act.10


「八戒。弟どうした」
 頬杖をついたまま視線だけあげた八戒は、教室に悟浄がいないことにやっと気がついた。
 授業は教科毎に成績順で振り分けられるので、極々たまに兄弟が同じクラスになる。要するに、悟浄の得意科目と八戒の苦手科目が重なった時に。
「探してきます」
「欠席じゃないんだな?だったら……おい!八戒!」
 八戒は喚く教師を無視してさっさと教室を出た。そもそもが苦手教科なんだからやる気も出ない。八戒は往々にしてこんな態度だったが、悟浄のほうは至極真面目だ。赤の他人に金を出してもらって入った学校をさぼる訳にはいかないと、常に義理堅く出席する。その悟浄がいないということは。
「…体調不良?」
 さては酔ったか。
 悟浄は車に弱いのだ。大概は同乗者と話すか運転手と喧嘩しているので酔わずにいられるが、今日は八戒が考え事に夢中で黙りこくっていたうえに、運転手と口論を始めた悟浄をうるさいと怒鳴って黙らせてしまった。ああ、そうだった。そういえば顔色が悪かった気がする。だったら言ってくれればいいのに。
 八戒は自分と悟浄の両方に腹を立てて舌打ちした。考え事を始めるとすぐ目が見えなくなる癖は年々ひどくなる一方だ。
 手洗いをのぞくと、一番奥の個室から煙がたっていた。
「悟浄!」
「うわ!」
「何してんです堂々と煙炊いて。1限始まってますよ」
「…おまえは何してんだよ」
「探しに来ました」
「嫌いだもんな仏語」
 悟浄の口調は極普通だ。
「吐きました?車?」
「あー…ちょっとな。ゆうべの酒も残ってて」
「ごめんなさい。気がきかなくて」
 悟浄はしばらく黙ったあと「こちらこそ」と呟いた。
「貴方のせいじゃありませんからね」
「何が」
「責任感じてるんだったら、貴方のせいじゃありませんからね。遅かれ早かれ気付いたんです。時期が早まっただけです」
 だといいが。
 ゆうべ悟浄はうっかりと、本当にうっかりと、姉への想いが恋愛感情だと八戒に気付かせてしまった。
 八戒を兄だと思ったことがないのと同じに、花喃を姉だと思ったこともない悟浄にとって、花喃はあくまで「八戒の姉」だ。ただの女だ。だから八戒の今の心境をまるで想像できない。それに姉に対しては完全に受け身の八戒だから、悟浄さえ突っ込まなければ一生気付かないまま終わったかもしれなかった。
「…軽蔑します?」
「別にしねえよ。尊敬もしねえけど」
「でしょうね。貴方は何もしないんですよね。他人事ですもんね」
 悟浄の顔は見えないが、煙が綺麗な輪っかになって上がってきたので、なだめられていると分かった。八戒は時々悟浄に、丸い煙を見せてくれとせがむのだ。
「僕、花喃にこれを言うべきでしょうか。黙ってるべき?」
「変な質問だな」
 悟浄は妙にのんびりと言った。
「今日あたり苛ついた花喃にひっぱたかれて、洗いざらい白状させられるに決まってる。俺だったら叩かれるだけ損だからさっさと言うね。俺だったらだけど」
「悟浄!」
 不意に八戒は扉に額を押しつけた。
「ふられるのはいいんです!全然!」
「…そうなの?」
「でも両思いだったらどうしよう!」
「おいおい」
 悟浄は八戒が扉に顔をぶつけるのも構わず勢いよく戸を開けた。
「そんなこと言われてから悩めよ、自信家だな」
「言われてからじゃ遅いでしょう」
「言われる前じゃ早いだろ」
 八戒にとって、姉に拒絶されることは何でもなかった。そうなっても元に戻るだけだ。告白すると友達に戻れないというのはよく聞くが、姉弟に戻れない訳はない。八戒が一番怖いのは、互いに同じ想いでいて、自覚することによって穏やかだったものが燃え上がってしまってしまうことだ。世間的にまったく許されない恋愛について、姉が悩むことだ。
「悩ませたくないんです」
「ならやめろ」
 悟浄は吸い殻を、八戒の肩越しに投げ捨てた。
「例えおまえが赤の他人だったとしても、恋愛すりゃのべつまくなし悩ませるよ」

 さて、スタンダールはこう書いている。

 廊下に教師の声が響いていた。八戒には聞き取れなかったので、悟浄が小声で訳した。
「…恋は甘い花である。しかしそれを摘むには、恐ろしい断崖のはしまで行く勇気がなければならない」
 しかし実際問題として、勇気があろうがなかろうが人は恋する。苦かろうが。地獄だろうが。


