなって良かったと思われたい。
両方は無理か。
だよな。
難しいなぁ。生きるのも死ぬのも。
俺は犬をまた懐に突っこみ、八戒とさっき降りてきた山道をゆっくり登った。
「…雨が降りますね」
「分かんの?」
「何となく」
目を凝らすと空が動いて見えた。いや、雲だ。厚い雲。
夜明けが近くなって余計に底冷えがする。俺が震えたり犬を抱き締めたりと全身で寒いことをアピールしているのに、八戒はといえば暑かろうが寒かろうが同じ顔だ。こいつはいったい動じるということがあるのだろうか。怒鳴っても笑ってもどこかさらっとしてて掴み所がない。昔からこうなのか、動じすぎて麻痺したのか。
一度泣いたな。何でだっけ。
抱き締めそうになってあせった。
「…幻覚だとしたら死因は暗示にかかって向こうに連れて行かれるっていう思いこみによるショック死ってことですかね」
八戒は斜め上を見上げたまま呟いた。
「…恨まれてればなあ。俺、母さんに恨まれてたしな。びびった」
「僕は姉には恨まれてないと思うんですけど」
「じゃあ平気じゃん」
「でも愛されすぎてましたから。恨まれるのも愛されるのも同じようなもんなのかもしれませんよ」
八戒の言葉について考え始める前に、上着の裾を掴まれて俺は立ち止まった。
「ご苦労様です。どうでした?幽霊は出ましたか」
寺の坊さんがいた。
寺で見たのと同じように穏やかな物腰で、さっき俺が蔦をはらった墓石の前にしゃがんで石を撫でていた。
「あの世というのはね。須く地獄なんですよ」
「…見てきたみてえだな」
坊さんは、微笑んだ。
「見てきました」
耳元で不意に八戒の浅く早い息づかいが聞こえた。
足袋に泥がついてない。こんなにぬかるんだ山道なのに。
「ひとりで耐えるには辛すぎる闇です。でも大勢いればね。寂しくないでしょう。自分だけが苦しいのだと思うから人を恨む。みんな辛いんだと悟れば大概の苦痛は耐えられるものです。…この世でも同じことですが」
微笑みが深くなる。ああ、この顔見たことがある。仏像やなんかが浮かべてる笑顔。
「与えられたものに日々感謝して生きていれば死者の姿なんかに攫われることはないんです。この世に不満を抱いているから、この世の苦痛から逃げることを考えているからつけこまれる。そういう心の弱い方はあちらに行って御覧になればよろしい。行って己がどれほど恵まれていたか、死者の孤独が如何ほどのものか悟ればよろしい。私も僧侶の身の上で弱かった。あちらに行って初めて悟りました。そして戻って参りました。あの世とこの世の両方のお役に立つために。それが御仏のご意志です」
坊さんはゆっくり立ち上がった。
悟浄。あの寺は先代が亡くなってからしばらく無人だったんだそうですよ。
そこにいつの間にか、あの方が。
先代と同じ説法、先代と同じにまるで何年も住んでらしたようにこの町にもお詳しくて。
だから町の方は、先代の身内かお弟子さんかと、咎めもせずにそのまま。
「…あんたの理屈はともかく、人殺しを野放しにはできねえな」
坊さんは錫杖を向けても笑顔を崩さない。
「死にたがっていた方をお連れしただけです。それに私は人間ですよ。私を殺せば貴方が人殺しじゃありませんか」
「あんたもう死んでるんだろ。人殺しもクソもねぇじゃん」
「死んだのは体だけです。大事なのは心です。心は死にません。永遠に」
「あ、そう」
俺には生きるの死ぬの心の体の言われてもピンとこなかったが、ややこしいのは嫌いだ。死んだ奴が目の前で喋ってたらややこしいじゃねえか。色々と。
「八戒、どうすりゃいいの?殺していいのか?」
「ええ」
八戒はあっさり答えた。普段どおりだ。さっきの荒れた呼吸は気のせいか。
「その後でヒトガタを封印しないとまた誰かの体使って戻ってきますけど」
「ヒトガタ?」
「魂がそこに仮住まいするんです。生き物の形した媒体で式神みたいなやつです」
「詳しいな」
そのヒトガタがお宝か。しけてんな。いや、魂を入れとけるもんなら相当なお宝か。まあ何でもいいけど。
坊さんはまだ微笑んでいた。
「残念ですね。折角この体に馴染んできたところでしたのに。単純でものを深く考えない方というのは始末が悪い。玄奘三蔵様も大した人選をなさった」
失礼な。
「いっこだけ聞いていいか似非坊主」
「似非とは失礼な」
お互い様だ。
「幻覚で母親を見たけど、見るまで忘れてたぜ。もっと強烈な死に方した奴がいんだけど何で出なかったの。身内しか出ねえのか?俺、母親と血ぃ繋がってねえんだけど」
坊さんは、何故か八戒を見た。
「…それは変ですね。その方、本当に亡くなったんですか?」
「美味しいお茶をありがとうございました」
八戒は俺の腕をそっと押さえると前に出た。
雨のせいで多少は掘りやすい。
それでも俺と八戒は泥と雨で全身ぐちゃぐちゃになりながら結構苦労して土と格闘し、できた穴に坊さんの死体を放り込んで、その上に犬の小さな体をそっと置いた。
「可哀相に」
呟いた八戒がそっと頭を撫でてやり、ずっしり重い土を少しずつかぶせた。闇の中へ。
八戒が坊さんを葬ったその瞬間、懐に突っこんでいた犬が俺の首筋にいきなり噛みついた。あと1センチずれてたら、八戒が犬を殺すのを一瞬でも躊躇ったら、俺は危うくあの世行きだった。小さな体が動かなくなった後も肉に食い込んだ顎を外すのがまたひと苦労で、その作業の途中で大粒の雨が降り出した。
「…坊さん、犬に移ったのか。器用…」
「まだ喋っちゃだめです」
俺の首から噴きだして八戒の手を汚した血もあっと言う間に流れて、泥だか汗だか分からなくなる。
「すぐ塞ぎますから。…痛いですか?」
「うん。泣いていい?」
「どうぞ」
八戒の掌が熱くなる。哀しいな。何にも悪いことしてないのにな。バケツをひっくり返したような土砂降りだし、折角だから泣こうと思ったが何について泣けばいいのか分からなかったのでやめた。
「やめたんですか?見たかったのに」
八戒はいつもいつも俺の気持ちを綺麗に掬い上げる。
だから、ほんとは知らないふりをしていても良かった。
このままでも良かった。
口にしたら自分がどうなるか分からない。
言うな、という意志だろうか、御仏だか神様だかの。傷を塞いでもらった後も喋るたびに小骨がひっかかったみたいにズキズキ痛んで声がうまく出ない。
「余程帰りたくなかったんでしょうね、あっちに」
八戒。八戒。八戒。八戒。八戒。
名前が記号なんて嘘だ。少しずつ少しずつ舌に馴染んで、溜息のように自然に口から零れる。呟くだけで気持ちが逸る。呪文のように。何て不思議な言葉だ。何て不思議な。
なのに。なんで。
俺は間違った。こんな正解なら、こんなに好きになる前に聞き出すんだった。
「…我が儘だな」
八戒は泥だらけの手の甲を気にも止めず頬を拭った。
「…ですね」
「死んだ奴は大人しく死んでろってな」
「…ですよね」
俺は大きく息を吸った。
「いつまでとぼけんだ」
八戒はゆっくり顔を上げた。
ベッドはいつも貴方が譲ってくれてたし。
それはそうする理由があってそうしてたんです。
今の貴方と同衾する理由ありません。
そりゃそうだ。そりゃそうだろう。
怪我してたんだから。夜中に熱出すから何度も添い寝してやったよ。
忘れる訳がない。一緒に住んでた。一緒に寝てた。
悟能。
なんで戻ってきた。
なんでその姿で。
そんなこと、俺が望んだか。
俺が一度でも望んだか。
地面に叩きつける雨の音がもの凄い。葉を打つ水音が耳鳴りのようで、自分の声もよく聞こえない。
あいつは嫌いだったけど、俺はわりと好きだな。
何もかも濡れて輪郭がぼやけてひとつになるのが。
声も音も水も涙も血も空も木も地面も鳥も犬も俺もこいつも全部曖昧になるのが。
雨が止んだらお終いだけどな、そんな錯覚。
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