「天蓬様から言伝です。夕方からお時間を頂けないかと」
 次のノックは三蔵付きのメイドだった。受け取ったメモを三蔵は一瞥し、見事な投球で屑籠に放り込んだ。
「悟空、今夜も我が家の晩餐会は中止だ。俺と天蓬が留守にする」
 悟空は返事の代わりに溜息をついた。兄弟全員にまとめて会える機会がいかに貴重かを思い知らされる。特に今の話を聞いた後では、どうしても捲簾と天蓬、ふたり一緒に会いたかったのに。
「金蝉は帰ってくるみてえだが。ほらみろ、もう訳が分からねえ。仕事がないなら何で自分で会食に出ね…」
 三蔵はふと言葉を切った。
「三蔵?」
「…今晩は西館に入るな。庶子連にもそう言っとけ」
「なんで?」
 三蔵はどっかと腰を下ろした。
「さ、続きだ。あと3時間はたっぷり勉強できる」

 夕方のお茶の時間に三蔵は正装で出かけ、入れ替わりに悟浄と八戒が戻ってきた。
 兄を見送りに出て出迎える羽目にもなった悟空は、玄関先で3人が、何の会釈もなく目も合わさずにすれ違うのを複雑な気持ちで眺めた。
 悟空はまず三蔵の言葉を伝え、ふたりは目を合わせて首を傾げた。
「…どう思います?」
「天蓬と三蔵が留守。てことは残るのは金蝉と捲簾。…へえぇぇ?」
 悟浄は面白そうに煙を吐いた。
「捲簾がなんかしたのかな?」
「わざわざ伯爵が飛んで帰って説教するぐらいだから人でも殺したんじゃないですか。やだやだ、あの人嫡子と揉めると必ず花喃にちょっかい出しにくるんです。悟浄、来たら貴方止めてくださいね」
「あ、そうだった。悟空、今晩は西館だけじゃなく双子の部屋にも入るなよ。そろそろ仲直りしてもらわないとおまえも困るだろ?」
 悟浄がいつもの癖で頭を撫でようと延ばした手を、悟空はさっと避けた。
「…何?」
「悟浄、俺に兄貴だって言ったのに」
「へ?」
「悟浄は学校出たらこの家と縁切るって聞いた!」
 八戒は紅茶を注ぎ損ねてクロスに派手な染みを作り、悟浄は宙に浮いた手をそのままに口を開けた。
「あー……えーと…あ、三蔵か?」
「ほんとなの?」
「…そのつもりだけど」
「悟浄の嘘つき!」
 悟空にほとんど涙目で怒鳴られたにも拘わらず、悟浄は何故か頬が緩みそうになって慌てて耐えた。
「や…嘘ついたつもりは…ほら兄貴っていっても色々あるし」
「意味分かんねえ!」
「悪かった。今は間違いなく弟だし、弟だろうがなかろうがおまえのことは好きだよ。でも傷つけたなら悪かった。謝る。ごめん。この通り。…嫌いになったか?」
 悟空はこの家に来て初めて直球で好意を示されたので混乱し、収拾がつかなくなって目の前のスコーンを掴んだ。悟浄は思わず椅子ごと後ずさった。
「なってないけど怒ってる!ていうかしばらく怒る!」
 しっかりおやつを握って悟空が部屋を飛び出して行き、けたたましい扉の残響が収まるまでの間、八戒は黙ったままクロスを拭い続け、悟浄は無意識に息を止めたまま八戒が口を開くのを待った。
「…悟浄」
「…はい」
「僕も初耳なんですけど」
「…金蝉にしか言ってなかったな」
「理由を聞いたら、教えてくれるんでしょうか」
 八戒の口調は穏やかだ。怒りより諦めが勝っている。
 この家でただひとり、徹底的に対等なただひとりの男として、悟浄は八戒のことは好きだったが、だからこそ姉との一世一代の対決を前にして気持ちが忙しい八戒に、自分の秘密を背負わせる自信はなかった。
「それを言わないと、俺はおまえを信用してないことになる?」
「…ずるいなぁ」
 染み抜きを諦めた八戒はくるりと悟浄に向き直った。
「じゃあひとつだけ。それは独角に関係しますか?」
 悟浄は頷いた。八戒はにっこり笑って礼を言い、しばらく怒るから出ていけと申し渡して悟浄を部屋から追い出した。
 それから、花喃が戻ってくるまでの時間をひとりで過ごさなければならない状況に急に陥って、落ち込んだ。

 悟空と悟浄が自室でごろごろ時間を潰し、天蓬と三蔵が会食の席でつまらない時間を過ごし、花喃と八戒が部屋に鍵をかけて閉じこもった頃、金蝉は侍従を走らせて、捲簾を懲罰室に呼びつけた。
「懲罰室でございますか?」
「今そう言った」
「ということは懲罰をなさるのでしょうか?」
 同じ事を二度言わされるのが大嫌いな金蝉は、だが長年仕えた使用人がそれを知らない訳がないので黙って続きを促した。
「捲簾様は本日大きな商談をまとめられたとお聞きしています。お褒めの言葉がありこそすれ」
「お褒めの言葉は勿論あるとも。それはそれ、これはこれだ。呼べ」
 捲簾を待つ間、金蝉は窓枠に腰かけて鞭を軽く扱いた。
 書斎で話を聞き、本人に非を認めさせたうえで懲罰室に呼ぶのが筋だとは思うが、今日まったく唐突に理解不能な行動に出てくれた最も厄介な弟とは、一秒でも早く事を済ませたかった。この部屋では照明をぎりぎりまで落とすから、顔もはっきり見ないで済む。
 …以前の懲罰はいつだったかな。
 金蝉はぼんやり考えた。悟浄だったか。三蔵だったか。
 金蝉自身が一番多く懲罰を受けたので痛みはよく知っている。皆、声こそ必死で耐えるが、どうしても痛みより衝撃で涙が出る。部屋が暗いのはそのためだ。痛み以上の屈辱を与えずに済むように。
 あれは、打たれる時に目を瞑るのとそうでないのがいるのは何故だろう。金蝉は最初からしっかり瞑って歯を食いしばったし、三蔵や双子も瞑る。悟浄はおそるおそるという感じで片目を開けているが、最後には瞑る。天蓬と捲簾は瞑らない。
 その捲簾は朝食に降りて来るのとまったく同じ調子でやってきて、部屋に入り、自分から鍵をかけた。
「お疲れ様」
「何故殺した」
 捲簾はしばらく黙っていたが、言い淀んでいるのではなく間をとっているだけだと明らかに分かる黙り方だった。この男は人ひとり葬っておきながら、そしてその始末を自分にさせておきながら、鞭で打たれる気などさらさらないのだ。
 そしてやけに静かに言った。
「あの女は伯爵家を侮辱した」
 金蝉は手に持っていた鞭を勢いよく書机に置いた。
「彼女が天蓬の見合い相手だったことは知ってたか?」
「自分でそう言ってたな」
「おまえの知り合いだった?」
「この3年間寝まくった」
「証明できるか?」
「あの女の寝室の見取り図なら描ける。体の具合も言えるが確かめようがねえな、もうビルの土台にしちまったし。メイドが2ヶ月掃除をさぼってたら部屋に俺の髪の1本ぐらいは残ってる」
 捲簾が開き直ってるのか、怒ってるのか、自分をからかってるのか、金蝉にはさっぱり分からなかった。
「…話せ」
「あの女の家は確かに爵位持ちだが没落寸前で金策に焦ってる。金があれば成り上がりだろうが平民だろうが何でも良かった。この時点で我が家に対する侮辱だ。俺と遊んだ後に結婚が無理ってんで天蓬に目をつけた。俺から奴の愛読書まで聞き出して媚びてかかった。この時点で天蓬に対する侮辱だ。あんたが金髪でなかったらあんたの前で服を脱いだ。この時点であんたと、ついでに三蔵に対する侮辱だ。最後に、この俺と秘密を持ちたがった時点で俺への侮辱だ」
「…おまえがそんなに気高いとは知らなかったな」
「多分あんたの弟なんだろ、俺は」
 深い意味もないだろうこのセリフは金蝉を、密かに、酷く打ちのめした。
「そりゃ…そうだろう。何言ってんだ」
「そもそも」
 捲簾は3歩であっという間に金蝉の目の前までやってきた。
「実家の没落ぶりもあの女の男狂いも、あんたが本気で調べりゃ分かったはずだ。なのにあんたは男爵を信用しきってクソ女の上辺に騙され、あんたの可愛い弟の一生の大事だってのにその一番大事なところで手を抜いた。これはあんたのミスだ」
 金蝉が口を開きかけたのを、捲簾が掌で塞いだ。そして額が触れるか触れないかの距離で、もう一度繰り返した。
「これは、あんたのミスだ、伯爵」
 どうやらそのようだ。
 金蝉はのろのろと、捲簾が差し出してきた鞭を受け取った。
「…何故、懲罰の時に目を瞑らない?」
「は?さぁ」
 出し抜けな質問に、捲簾は瞬きをひとつして首を傾げた。
「痛いのが好きなのかも」
「…柳井の件ではご苦労だった」
「どういたしまして」

 捲簾が懲罰室を出ると帰宅したばかりの天蓬が正面玄関にいて、上着を脱ぎかけた姿勢でこっちを見上げていた。端から見れば兄弟が熱心に見つめ合っている図だろうが、捲簾は天蓬が自分を通り越して、すぐ後ろにいる誰かを凝視しているのを重々知っていた。
 …誰かな。
 天蓬の顔色は酷く悪いが、単に寝不足かもしれない。捲簾が階段を降りていくと、天蓬の視線は捲簾の動きにぴったり合ったままついてきた。
 誰かな、俺の後ろに張り付いてるのは。まさか俺とは縁もゆかりもない奥方じゃないだろう。
 俺が殺したおまえの見合い相手か?
 でなきゃおまえが殺した俺の妻か?
 前者の想像は不愉快だったが、後者の想像は悪くなかった。捲簾は思わず微笑して天蓬の前を素通りし、今朝花喃に相談にのって欲しいと言われたことを急に思い出して、南館に足を向けた。
 南館に入った途端に鉢合わせした悟空は、捲簾を見るなり悲鳴を上げた。



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